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『やすらぎ園』― 五十年の沈黙  作者: キロヒカ.オツマ―


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第七章 前夜

視察の前夜、やすらぎ園は不気味なほど静かだった。


永野は自室のベッドに横たわりながら、これまで集めた材料を頭の中で並べ直していた。大崎の検査結果の写し。桐生が録音した、熊谷との密談の一部(桐生自身が、永野に会った翌日、意を決してICレコーダーを仕込んでいた)。田村が保管していた祖母の死亡診断書と資産管理の記録。そして宇佐美が調べ上げた、二十年前の田中省吾溺死事件の資料。


点は、少しずつ線になりつつあった。だが、まだ致命的な一手が足りなかった。


熊谷本人の口から、あるいは公式な書類の中から、これが「意図的な犯罪」であることを示す直接的な証拠。桐生の録音は状況証拠にはなるが、決定打には欠ける。大崎の検査結果は永野の正常さを証明するが、熊谷の犯意までは証明しない。


「宇佐美から連絡です」


田村が、施設の固定電話を使って外部と連絡を取れる数少ない時間帯に、こっそり永野の部屋にメモを届けにきた。


「二十年前の資料の中に、当時の理事会議事録の写しがあったそうです。田中さんが告発しようとしていた不正の内容と、それに対する『対応』が記録されているものです」


「議事録に、何て書いてある」


「『情報漏洩のリスクがある職員については、然るべき方法で対処する』――主語がぼかされていますが、その二日後に理事会に出席していたのが、当時まだ理事だった熊谷徳蔵です」


決定的な言葉ではない。だが、四半世紀近い時を隔てて、同じ「対処」という言葉が、田中省吾の死と、桐生の息子の入院費を使った脅しと、永野自身のカルテ改ざんに、静かに繋がっていく。


「田村さん、視察当日の段取りを、もう一度確認させてくれ」


「午前十時に視察団が到着。県の担当者三名と、地元紙の記者も一人同行するそうです。まず施設内を一通り案内したあと、十一時から談話室で、理事長と『模範入所者』との懇談の場が設けられます。永野さんはそこに呼ばれる予定です」


「地元紙の記者が来るのか」


「はい。福祉政策課の広報担当が呼んだみたいです。美談として記事にしてもらうために」


永野の頭の中で、計画が固まっていった。


「田村さん、頼みがある。桐生さんに、当日の懇談の場に、録音データを再生できる小型のプレーヤーを一台、こっそり持ち込んでもらえるよう頼んでくれ。それと、大崎先生の検査結果と、宇佐美が集めた資料のコピーを、視察団の福祉政策課の担当者に、直接手渡せるタイミングを作りたい」


「そんなことをしたら、永野さんも桐生さんも、その場で理事長に――」


「その場で潰されないようにするために、証人を増やす必要がある。地元紙の記者がいるなら、なおさら好都合だ。公の場で、複数の第三者の目がある状況で事実を突きつければ、熊谷も簡単には揉み消せない」


田村はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「分かりました。……永野さん、一つだけ言わせてください」


「何だ」


「私、最初は本当に、祖母の仇を取ることしか考えていませんでした。でも、永野さんと話すようになって、今は違う気がします。祖母だけじゃない、これから同じ目に遭うかもしれない誰かのために、これをやりたいと思ってます」


永野は田村の顔を見た。数週間前、廊下で不安げにメモを握らせてきた若い介護士の顔は、もうそこにはなかった。


「明日、頼んだぞ」


「はい」


田村が部屋を出た後、永野は暗い天井を見上げながら、二十年前のあの夜を思い出していた。田中省吾からの電話。震える声。「永野さん、俺は本当のことを話すべきだと思う」――あの言葉に、自分は応えることができなかった。記事は握りつぶされ、田中は死に、自分は記者人生を絶たれた。


だが今度は違う。今度こそ、逃げない。


窓の外で、丘の緑が月明かりに揺れていた。設立五十周年の横断幕が、静かに夜風にはためいていた。


明日、その五十年の沈黙が破られる。

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