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『やすらぎ園』― 五十年の沈黙  作者: キロヒカ.オツマ―


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第十章 県央福祉会

特別監査が入ってから一週間、やすらぎ園は表向き平穏を取り戻していた。熊谷は理事長職を「健康上の理由」で辞任すると発表し、表舞台からは姿を消した。地元紙は「長年の功労者、勇退」という見出しでその辞任を報じた。県央新報だけが、小さな続報で「特別監査の詳細は継続中」と触れるに留まった。


永野はその報道の温度差に、強い違和感を覚えた。


「まるで、何もなかったことにしようとしているみたいだ」


宇佐美が持ってきた資料を、面会室のテーブルに広げながら永野は呟いた。


「県央福祉会について、調べがついたか」


「はい。正式名称は社会福祉法人県央福祉会。県内に六つの特養ホームと、四つのデイサービス施設を運営している、県内最大級の福祉グループです。理事長は榊原輝男、七十二歳」


宇佐美はノートを開いた。


「榊原輝男は、沢渡憲一議員の後援会の副会長を、もう十五年近く務めています。県央福祉会は、この五年間で急速に施設数を増やしていますが、その多くが『経営難に陥った小規模施設を、地域福祉の維持のために引き受ける』という形での買収です」


「熊谷が二十年前に使った手口と、同じ構図だな」


「ええ。しかも――」


宇佐美は一枚の書類を取り出した。


「これは県の福祉政策課への情報公開請求で入手した資料です。県央福祉会が過去五年間に引き継いだ四つの施設のうち、三つで、後見制度を利用した入所者の資産管理に関する苦情が、監査当局に寄せられていました。しかし、いずれも『改善指導』止まりで、正式な処分には至っていません」


永野は資料に目を通しながら、背筋が冷たくなるのを感じた。


「つまり、熊谷のやり方は特殊な悪ではなく、この業界の一部に定着した『やり方』だということか」


「そう考えるのが自然です。そして、今回のやすらぎ園の件も――」


宇佐美が声を落とした。


「経営権が、県央福祉会に移る話が、監査結果が出る前から、すでに水面下で進んでいるという情報があります」


永野は、桐生から渡された焦げた紙片のことを思い出していた。「やすらぎ園継承スキーム」。あの文字の意味が、ようやく明確な輪郭を持ち始めた。


「宇佐美、これはつまり、こういうことか。沢渡議員は、熊谷が長年不正を続けてきたことを知っていながら、あえて泳がせていた。そして、しかるべきタイミング――施設の資産や利権を、自分の後援会関係者である榊原に引き継がせるのに都合の良いタイミングを見計らって、俺たちの動きを利用する形で、熊谷を切った」


「僕もそう見ています。永野さん、あなたが視察団の前で暴露したことは、間違いなく正義に基づいた行動でした。でも、それが結果として、より大きな力学の中の『駒』として使われた可能性がある」


永野は、深く息を吐いた。田中省吾が死んだあの夜から二十年、自分は正義を貫くために動いてきたつもりだった。だが今、目の前にあるのは、正義そのものが誰かの権力闘争の道具として利用される構図だった。


面会室を出た永野は、廊下で桐生洋子とすれ違った。桐生は以前とは違う、どこか落ち着いた表情をしていた。


「永野さん。監査の担当者から連絡がありました。私自身の処分については、内部告発者としての情状が考慮されるようです。ただ……」


「ただ?」


「新しい経営母体が決まり次第、施設の人事は一新されるだろうと、それとなく言われました。私の立場がどうなるかは、まだ分かりません」


「県央福祉会の名前は出ましたか」


桐生は驚いた顔をした。


「……ご存知だったんですか」


「今、知ったところです」


桐生は声を潜めた。


「実は、監査が入る前日、理事長室に、見慣れない男が訪ねてきていました。名刺交換の場に居合わせたんですが、『県央福祉会 事務局次長』という肩書でした。理事長とその男は、一時間近く、密室で話し込んでいました」


「その日付は」


「視察団が来る、二日前です」


永野の中で、パズルの最後のピースがかちりと音を立てて嵌まった。


熊谷が失脚することは、すでに二日前から既定路線だった。俺たちの証拠集めは、その筋書きを早めただけの、いわば「表向きの理由」として利用されたに過ぎない。


「田村さんを呼んでくれ」


永野は言った。


「これは、俺たちだけで抱えられる話じゃなくなった」


その夜、三人が資材置き場に集まった時、田村は資料を見て、拳を強く握りしめた。


「じゃあ、私たちがやったことは、結局……熊谷という一人の悪人を、また別の悪人に入れ替えただけだったってことですか」


誰も、すぐには答えられなかった。

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