第四章 二十年前
面会は月に一度、家族に限られている。身寄りのない永野には、本来その権利すらなかった。だが田村が「元職場の知人」という名目で、こっそり面会簿に宇佐美の名前を書き込んでくれた。
正式な「家族面会」の枠ではなく、施設が別途設けている「相談員来訪」「行政書類確認のための外部関係者訪問」という枠に紛れ込ませる形だった。本来は月一度と定められた家族面会とは別建てのため、頻度の制限が事実上ないに等しい。杜撰な運用の隙間を、田村は業務知識を駆使して縫っていた。以後も、宇佐美や桐生が外部との橋渡し役として動く際には、同じ抜け道が繰り返し使われることになる。
宇佐美弘之は、永野より三つ年下だったが、髪はすっかり白くなっていた。地方紙を定年退職したあと、今はフリーライターとして細々と仕事を続けているという。
面会室の硬い椅子に座った宇佐美は、永野の顔を見るなり絶句した。
「……永野さん。生きてたんですか。あの後、急に音信不通になって、てっきり」
「悪いな、心配かけて。色々あった」
永野は簡潔に、事故から入所までの経緯を話した。宇佐美の表情が、次第に強張っていった。
「熊谷徳蔵……。あの熊谷ですか」
「知ってるんだな、覚えてるんだな」
「忘れるわけないでしょう。あなたが記事を差し止められた時の理事長です」
宇佐美は声を潜めた。
「あの後、僕なりに個人的に追いかけてたんです。誰にも言わずに。あなたが記者を辞めさせられた後もね」
「情報提供者の――」
「田中さんですね。あの溺死事件」
田中省吾。永野が二十年前に取材していた、別の特養ホームの元職員だった。入所者の資産を不正に管理していると内部告発してきた男が、記事の掲載を三日後に控えたある夜、自宅の風呂場で溺れて死んだ。事故として処理された。
「あの事件、僕がずっと調べてたのは知らなかったでしょう」
宇佐美はカバンから古びたノートを取り出した。
「田中さんが告発しようとしていた施設、『やすらぎ園』じゃありません。別の施設です。でも、経営していた社会福祉法人の理事に、当時から熊谷徳蔵の名前があった」
永野は息を止めた。
「その施設、五年後に経営破綻して、入所者はどこに移されたと思います?」
「――やすらぎ園か」
「正解です。熊谷は、破綻した施設の入所者――身寄りがなく、声を上げられない人たちを、まとめて自分の施設に『救済』という名目で引き取った。その時のマスコミの扱いは『心温まる美談』でした。地元紙も、あなたの古巣も、大きく書き立てましたよ」
永野は、二十年前に自分が握りつぶされた記事の残骸と、目の前の熊谷の胸像に刻まれた「どんな方でも、最後まで見捨てません」という銘板の文言が、ようやく一本の線で繋がるのを感じた。
美談は、罪の隠蔽の道具だった。断られた人間を引き受けているのではない。声を上げられない人間を、選んで集めているのだ。
「宇佐美、頼みがある」
「言ってください」
「二十年前の資料、まだ残ってるか」
「一部は。田中さんの遺族にも当時会いました。資料の写しを預かってます」
「それと、この三年間、やすらぎ園で後見人がついた入所者のリストが必要だ。十一人。うち七人が死亡している」
宇佐美の目が鋭くなった。記者だった頃の顔だった。
「本気でやるんですね」
「今度こそ、握りつぶさせない」
「ですが永野さん、あなたは今、施設側の記録上『中等度の認知症患者』です。あなたの証言は、法的にはほとんど価値を持たない。それどころか、あなたが何か動いていることが分かれば、施設側は『症状の悪化』だと言って、あなたを外部と接触できない病棟に移すこともできる」
その指摘は、永野自身も分かっていたことだった。だからこそ、証拠は自分の証言だけに頼ってはならない。動かぬ記録、複数の証言、そして外部から見ても揉み消せない形での証拠固めが必要だった。
「一つ考えがある」
永野は声を落とした。
「大崎という嘱託医が、俺の虚偽の診断書を書いている。あの男を揺さぶれないか」
「大崎……。ちょっと待ってください」
宇佐美がノートをめくった。
「大崎修平ですか。もしそうなら、僕は彼のことも少し知ってます。五年前、別件で医療過誤の疑いをかけられて、危うく医師免許を失うところだった。その時、示談をまとめて揉み消したのが――」
「熊谷の顧問弁護士か」
「はい。つまり大崎は、熊谷に借りがある。逆らえない事情がある。でもそれは、裏を返せば――」
「弱みを握られているということは、その弱みごと、俺たちの側に引きずり込める可能性がある、ということだ」
面会時間終了を告げるアナウンスが響いた。宇佐美は立ち上がりながら、最後に一つだけ聞いた。
「永野さん。もし全部明るみに出たとして……あなたは、何を望んでるんですか。記者としての名誉回復? それとも」
永野はしばらく考えてから、静かに答えた。
「田中さんが死んだ夜、俺は何もできなかった。今度は、できる」
宇佐美は小さく頷き、面会室を後にした。
その日の夕方、居室に戻った永野は、枕の下に隠していた後見申立ての書類を取り出し、もう一度読み返した。署名欄はまだ空白だった。まだ時間はある。
だが翌朝、永野の元に届いたのは、思いもよらない知らせだった。
「永野さん、来週、大崎先生の診察が入りました。理事長のご指示です。認知機能の再評価を行うとのことです」
熊谷が動き出していた。




