第二十章 最後の一線
内藤和也が搬送された県北の総合病院に、永野は桐生の車で駆けつけた。
病室の前には、警察官が一人、立っていた。事情を聞くと、内藤は山道の崖下で発見され、頭部を強く打っていたが、命に別状はないという。警察は当初、事故として処理する方向で進めていたが、現場の状況に不審な点があり、慎重に捜査を進めているとのことだった。
「不審な点、というのは」
永野が尋ねると、対応した若い刑事は、少し言葉を選びながら答えた。
「崖から転落したにしては、車の停車位置が不自然でしてね。それに、内藤さんの携帯電話が、現場から少し離れた場所に、故意に投げ捨てられたような形で見つかっています」
事故に見せかけた、何者かによる襲撃。永野の脳裏に、二十年前の田中省吾、五十年前の内藤修一の死が、重なって浮かんだ。
同じ手口が、また繰り返されようとしていた。
「田村さん、宇佐美と一緒に、すぐにこちらへ来てくれ」
永野は電話でそう伝えた後、桐生に向き直った。
「桐生さん。もう、猶予はない。連載記事の掲載を、予定より前倒しできないか、記者に頼んでみよう」
桐生は青ざめた顔で頷いた。
だが、その夜、事態はさらに悪化した。
やすらぎ園に戻った永野の部屋に、成田が唐突に現れた。
「永野さん。少しお話が」
成田の表情には、それまでの事務的な冷静さとは違う、切迫した緊張が滲んでいた。
「内藤和也さんの件、聞き及んでいます。永野さん、これは警告です。あなたが今、何をしようとしているのか、私たちは正確に把握しています。証拠の分散、新聞社への情報提供――全て、です」
「脅しのつもりか」
「いいえ。これは、忠告です」
成田は、思いのほか静かな声で続けた。
「あなたは、正義感で動いている。それは尊重します。ですが、あなたが動けば動くほど、危険にさらされるのは、あなただけではない。田村さん、桐生さん、そして――内藤さんのように」
「それを言うために来たのか」
「私自身も、この構造の全てに賛同しているわけではありません」
成田の言葉に、永野は思わず眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「私は、県央福祉会の職員です。榊原理事長の指示で、ここに派遣されています。ですが、内藤さんの件は、榊原理事長の指示ではありません。もっと別の、私自身も把握しきれていない筋から、動きがあったと聞いています」
「別の筋、というのは」
成田は、しばらく躊躇った後、低い声で言った。
「柏木司法書士です。彼は、今回の一連の後見案件の実務を、長年一人で担ってきた人間です。もし記事が出て、後見制度悪用の全貌が明らかになれば、真っ先に刑事責任を問われるのは、彼自身になる。榊原理事長も、熊谷前理事長も、あくまで『知らなかった』で通そうとするでしょう。柏木だけが、切り捨てられる立場にある」
「追い詰められた柏木が、独断で内藤を襲わせた、ということか」
「断定はできません。ですが、その可能性は、十分にあります」
成田は、部屋を出る前に、最後に一言付け加えた。
「永野さん。私からの忠告は、これだけです。追い詰められた人間ほど、何をするか分からない。あなたも、あなたの周りの人たちも、今すぐにでも、身の安全を最優先に考えてください」
成田が去った後、永野は一人、暗い部屋で考え込んだ。榊原や熊谷という「大きな悪」だけでなく、追い詰められた柏木という「小さな悪」が、独自に暴走を始めている。事態は、永野が想定していたよりも、はるかに制御不能な方向に向かっていた。
深夜、田村と宇佐美が、施設の裏口から静かに合流した。
「連載記事の件、記者に相談しました」
宇佐美が報告した。
「デスクと相談の上、掲載を二日前倒しすることが決まりました。明日の朝刊です」
「明日の朝か」
「はい。ただ、記者からは、一つ警告がありました。掲載直前は、最も危険な時期になる可能性が高いと。証拠隠滅や、関係者への圧力が、今夜から明日にかけて、集中する恐れがあると」
永野は、窓の外の暗闇を見つめた。丘の緑は、夜の闇に沈んでいた。
「今夜が、山場だ」
永野は言った。
「柏木が独断で動いているとしたら、次に狙われるのは、証拠を持っている俺たち自身かもしれない」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、施設のどこかで、けたたましい非常ベルが鳴り響いた。




