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『やすらぎ園』― 五十年の沈黙  作者: キロヒカ.オツマ―


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最終章 五十年の沈黙が破られるとき

それから半年が経った。


永野の両脚は、思っていたほどには回復しなかった。事故の際の複雑骨折の癒合が芳しくなく、主治医からは「杖なしでの歩行は、今後も難しいかもしれない」と告げられていた。以来、永野は松葉杖から、より軽い一本杖に持ち替えながらも、杖そのものを完全に手放すことはなかった。それを不運だとは、もう思わなくなっていた。


熊谷徳蔵は、業務上横領及び虚偽公文書作成の罪で起訴され、公判が続いていた。法廷での彼は、かつての「天皇」としての威厳を完全に失い、ただ一人の老いた被告人として、淡々と罪状を認め続けた。判決は、まだ出ていない。だが、検察の求刑は、決して軽いものではなかった。


柏木司法書士は、放火及び業務上横領の罪で有罪判決を受けた。裁判の中で、柏木は「熊谷理事長からの直接的な指示があった」と証言を変え、当初の「単独犯行」という主張を撤回した。それは、法廷という場で、ようやく明らかにされた、もう一つの真実だった。


榊原輝男と郷田誠一郎については、結局、刑事責任を問うだけの直接証拠は見つからず、起訴には至らなかった。榊原は県央福祉会の理事長職を退いたが、顧問という肩書で、業界に一定の影響力を残し続けているという噂が絶えなかった。郷田建設は、県の公共工事の指名停止処分を一定期間受けたものの、それ以上の処罰は科されなかった。


沢渡憲一議員は、次の選挙で議席を守った。得票数は、前回より大きく減っていたが、それでも、彼の政治生命は、辛うじて続いていた。


「不完全な結末ですね」


ある日、大崎医師が、永野の元を訪れて、そう呟いた。彼は、正式な証言を行ったことで、以前の医療過誤の一件も含め、医師としての職業倫理を改めて問われる立場になっていたが、県の医療審査会は、彼の内部告発者としての功績を考慮し、資格停止などの重い処分は科さなかった。


「不完全だが、五十年間、誰も手をつけられなかった沈黙が、確かに破られた」


永野は、答えた。


「それが、今の俺たちにできる、精一杯のことだった」


やすらぎ園は、県の指導のもと、地域の福祉団体と利用者家族会が共同で運営に関わる、新しい形の社会福祉法人として、生まれ変わろうとしていた。桐生洋子が、その初代理事長に就任することが決まった。永野は、桐生の要請を受け、外部監査役として、正式に名を連ねることになった。


田村美咲は、介護士としての仕事を続けながら、遺族支援団体を立ち上げる準備を進めていた。祖母と同じような目に遭った家族たちが、声を上げやすい場を作りたいという、彼女自身の願いから生まれた活動だった。


内藤和也は、退院後、事件の全容を証言する形で、正式に検察の証人となった。彼は、祖父の死の真相を、五十年越しに、公に認めさせることに成功した。


宇佐美弘之は、この一連の事件を、一冊のノンフィクションとしてまとめる作業に取り掛かっていた。永野は、その執筆に協力する形で、久しぶりに、書くという行為に向き合い始めていた。


「永野さん」


ある秋の午後、永野は、屋上庭園で、久しぶりに顔を見せた田村と、並んで座っていた。


「県東部の施設の件、県警が正式に捜査を始めたそうです」


「そうか」


「宇佐美さんが、取材に入っています。今度は、最初から、複数の記者と、複数の証拠保管先を用意して」


永野は、小さく頷いた。


「一つの事件が終わっても、次の場所で、同じことが起きる。俺たちが暴いたのは、一人の悪人じゃなく、一つの構造だった。だから、これで終わりじゃない」


田村は、少し寂しそうに笑った。


「終わりのない戦いですね」


「そうかもしれない」


永野は、丘の緑を見つめながら言った。


「だが、二十年前の俺には、戦う相手すら、見えていなかった。今は、少なくとも、相手の輪郭が見える。仲間もいる。それだけでも、大きな違いだ」


風が、屋上庭園の木々を揺らした。かつて掲げられていた「設立五十周年」の横断幕の場所には、新しい看板が立てられていた。


「やすらぎ園 地域と共に、五十一年目へ」


その素朴な文字を、永野はしばらく見つめていた。美談でも、権威の象徴でもない、ただの、これからの一歩を示す言葉だった。


「田村さん」


永野は、傍らに立てかけた杖を握りしめながら、静かに言った。


「明日から、また忙しくなる」


「そうですね」


田村は、頷いた。


その日の夕方、永野は、久しぶりに一人でパソコンに向かい、白紙のドキュメントを開いた。カーソルが、点滅していた。杖は、部屋の隅に立てかけたままだった。


二十年間、書くことを諦めていた自分が、もう一度、言葉を紡ぎ始める。


タイトルの欄に、永野は、ゆっくりと文字を打ち込んだ。


「やすらぎ園――五十年の沈黙」


それは、まだ終わっていない物語の、最初の一行だった。

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