第三章 資材置き場
夜十一時、施設は完全に寝静まっていた。永野は車椅子を使わず、松葉杖だけを頼りに、消灯後の廊下を音を立てずに進んだ。非常口の防犯センサーは、田村が事前に無効化しておいたのか、赤いランプが点いていなかった。
裏の資材置き場は、本館から少し離れた場所にある古いプレハブ小屋だった。中に入ると、埃っぽい段ボールの匂いに混じって、懐中電灯の光が一つ、揺れていた。
「来てくれたんですね」
田村美咲は、段ボール箱の陰にしゃがみこんでいた。永野が近づくと、彼女は膝の上に広げていたクリアファイルを閉じて、立ち上がった。
「まず聞かせてくれ。あんたは、本当に介護士なのか」
田村は一瞬黙り、それから小さく頷いた。
「資格は本物です。でも、この施設に就職したのは偶然じゃありません」
彼女はクリアファイルを永野に差し出した。中には、色あせた写真と、手書きのメモ、そして一枚の死亡診断書のコピーが挟まれていた。
「祖母です。田村ハルといいます。三年前、ここに入所して、半年で亡くなりました」
死亡診断書の死因の欄には「誤嚥性肺炎」と書かれていた。
「表向きはそうです。でも祖母が亡くなる一ヶ月前、面会に来た母に、こう言ったそうです。『お金のことは、もうあの人たちに任せてあるから心配しなくていい』って。祖母は元々、年金と少しの貯金しかない人でした。何に任せる話があったのか、母には分かりませんでした」
「後見人がついていた?」
「はい。施設の顧問司法書士――柏木という男です。祖母が亡くなったあと、遺品を整理していて分かったんです。祖母名義の口座から、毎月『生活費』として引き出されていた金額が、施設の請求している食費や日用品費よりも、明らかに多かった」
永野は、二十年前に自分が集めていた資料の断片を思い出していた。同じ手口だった。当時は「預り金」という名目で、入所者の年金から施設側が恣意的に金額を差し引いていた。今は「後見制度」という、より正当性のある皮をかぶっているだけだ。
「柏木という司法書士は、他にも何人の後見人をやっている?」
「分かりません。でも――」田村は声を落とした。「熊谷理事長と親しい入所者、身寄りのない人ばかりが選ばれて後見の対象になっています。この三年間で、少なくとも十一人」
永野は、ふと思い出したことを口にした。
「そう言えば、俺の献立表だけ、名前の欄が『様』じゃなく『殿』になっている。他の入所者は『様』だった」
田村は、驚いた顔をした。
「……気づいてたんですか。『殿』は、この施設の中だけで使われている符丁です。厨房の献立表と、介護記録システムの両方に登録されている名前に、後見対象の候補者だけ、その表記が付くようになっています。事務方と一部の職員しか、意味を知りません」
永野の背筋に、冷たいものが走った。入所してわずか数日のうちに、自分はもう、そのリストに載せられていたということだった。
「十一人のうち、何人が亡くなった」
田村の顔から血の気が引いた。
「……七人です」
沈黙が小屋の中に降りた。懐中電灯の光が、田村の手の震えを照らしていた。
「田村さん、これは一つ聞いておきたい。あんたは何のためにここにいる。証拠を集めるため? それとも――」
「復讐のためかって聞いてるんですか」
田村はまっすぐに永野を見た。
「最初はそうでした。祖母を殺したのがこの施設だと確信して、正体を隠して潜り込みました。でも、ここで働くうちに、他にも同じ目に遭っている人たちがいることが分かって……。今は、祖母のためだけじゃない気がしています」
永野はその言葉を、すぐには信じなかった。記者だった頃、個人的な動機を持つ情報提供者は、時に事実を歪めることがあると学んでいたからだ。だが、田村の目には、嘘をついている人間特有の揺らぎがなかった。
「一つ、確認させてくれ。俺のカルテを見たことは?」
田村は頷いた。
「永野さんの認知機能評価、事故直後の一回きりです。入所してから一度も再評価されていません。それなのに、カルテには毎週『症状が進行している』という記録が追加されています」
「誰が書いてる」
「桐生施設長です」
永野は目を閉じた。桐生。あの震える声の女は、上からの圧力に屈しながらも、自らの手で虚偽の記録を積み重ねている。加害者でもあり、被害者でもある。この施設の構造の縮図のような人物だった。
「田村さん。今夜のことは誰にも話すな。俺たちが動いていることが熊谷に伝われば、あんたも俺も、次にどうなるか分からない」
「永野さんは、どうするつもりですか」
永野は、かつて記者だった頃の自分の声を、久しぶりに思い出しながら答えた。
「証拠を集める。誰にも否定できない形で。そして、外に持ち出す」
「外って……。この施設、県議会にも顔が利くんですよ。行政に訴えても、揉み消されるだけじゃ」
「行政じゃない」
永野は静かに言った。
「俺には、まだ使える伝手が一つだけ残っている」
そう言いながら、永野の脳裏に浮かんでいたのは、二十年間連絡を取っていなかった、元同僚の顔だった。




