第十六章 五十年前の土地
「五十年前、この施設が建てられた経緯を、詳しく知っている人間を探そう」
永野の提案に、宇佐美はすぐに動いた。地元の郷土資料館、当時の新聞縮刷版、そして何よりも、当時をまだ記憶している存命の関係者を探す作業が始まった。
三日後、宇佐美は一人の老人を見つけ出した。上原忠雄、八十九歳。かつてこの地域一帯の農地を所有していた地主の一人で、やすらぎ園が建設される前、その土地の一部を所有していたという。
上原は施設からほど近い、古い平屋に一人で暮らしていた。永野が訪ねると、上原は最初、警戒するように口を閉ざしていたが、宇佐美が持参した五十年前の地籍図を見せると、次第に重い口を開き始めた。
「あの土地はね、元々、うちの親父の土地だったんですよ」
上原は、皺だらけの手で茶碗を包みながら、ゆっくりと語り始めた。
「昭和四十年代頃、あの辺りに特養ホームを建てる計画が持ち上がってね。県の補助金が出るという話で、土地を売ってくれと、若い男が何度も訪ねてきた」
「その若い男というのは」
「熊谷さんですよ。当時はまだ三十代でね、県会議員になる前でした。羽振りがよくて、弁も立って。でも、うちの親父は、先祖代々の土地を手放すことに、最後まで反対しとった」
「それで、どうなったんですか」
上原の顔が、暗く曇った。
「親父は、ある夜、田んぼの用水路で亡くなりましてね。足を滑らせたと、警察は言った。でも、あの用水路は、親父が子供の頃から歩き慣れとった場所で、酔ってもいないのに足を滑らせるなんて、ありえんことだったんです」
永野の背筋に、冷たいものが走った。田中省吾の溺死事件と、驚くほど似た構図だった。
「親父が亡くなった後、土地の相続人だった伯父が、あっさりと土地を手放しました。買い取り価格は、相場よりだいぶ安かった。伯父は、何か脅されでもしたのか、それ以上は何も語らずに、亡くなるまで黙っとりました」
「その時、熊谷さんの他に、誰か関わっていた人物を覚えていますか」
上原は、しばらく考え込んだ。
「若い、事務方の男が一人、いつも熊谷さんの傍にいましたな。名前は……そう、榊原、といったかね」
永野と宇佐美は、思わず顔を見合わせた。
「榊原輝男という男ですか」
「そうそう、その名前です。まだ二十代だったと思うが、熊谷さんの右腕のような立場でね。書類の手続きなんかは、全部彼がやっとったと聞いています」
つまり、熊谷と榊原の関係は、二十年前の田中省吾事件どころか、五十年前のやすらぎ園設立そのものにまで遡る、根の深い共犯関係だった。榊原が後に県の福祉政策課に入り、やがて福祉法人の経営者として熊谷と対立するかのような立場に立ったのは、あるいは最初から仕組まれた「役割分担」だったのかもしれない。一人は施設の内側から、もう一人は行政の内側から、互いの不正を守り合う体制を築いていた。
「上原さん、もう一つ、お伺いしたいことがあります」
永野は言った。
「あなたのお父様が亡くなった件について、当時、誰か声を上げようとした人はいませんでしたか」
上原は、目を伏せた。
「一人、いました。当時、うちで働いとった若い作男でね。親父の死に方がおかしいと、警察に訴えようとしとった。でも――」
「でも?」
「ある日を境に、村からいなくなりました。夜逃げしたとも、どこかに飛ばされたとも、いろんな噂が流れましたが、本当のところは、誰も知りません」
永野は、その名前も分からない「作男」の存在に、田中省吾と、そして自分自身の姿を重ねずにはいられなかった。声を上げようとした者が、次々と消されていく。五十年間、同じ構造が、姿を変えながら繰り返されてきたのだ。
施設に戻った永野は、桐生と田村に、上原から聞いた話をすべて伝えた。
「五十年間、ずっと……」
田村は、声を失っていた。
「じゃあ、やすらぎ園という施設そのものが、最初から、こういう場所として作られたということですか」
「そう考えるのが、自然だ」
永野は、施設の玄関ホールに置かれた熊谷の胸像を思い浮かべた。「どんな方でも、最後まで見捨てません」という銘板の文字が、今はもう、皮肉を通り越して、悪意そのものに見えた。
「桐生さん」
永野は言った。
「あなたに、一つ、確認したいことがあります。榊原と熊谷、今も本当に対立関係にあると思いますか」
桐生は、しばらく考えてから、首を振った。
「分かりません。……でも、永野さんの話を聞いていると、もしかしたら、今回の『失脚』そのものが、二人にとって、最初から想定内の筋書きだったんじゃないかという気がしてきました」
その可能性を、永野もまた、否定できずにいた。
熊谷が失脚し、榊原がその跡を継ぐ。表向きは「悪が裁かれ、新しい経営者が正義を回復する」という美しい物語に見える。だが、もしそれが、五十年来の共犯関係にある二人が、世代交代のタイミングで役割を入れ替えただけの、壮大な自作自演だったとしたら。
「もし、そうだとしたら」
永野は、静かに、しかし強い決意を込めて言った。
「俺たちが本当にすべきことは、熊谷を失脚させることじゃなかった。榊原に経営権が渡ることそのものを、止めることだ」




