第六章 視察団
視察団の来訪まで、あと五日。
その五日間、やすらぎ園は永野が入所して以来、最も慌ただしい空気に包まれた。廊下の手すりが磨き直され、レクリエーションルームには新しい絵画が飾られ、普段は開かずの間になっている屋上庭園まで整備された。まるで舞台の書き割りを立て替えるような手際の良さだった。
「県の福祉政策課と、社会福祉法人の指導監査担当が来るそうです」
田村が小声で教えてくれた。
「補助金の追加申請、今回はかなり大きい額らしくて。理事長、この一週間、ずっと機嫌がいいんです。それが逆に怖くて」
永野は大崎から預かった検査結果の写しを、田村を通じて宇佐美に密かに渡す手はずを整えていた。だが問題は、後見開始審判の確定日だった。桐生が漏らした情報が正しければ、視察団の来訪と同じ週に、家庭裁判所の審判が下りることになる。
「一度審判が確定すれば、永野さんの資産管理は正式に施設側の管理下に入ります。取り消すには、また別の手続きが必要になる。今のうちに止めないと」
田村の声には、焦りが滲んでいた。
「田村さん、落ち着いてくれ。ここで俺たちが慌てて動けば、逆に熊谷側に警戒される」
「でも、待っていたら手遅れになるかもしれないじゃないですか!」
珍しく声を荒げた田村に、永野は静かに向き合った。
「あんたの気持ちは分かる。祖母さんのことがあるから、なおさら時間が惜しいんだろう」
「……」
「だが、今ここで俺たちが持っている材料は、まだ点でしかない。大崎の検査結果、桐生の立ち聞き、あんたの祖母さんの件。それぞれは強い証拠になり得るが、繋がっていない。熊谷を本当に追い詰めるには、これを線にする必要がある」
「線にするって、具体的にどうするんですか」
「視察団だ」
永野の目に、久しぶりに記者だった頃の鋭さが宿った。
「熊谷は視察団を呼んで、施設の実績――つまり『どんな人でも見捨てない福祉の鬼』というイメージを、県の担当者に見せつけようとしている。だが、その裏で、後見制度を悪用した資産収奪と、虚偽のカルテ改ざんが同時進行している。もし視察の当日、この二つの事実を、同時に、しかも動かぬ証拠と共に外部の人間の目の前に突きつけることができたら――」
「熊谷は、言い逃れができなくなる」
「その通りだ」
だが、計画にはいくつもの壁があった。まず、永野自身がまだ「認知症患者」として扱われている以上、視察団に直接接触することすら難しい。次に、証拠となる書類は、熊谷側にいつ処分されるか分からない。そして何より、桐生洋子という不確定要素があった。彼女が土壇場で永野たちを裏切る可能性は、決して低くなかった。
その夜、永野は桐生に直接会うことを決めた。
面談室に呼び出された桐生は、永野の顔を見て明らかに動揺した。
「永野さん……こんな時間に、どうされました」
「桐生さん、単刀直入に聞きます。あなたは、俺のカルテに嘘の所見を書き続けている。それは、熊谷理事長の指示ですか」
桐生の顔から血の気が引いた。
「な、何のことか……」
「あなたの息子さんの入院費、理事会枠から出させているそうですね」
桐生は椅子から崩れ落ちるように座り込んだ。
「……誰から、それを」
「誰からでもいい。俺が知りたいのは一つだけです。あなたは、これを一生続けるつもりですか」
長い沈黙があった。桐生は両手で顔を覆った。
「私だって……分かってるんです。おかしいことは、ずっと分かってました。でも、息子は生まれつき心臓が弱くて、手術費用が……夫もいない中で、私一人ではとても……理事長がその費用を、施設の名目で肩代わりしてくれると言った時、断れませんでした」
「その代償が、入所者の人生を書き換えることだったわけですか」
桐生は涙をこぼしながら、小さく頷いた。
「桐生さん」
永野の声が、少し柔らかくなった。
「あなたを責めるためにここに来たんじゃない。あなたがこの五年間、ずっと苦しんできたことは、あなたの様子を見ていれば分かります。だが、これ以上続ければ、あなた自身も共犯として全てを失うことになる。それより――」
永野は一枚の紙を、桐生の前に差し出した。大崎の検査結果の写しだった。
「今からでも遅くない。本当のことを、記録に残す側に回ってくれませんか」
桐生は震える手でその紙を受け取った。しばらく無言でそれを見つめていたが、やがて小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……視察の日、理事長は県の担当者に、施設の『模範入所者』として、何人かを紹介するつもりです。長年入所していて、施設に感謝している人たちを選んで、感動的なエピソードとして披露する予定になっています」
「その中に、俺の名前は?」
桐生は永野を見た。
「……実は、あります。『事故で要介護になったが、施設の献身的なケアで穏やかに過ごしている』というエピソードとして。理事長は、あなたのことを、後見審判が確定した直後の『成功例』として視察団に見せるつもりです」
永野は、思わず声を出さずに笑ってしまった。皮肉なものだった。熊谷は、自ら永野を舞台の上に立たせようとしている。
「上等だ」
永野は言った。
「それなら、その舞台を、こっちが使わせてもらう」




