第十一章 脅威
「入れ替えただけ、というのはまだ早計だ」
永野は、資材置き場の薄暗い光の中で、努めて冷静な声を保った。
「熊谷は少なくとも、表舞台から引きずり下ろされた。県央福祉会がどういう組織か、まだ何も証明されていない。証拠もないまま憶測で動けば、俺たちが今まで積み上げてきたものまで、信用を失う」
「でも、時間がないんです」
田村の声には、抑えきれない焦りがあった。
「新しい経営母体が決まってしまえば、また同じことが繰り返される。桐生さんの立場だって危うい。今度こそ、先手を打たないと」
「先手を打つというのは、具体的に何をするつもりだ」
田村は一瞬、口ごもった。
「……榊原輝男に、直接会いに行こうと思っています」
「馬鹿な」永野は思わず声を強めた。「相手がどういう組織か分かっていない状態で、単独で接触するのは危険すぎる。あんたの祖母さんの件を思い出せ。声を上げようとした人間が、どうなったか」
「だからこそです! 私はもう、待っていることに耐えられない」
その夜、二人の議論は平行線のまま終わった。永野は田村の目に宿る焦燥を見て、二十年前の自分自身を思い出さずにはいられなかった。あの時の自分も、正義感だけで突っ走ろうとして、結局は田中省吾を守り切れなかった。
翌朝、永野は宇佐美に電話で相談した。
「田村さんを止めたい。だが、頭ごなしに止めても、彼女は言うことを聞かないだろう」
「分かりました。僕の方で、榊原輝男についてもう少し掘り下げてみます。少なくとも、彼女が単独で飛び込む前に、相手の全体像を掴んでおくべきだ」
宇佐美の調査は、三日で思わぬ結果をもたらした。
「永野さん、榊原輝男という男、単なる福祉法人の理事長というだけの人物じゃありませんでした」
面会室で、宇佐美は緊張した面持ちで資料を広げた。
「彼は元々、県の福祉政策課の職員でした。十五年前まで、行政の内部にいた人間です。退職後、当時まだ小さかった県央福祉会に天下りする形で理事長に就任しています」
「行政官僚上がりの福祉法人経営者、というわけか」
「それだけじゃありません。彼が福祉政策課にいた時期、実は――」
宇佐美の声が、さらに低くなった。
「田中省吾さんが告発しようとしていた、二十年前の別の施設の不正案件。その施設への監査を担当していたのが、当時の榊原輝男だったんです」
永野は、資料を持つ手が震えるのを感じた。
「監査担当者が、不正を見逃した、ということか」
「見逃した、というより……揉み消しに関与していた可能性があります。当時の監査報告書には『特段の問題は認められない』と記載されていますが、その三ヶ月後に、田中さんは亡くなっています」
熊谷、榊原、そして当時から――あるいは今も――影で糸を引く沢渡。三者の関係は、単なる利害の一致ではなく、二十年以上にわたって積み重ねられてきた、共犯関係の歴史だった。
「田村さんに、これを見せないと」
永野は言った。
「単独行動を止めるためじゃない。榊原に接触することがどれだけ危険か、正しく理解してもらうためだ」
だが、面会室を出た永野を待っていたのは、思いもよらない知らせだった。
「永野さん」
桐生洋子が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「田村さんが、今朝から施設に出勤していません。連絡も取れないんです」
永野の背筋を、冷たいものが走った。
「携帯には?」
「何度もかけましたが、電源が切られています」
「最後に彼女を見たのは」
「昨日の夜、勤務を終えて帰る時です。……何か、いつもと違う様子でした。すごく思いつめたような顔をしていて」
永野は、昨夜の議論を思い出した。「私はもう、待っていることに耐えられない」――あの言葉の重さを、自分は見誤っていたのかもしれない。
「桐生さん、県央福祉会の本部の住所は分かりますか」
「調べれば……でも、永野さん、まさか」
「田村さんは、榊原に直接会いに行った可能性がある」
永野は松葉杖を握りしめた。二十年前、自分は情報提供者を守れなかった。今度も、同じ過ちを繰り返すわけにはいかなかった。




