第二章 後見
入所して十日が経った頃には、永野は自分に割り振られた役割を正確に理解していた。
「呆けた老人」。
食堂で職員たちが交わす会話は、永野がすぐそばの席にいても止まらなかった。まるで観葉植物か何かのように、彼らは永野の存在を勘定に入れずに喋った。永野はそれを利用することにした。返事を一拍遅らせる。同じことを二度聞き返す。箸を落として拾おうとしない。そうした小さな芝居を積み重ねるだけで、職員たちの警戒は面白いほど緩んでいった。
「永野さん、お薬の時間ですよー」
田村美咲は、他の職員よりも丁寧に永野に接した。声をかけるとき、必ず目線を合わせてから話す。他の入所者に対しても同じだった。永野は最初、それを単なる生真面目さだと思っていた。
だが三日目の夜、消灯後の見回りに来た田村が、窓際のベッドの老人――永野と同室の、ほとんど声を発しない中村という老人――の枕元に、しばらく黙って座っているのを見た。
「中村さん、今日も苦しくなかった?」
返事はなかった。中村は目を閉じたまま、微かに頷いたようにも見えた。
田村はしばらくその手を握っていた。それから、永野の視線に気づいて、はっとしたように立ち上がった。
「……永野さん、起きてたんですか」
「眠れなくてね。喉が渇いた」
永野はわざとゆっくりとした口調で言った。田村は少し迷ってから、水差しを持ってきてくれた。
「田村さんは、中村さんと親しいのかな」
「別に、そういうわけじゃ……」
言葉を濁す様子が、逆に永野の記者としての勘を刺激した。何かある。この職員には、業務としての優しさとは違う、個人的な重みがある。
その重みの正体が分かったのは、それから一週間後のことだった。
永野は「認知症の徘徊」という体で、夜間にわざと廊下をうろつくようになっていた。職員に見つかれば「困った入所者」として片付けられる。だが見つからなければ、施設の別の顔を見ることができた。
三階の面談室の灯りが、深夜だというのに点いていることに気づいたのは、入所して十七日目の夜だった。ドアは薄く開いていた。中から聞こえてきたのは、桐生施設長の声だった。
「……この申立て書類、本当にこのまま出すんですか。永野さん、まだ本人に意思確認も――」
「意思確認なんぞ、後見人がついてから本人にすればいい話だろう」
熊谷の声だった。
「診断書はもう大崎先生に出させてある。要介護3、中等度の認知症。これで十分だ」
「でも、実際にお話ししてみると、永野さんは全然……」
「桐生さん」
熊谷の声が、一段低くなった。
「あんたの息子の入院費、あと三ヶ月分、うちの理事会枠から出してやってるのを忘れたのか」
沈黙があった。永野は廊下の暗がりで、息を止めていた。
「後見人にはいつも通り、うちの顧問の司法書士を立てる。年金は口座管理、資産は施設の預り金扱いにして、月々の『生活費』はこっちで決める。今までと同じやり方だ。何を今さら迷ってる」
「……分かりました」
桐生の声は、震えていた。
永野は、二十年前に聞いた別の声を思い出していた。同じ震え方をする声を、あの時も聞いたことがあった気がした。
翌朝、永野の元に一枚の書類が届いた。「成年後見制度利用支援に関するご案内」。そこには、永野雅士の判断能力が「日常生活における財産管理を適切に行うことが困難」と記されていた。署名欄の下に、小さな文字でこう書かれていた。
申立人:やすらぎ園 理事長 熊谷徳蔵
永野はその書類を、丁寧に折りたたんで枕の下に隠した。
その日の午後、洗濯物を配りに来た田村美咲が、誰もいない廊下で永野に小さく耳打ちした。
「永野さん。……昨日の夜、面談室の前にいましたよね」
心臓が跳ねた。表情には出さなかった。
「気のせいじゃないか」
田村はしばらく永野の目を見つめていた。それから、周囲を確かめるように視線を走らせてから、ポケットから折りたたんだメモを取り出し、永野の手のひらに素早く握らせた。
「祖母も、同じ書類にサインさせられました。三年前です。その半年後に、祖母は亡くなりました」
メモには、走り書きで一行だけ書かれていた。
今夜、二十三時。裏の資材置き場へ。
永野は、田村の後ろ姿が廊下の角を曲がって消えるまで、じっとそのメモを握りしめていた。




