第十八章 揺さぶり
証拠を分散させた翌日から、施設の空気は目に見えて変わった。
新しい理事長代行として、県央福祉会から派遣されたという男が、やすらぎ園に常駐するようになった。名前は成田といい、四十代半ばの、感情の読めない事務的な男だった。成田は着任早々、施設内の全職員に対して、外部との連絡を制限する内部通達を出した。
「業務上の守秘義務の徹底について」という表題のその文書には、「入所者の個人情報及び施設の内部情報を、正当な理由なく外部に漏洩した場合、懲戒処分の対象とする」という一文が、これまで以上に強い調子で記されていた。
「露骨ですね」
田村が、通達文を見ながら苦い顔をした。
「俺たちを牽制しているんだろう」
永野は言った。「証拠が分散されたことに、もう気づいている可能性がある」
その日の午後、永野は成田に呼び出された。面談室に入ると、成田は書類を挟んだクリップボードを持ったまま、感情のない目で永野を見た。
「永野さん。あなたの後見開始審判の件ですが、前理事長の申立ては、施設側の判断で取り下げることになりました」
永野は、意外な言葉に眉をひそめた。
「取り下げる、というのは」
「今後、当施設は、コンプライアンスを徹底した運営を行います。不適切な後見申立ては、すべて見直しの対象です」
一見、譲歩に見える言葉だった。だが、永野はその裏に、別の意図を感じ取った。
「表向きは、綺麗にするということか」
「意味が分かりかねますが」
「熊谷のやり方は個人的な収奪だったが、これからは、組織として、制度の範囲内でやる、ということだろう。表面的な違法性は排除して、それでも実質的には、同じ収奪の構造を維持する」
成田の表情は、ぴくりとも動かなかった。
「永野さん、あなたは、この施設の入所者です。経営方針についての口出しは、権限の範囲外だと思いますが」
「権限の話をするなら、俺には、外部に真実を伝える権限がある」
「脅しですか」
「事実です」
成田は、クリップボードを閉じた。
「永野さん。あなたが元記者であることは存じ上げています。ですが、正義感だけでは、この業界の現実を変えることはできません。榊原理事長は、少なくとも、法律の範囲内で、施設を運営しようとしています。あなたが望むような、完全な『クリーン』は、この業界のどこにも存在しません」
「それは、榊原の言葉と同じだな」
「同じ組織ですから」
成田は、初めて薄く笑った。
「永野さん。一つ、お伝えしておきます。内藤和也という人物、ご存知ですか」
永野の心臓が跳ねた。表情には出さないよう努めた。
「知らないな」
「そうですか。……彼は、少し精神的に不安定になり、療養に入っています。ご心配なく」
その言葉は、明らかな脅しだった。永野たちが内藤和也の名前を調べ、接触を試みたことを、成田はすでに把握していた。
面談室を出た永野は、廊下で桐生に会った。
「永野さん、大丈夫ですか。顔色が」
「成田が、内藤和也の名前を出した。俺たちの動きは、完全に筒抜けだ」
桐生の顔が青ざめた。
「じゃあ、また誰かが……」
「今度は、誰が情報を漏らしているかを議論している時間はない。もっと根本的な問題として、この施設全体が、監視されている可能性を前提に動く必要がある」
その夜、永野は宇佐美に電話をかけた。
「宇佐美、状況が変わった。榊原側は、俺たちが証拠を分散させたことにすでに気づいている。もう時間の問題だ。次の一手を、早急に打つ必要がある」
「僕の方でも、動きがあります。県央新報の記者が、今回の件を、単発の記事ではなく、連載企画として上に提案したそうです。デスクの許可が下りれば、来週にも一報が出せるかもしれません」
「その一報の内容次第で、榊原側の出方も変わるはずだ。奴らが本気で潰しにかかる前に、社会的な既成事実を作る必要がある」
電話を切った後、永野は窓の外を見つめた。丘の緑に、月明かりが差していた。設立五十周年の横断幕は、もう外されていた。
代わりに、新しい横断幕が掲げられていた。
「新体制のもと、より安心な福祉サービスを」
その文言は、永野の目には、これまで以上に空虚に映った。




