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『やすらぎ園』― 五十年の沈黙  作者: キロヒカ.オツマ―


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第二十一章 火

非常ベルが鳴り響いたのは、施設一階の事務室からだった。


永野が松葉杖を頼りに駆けつけると、事務室の窓から、うっすらと煙が漏れているのが見えた。職員たちが慌ただしく駆け回り、消火器を手にした夜勤スタッフが、事務室のドアを開けようとしていた。


「火事だ! 誰か消防に連絡を!」


田村が叫びながら、消火器を手に飛び込んでいった。永野も後を追った。事務室の中では、書類保管棚の一角から炎が上がっていた。誰かが意図的に火をつけたのは、一目瞭然だった。灯油の匂いが、煙の中に混じっていた。


田村が消火器を噴射し、駆けつけた別の職員と共に、なんとか火を消し止めた。焼け跡には、炭化した書類の山が残っていた。


「これは……」


桐生が、焼け残った書類の一枚を拾い上げ、絶句した。


「後見案件の関連書類です。柏木事務所から預かっていた、正式なコピーの原本が、ここに保管されていました」


「じゃあ、狙いはそれだったのか」


永野は、焼け跡を見渡しながら、拳を強く握りしめた。だが、幸いなことに、永野たちが分散して保管していた証拠のコピーは、この事務室には置かれていなかった。宇佐美、県央新報の記者、そして人権派弁護士の元に、それぞれ別々に預けられていた。


「不幸中の幸い、というべきか」


宇佐美が、駆けつけた後、焼け跡を見ながら呟いた。


「でも、これは、明らかな証拠隠滅の意図です。警察に、正式に通報すべきです」


その時、施設の正面玄関から、慌ただしい足音が響いてきた。駆けつけたのは、成田だった。


「何が起きた!」


「事務室から出火しました。人為的な放火の可能性が高いです」


桐生の報告に、成田の顔が硬直した。


「柏木は……柏木は、今どこに」


「分かりません。今夜、施設に来る予定はなかったはずですが」


その時、田村が声を上げた。


「防犯カメラの映像、確認できませんか」


成田は一瞬迷った後、頷いた。


「事務室のサーバー室に、映像データがあります。案内します」


サーバー室のモニターに映し出された映像には、深夜、一人の男が事務室に侵入し、書類棚に何かを撒き、ライターで火をつける様子が、はっきりと記録されていた。


男の顔が、カメラに一瞬、鮮明に映った。


「柏木だ」


永野は、その顔を見て、確信した。


「証拠を消すために、自ら火をつけたのか」


「これで、彼が追い詰められていたことが、はっきりしました」


宇佐美が、映像を録画しながら言った。


「この映像も、警察と、記者に渡す必要があります」


その頃、施設に到着した消防車と警察が、現場検証を始めていた。永野は、駆けつけた刑事に、これまでの経緯を、可能な限り簡潔に説明した。内藤和也の事件、田中省吾の事件、そして今回の放火。刑事の表情は、次第に険しくなっていった。


「これは、単なる施設内のトラブルという規模の話じゃなさそうですね」


刑事は言った。


「県警本部にも、正式に報告を上げます。永野さん、明日以降、詳しい事情聴取にご協力いただけますか」


「もちろんです」


現場検証が終わった頃には、すでに空が白み始めていた。永野は、疲労困憊しながらも、松葉杖に体を預けて、燃え残った事務室を見つめていた。


田村が、隣に立った。


「永野さん、今日の朝刊、もう出てる頃ですよね」


宇佐美がスマートフォンを取り出し、県央新報の電子版を開いた。


トップページに、大きな見出しが躍っていた。


「特養ホーム『やすらぎ園』後見制度悪用疑惑 五十年にわたる収奪の構図」


記事の中には、大崎の検査結果、桐生の録音、田村が集めた資産管理記録、そして内藤和也が残した五十年前・二十年前の調査資料が、実名を伏せた形で丁寧に紹介されていた。


「出た……」


田村が、震える声で呟いた。


だが、その安堵は、長くは続かなかった。


記事を読み終えた永野の目に、記事の末尾に付け加えられた、一行の追記が飛び込んできた。


「なお、本紙は本日未明、同施設内で発生した不審火についても、関連情報として捜査当局に提供している」


――そして、その追記のすぐ下に、記事に対する第一号のコメントが、すでに投稿されていた。


投稿者の名前は、伏せられていた。だが、その内容は、永野の背筋を凍らせるものだった。


「この記事は事実の一部に過ぎない。本当の黒幕は、まだ誰も名前を挙げていない」

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