第八章 談話室
視察団は、予定通り午前十時に到着した。
黒塗りの公用車から降りてきたのは、県福祉政策課の課長・大場、若手職員の女性一人、そして社会福祉法人指導監査室の担当者。少し遅れて、地元紙「県央新報」の腕章をつけた記者が一人、カメラを首から下げてやってきた。
熊谷徳蔵は、まるで舞台役者のように振る舞った。玄関ホールで深々と頭を下げ、五十年の歴史を語り、施設内を案内する足取りには一片の迷いもなかった。永野は自室の窓から、その一行が中庭を歩いていくのを見ていた。
十一時。談話室に呼ばれた永野は、車椅子ではなく松葉杖で、ゆっくりと歩いて入室した。部屋の中央には、テーブルを囲むように椅子が並べられ、熊谷が上座に、視察団が向かい合わせに座っていた。桐生洋子は熊谷の斜め後ろに立ち、田村美咲は配茶係としてその場に控えていた。
「こちら、永野雅士さん。半年前に交通事故で入所されましてね。当初は認知機能にも不安があったのですが、うちの職員の献身的なケアで、今ではすっかり落ち着いて過ごしておられます」
熊谷の声には、演説のような滑らかさがあった。福祉政策課の課長・大場が、穏やかな笑みを浮かべて永野に話しかけた。
「永野さん、施設の生活はいかがですか」
永野は、一拍置いてから答えた。
「率直に言って、よろしくないですね」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。熊谷の顔から、笑みが消えた。
「永野さん……お疲れのようですね。少し休まれた方が」
「いえ、頭ははっきりしています。むしろ、今日はっきり話すために、体調を整えてきました」
永野は懐から、大崎の検査結果の写しを取り出した。
「これは、この施設の嘱託医が、正式な様式で行った認知機能検査の結果です。満点に近い点数が出ています。ですが、私のカルテには、毎週『症状が進行している』という記録が、この検査の後も追加され続けています」
大場課長の表情が変わった。
「永野さん、それは……」
「熊谷理事長、説明していただけますか。なぜ、正常な検査結果が出ている入所者のカルテに、虚偽の症状悪化が記録され続けているのか」
熊谷の顔が、赤黒く染まった。
「永野さん、あなたは何を勝手なことを――施設長! これはどういうことだ!」
熊谷が桐生を怒鳴りつけた瞬間、桐生は震える手で、ポケットからICレコーダーを取り出した。
「理事長。……もう、隠せません」
「桐生! お前、何を!」
「これは、二週間前、理事長ご自身が面談室で私に指示された内容の録音です」
桐生が再生ボタンを押した。小さなスピーカーから、熊谷の低い声が流れ出した。
『あんたの息子の入院費、あと三ヶ月分、うちの理事会枠から出してやってるのを忘れたのか』
『後見人にはいつも通り、うちの顧問の司法書士を立てる。年金は口座管理、資産は施設の預り金扱いにして――』
談話室に、熊谷自身の声が響き渡った。県央新報の記者が、慌ててメモを取り始めた。カメラのシャッター音が鳴った。
「これは……これは違法な盗聴だ! こんなものは証拠にならん!」
「盗聴ではありません。この施設の職員として、業務上知り得た不正の証拠を、正規の手続きで保存したものです」
桐生の声は、もう震えていなかった。
田村美咲が、配茶用のワゴンの下段から、クリアファイルの束を取り出し、指導監査室の担当者に差し出した。
「この三年間で後見人がついた入所者は十一名。そのうち七名が亡くなっています。全員、身寄りがなく、後見人には施設顧問の司法書士が選任されています。資産管理の記録に、不自然な引き出しが繰り返し見られます」
大場課長は、渡された書類に目を通しながら、明らかに顔色を変えていった。
「熊谷理事長。これは……大変重大な話です。県としても、このまま看過するわけには……」
「待て、待ってくれ! これは全部、誤解だ! 職員の連携ミスだ、意図的なものでは決して――」
「理事長」
永野が、静かに口を開いた。
「二十年前、田中省吾という男が、あなたが理事を務めていた別の福祉法人の不正を告発しようとして、記事の掲載を控えた三日後に溺死しました。事故として処理されましたが、当時の理事会議事録には『情報漏洩のリスクがある職員については、然るべき方法で対処する』という記述が残っています」
熊谷の顔から、完全に血の気が引いた。
「その施設が経営破綻した後、あなたは入所者を『救済』という名目でやすらぎ園に引き取った。身寄りがなく、声を上げられない人たちを、選んで」
談話室は、完全な沈黙に包まれた。県央新報の記者が、震える手でシャッターを切り続けていた。
熊谷は、椅子から崩れ落ちるように座り込んだ。その顔には、五十年間磨き上げてきた「福祉の鬼」の仮面が、跡形もなく剥がれ落ちていた。
大場課長が、指導監査室の担当者と何事か短く言葉を交わし、それから重々しい声で言った。
「本日をもって、この施設に対する特別監査を開始します。理事長、後ほど詳しいご説明をお願いすることになります」
視察団が慌ただしく談話室を出ていく中、永野は松葉杖に体重を預けながら、窓の外の丘を見つめていた。設立五十周年の横断幕が、風に揺れていた。
だが、永野の胸の中には、まだ拭いきれない違和感が残っていた。
――あまりにも、うまくいきすぎている。
熊谷ほどの男が、これほど簡単に追い詰められるだろうか。二十年間、揉み消し続けてきた男が。
その違和感の正体は、この日の夕方、思わぬ形で明らかになることになる。




