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『やすらぎ園』― 五十年の沈黙  作者: キロヒカ.オツマ―


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第五章 再評価

診察室代わりに使われている小会議室には、白衣を着た大崎修平が、疲れた顔で座っていた。五十代半ばだろうか。永野が入ってくると、彼は一瞬だけ目を合わせ、すぐに手元のカルテに視線を落とした。


「永野さん、お加減はどうですか」


「おかげさまで。脚もだいぶ良くなりました」


「そうですか。……では、いくつか簡単な質問をさせてください。今日は何月何日か、分かりますか」


永野は、記者だった頃に何百人もの人間の嘘や本音を聞き分けてきた耳で、大崎の声を聴いていた。事務的で、抑揚がなく、明らかに誰かの目を気にしている話し方だった。


「先生」


永野は質問に答える代わりに、静かに言った。


「これは、本当に俺のための再評価ですか。それとも、何かを確定させるための儀式ですか」


大崎の手が止まった。


「……何をおっしゃっているのか」


「五年前の件、まだ気にされてますか」


大崎の顔から、初めて事務的な仮面が剥がれた。


「あなた、何を知って――」


「知り合いの記者が調べています。あなたが医療過誤で訴えられかけた件、示談をまとめたのは熊谷理事長の顧問弁護士だった。あなたは今、その借りを返し続けている。違いますか」


大崎はしばらく黙っていた。窓の外で、渡り廊下を歩く職員の足音が聞こえた。


「……あなたは本当に、認知症じゃないんですね」


「ええ」


「最初の診断書を書いたのは、私じゃありません。病院側の担当医です。私はそれを、そのまま引き継いだだけです」


「引き継いだ、というのは正確な言い方じゃない。あなたは毎月、俺の『症状悪化』を裏付ける所見を書いている。俺を一度も診察せずに」


大崎はカルテを閉じた。


「理事長から、事務的な形式を整えるようにとだけ言われています。詳しいことは聞いていません。聞かないようにしています」


「聞かないようにしている、というのは、聞けば断れなくなることを恐れているということですか。それとも、聞けば自分が何に加担しているか分かってしまうのが怖いということですか」


大崎は答えなかった。だが、その沈黙こそが、永野が欲しかった答えだった。


「先生。今日、俺に本当の認知機能検査をしてもらえませんか。正式な様式で。第三者にも確認できる形で」


「……それをすれば、理事長の指示に反することになります」


「あなたが今まで書いてきた診断書の方が、本来の医師の職業倫理に反しているんじゃないですか」


沈黙が続いた。大崎の手が、机の上で微かに震えていた。


「先生。俺はあなたを告発するつもりはありません。あなたも、この施設に取り込まれた被害者の一人だと思っています。ただ、これ以上、加害の片棒を担ぎ続けるのか、それとも今、正しい記録を残すのか。それを選べるのは、あなただけです」


大崎は長い間、机の上のカルテを見つめていた。それから、ゆっくりと新しい用紙を取り出した。


「……正式な長谷川式簡易知能評価スケールをやります。これなら、点数は誰にも改ざんできない」


検査は十五分ほどで終わった。永野の得点は満点に近かった。


大崎はその結果を見て、深いため息をついた。


「……これを理事長に見せたら、私はどうなるか分かりません」


「見せる必要はありません。写しを二部、俺にください。原本はあなたが保管してください。そして――もし可能なら、今日俺と話したことも、記録に残しておいてください。いつか、あなた自身を守ることになるかもしれません」


大崎は永野の顔を見た。そこには、初めて事務的でない、人間らしい表情が浮かんでいた。


「あなたは本当に、ただの入所者ではないんですね」


「昔、記者をしていました。二十年前に、この施設と縁がある事件を潰されたことがあります」


大崎の顔が青ざめた。


「まさか……田中さんの件ですか」


永野は驚いて大崎を見た。


「あなたも知っているのか」


「五年前、示談の席で、熊谷理事長の弁護士が、私への『念押し』のつもりで話したことがあります。『二十年前もこうやって収めてきた。今回も同じだ』と。田中という名前が出たのを、覚えています」


永野の中で、何かが確信に変わった。これは単発の不正ではない。熊谷徳蔵という一人の男が、四半世紀近くにわたって、同じ手口を繰り返し、同じように証拠と証言者を握りつぶしてきた、組織的な犯罪の歴史だった。


「先生。この検査結果、いつまで隠しておけますか」


「理事長は、来週にも後見の申立てを裁判所に出すつもりのはずです。それまでに、何か手を打たないと……この結果も、ただの紙切れになります」


永野はゆっくりと立ち上がった。松葉杖を握る手に、力がこもった。


「時間との勝負ですね」


面談室を出ながら、永野は窓の外に見える丘の緑を眺めた。設立五十周年の横断幕が、風に揺れていた。


その夜、田村美咲が持ってきた一つの情報が、事態をさらに加速させることになる。


「永野さん。理事長が、来週末に東京から視察団を呼んでいます。県の補助金の追加申請のための、実績アピールのようです。……そして、その視察の日に、永野さんの後見開始の審判が確定する予定だと、桐生施設長が電話で話しているのを聞きました」


「日程が重なっているのは偶然か」


「分かりません。でも――もし偶然じゃないとしたら」


永野は、田村の言葉の続きを引き取った。


「視察団の目の前で、何かを見せつけるつもりなのかもしれない」

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