第十二章 対峙
県央福祉会の本部は、県庁所在地の中心部に建つ、真新しいビルの三階にあった。永野は桐生の運転する車で駆けつけた。松葉杖をつきながらエレベーターを降りると、受付の女性が怪訝な顔を向けてきた。
「田村美咲という者が、こちらに来ていませんか」
「お約束はございますか」
「ない。だが緊急の用件だ」
押し問答になりかけたその時、奥の廊下から聞き覚えのある声が響いてきた。田村の声だった。
「――だから、これを見てくださいと言ってるんです! この施設は、後見制度を使って十一人の入所者から資産を奪って、七人が死んでるんです! それを知っていて経営権を引き継ごうとしているんですか!」
永野は受付を押しのけるようにして、声のする方へ進んだ。奥の応接室のドアが半分開いていた。中には田村と、恰幅の良い初老の男が向かい合っていた。榊原輝男だった。
「田村さん」
永野が声をかけると、田村が振り返った。その顔には、疲労と焦りが色濃く滲んでいた。
「永野さん……」
「お客様は、こちらの方ですか」
榊原は、驚くほど落ち着いた様子で永野を見た。目つきは穏やかだが、その奥に、何かを見透かすような冷たさが宿っていた。
「永野雅士さんですね。やすらぎ園の件、お噂はかねがね」
「お噂、というのは、こちらの動きを、あなたも把握していたということですか」
榊原は微笑んだ。
「福祉業界というのは、思っている以上に狭い世界です。永野さん、あなたが元記者だということも存じ上げています」
その口調には、隠す気配すらなかった。むしろ、こちらの手の内を全て把握していることを、あえて誇示しているようだった。
「単刀直入にお聞きします」
永野は言った。
「二十年前、田中省吾さんの告発を、あなたが監査担当者として揉み消した。それは事実ですか」
榊原の表情は、ほとんど変わらなかった。
「田中さんという方のことは、記憶にありません。ずいぶん昔のことですから」
「熊谷とは、二十年以上前からの繋がりがあった。そして今回、彼を失脚させるタイミングを、沢渡議員と共に計っていた。違いますか」
「永野さん」
榊原は、ため息をつくように言った。
「あなたは、正義感の強い方のようだ。ですが、一つだけ申し上げておきたい。この業界には、あなたが思っているような『善』と『悪』の単純な区分けは存在しません」
「どういう意味ですか」
「熊谷理事長のやり方は、確かに褒められたものではなかった。個人的な利益のために制度を悪用していた。それは事実です。しかし、私たちがやっていることは、それとは違う」
榊原は、ゆっくりと立ち上がった。
「うちのグループは、経営破綻寸前の小規模施設を、次々と引き継いでいます。それらの施設に共通しているのは何だと思いますか。身寄りのない、声を上げられない高齢者を多く抱えているという点です。誰も引き受けたがらない施設を、うちが引き受けている。熊谷が『美談』として演じていたことを、うちは実際に、地道にやっているんです」
「その裏で、同じように資産を吸い上げているとしたら、それは美談どころか、より巧妙な収奪じゃないですか」
榊原の目に、初めて鋭さが宿った。
「証拠はあるんですか」
「まだない。だが、今日からそれを探すつもりです」
「探すのは自由です。ですが永野さん」
榊原は、田村の方に視線を移した。
「田村さん、あなたのお祖母様の件は、私も存じ上げています。当時のやすらぎ園の後見人選任について、いくつか不自然な点があったことも把握しています」
田村の顔が強張った。
「それを知っていて、何も」
「私は当時、この業界にいませんでした。だからこそ、今、正しくやり直そうとしている」
榊原の言葉には、開き直りとも、ある種の誠実さともつかない、不思議な説得力があった。永野は、この男が敵なのか、それとも本当に別の何かなのか、にわかには判断がつかなかった。
「今日のところは、お引き取りください」
榊原は静かに言った。
「私たちは、正式な手続きを経て、やすらぎ園の経営を引き継ぐつもりです。もしそちらに証拠があるのなら、正規の窓口――県の指導監査室に提出するのが筋でしょう。ここで騒ぎ立てても、何も変わりません」
永野は、田村の腕を掴んで応接室を出た。ビルを出たところで、田村はようやく涙をこぼした。
「私……間違ったことしましたよね」
「間違ったかどうかは、まだ分からない」
永野は、ビルを振り返った。三階の窓に、榊原の影が見えた気がした。
「だが一つだけ確かなことがある。榊原は、俺たちの動きを完全に把握していた。それはつまり――」
永野の脳裏に、ある可能性が浮かび上がった。
「俺たちの周りの誰かが、榊原側に情報を流している」




