第十五章 議員会館
沢渡憲一の地元事務所は、県庁からほど近い雑居ビルの二階にあった。永野は、宇佐美を通じてアポイントを取り付けることに成功していた。理由は「やすらぎ園の今後についての情報交換」という、当たり障りのないものだった。
応接室に通された永野を、秘書らしき若い男が慇懃に迎えた。しばらくして現れた沢渡憲一は、テレビで見るよりも小柄で、疲れた顔をした男だった。
「永野さん、でしたね。今回の件、大変だったでしょう」
沢渡の第一声は、労いの言葉だった。だが、その目には、何かを測るような冷静さが宿っていた。
「単刀直入にお聞きします」
永野は、松葉杖を脇に置きながら切り出した。
「あなたの事務所は、熊谷理事長の不正を、二年近く前から把握していたそうですね」
沢渡の表情は、ほとんど動じなかった。
「よくお調べになった」
「否定はされないんですね」
「否定する理由がない。事実ですから」
沢渡は、意外なほどあっさりと認めた。
「永野さん、私は政治家です。政治家という仕事は、時に、正しいことをすぐに正しく行えるとは限らない。あなたは記者だったそうですから、その辺りの機微は、理解していただけると思っていましたが」
「機微、というのは、都合の良いタイミングまで、悪を放置するということですか」
「言い方が厳しいですね。ですが、あえて反論はしません」
沢渡は、静かに続けた。
「熊谷は、私の後援会にとって、長年、無視できない存在でした。県議会での影響力も強く、地元の各種団体への睨みも利いていた。彼を敵に回せば、私自身の政治生命に関わる。それは、あなたの想像以上に現実的な問題でした」
「だから、証拠を握りながら、動かなかった」
「動けなかった、と言った方が正確です。証拠だけでは、彼を倒せなかった。熊谷の背後には、県議会内の複数の派閥、そして彼が長年築いてきた行政とのパイプがあった。中途半端に攻撃すれば、返り討ちに遭うのは私の方だった」
「では、なぜ今、動いたんですか」
沢渡は、初めてわずかに視線を逸らした。
「正直に言えば、あなたたちが動いたからです」
「俺たちが?」
「あなた方が集めた証拠、視察団の前での告発――あれは、私にとっても、絶好の機会でした。自分の手を汚さずに、熊谷を追い詰められる。そして、その後の後始末――施設の経営権の再編――を、私の後援会に近い榊原さんに任せることで、この地域の福祉行政を、私が望む形に立て直すことができる」
永野は、沢渡の言葉の中に、正直さと打算が奇妙に同居していることに気づいた。この男は、自らの保身と、政治的な野心を、悪びれもせずに語っていた。
「あなたは、正義感で動いたわけじゃない」
「ええ、違います」
沢渡は頷いた。
「ですが永野さん、結果だけを見れば、熊谷は失脚し、彼が長年行ってきた不正は明るみに出た。それは、悪いことでしょうか」
「榊原の施設でも、同じような苦情が複数寄せられている。それを知った上で、経営権を引き継がせようとしているんですよね」
沢渡の目に、初めて動揺の色が浮かんだ。
「それは……どこまで、お調べになっているんですか」
「県央福祉会が過去に引き継いだ施設のうち、三つで、後見制度の悪用に関する苦情があった。監査は『改善指導』止まり。処分には至っていない」
沢渡は、しばらく黙っていた。
「永野さん。あなたは、この業界の構造そのものが、腐っているとお考えですか」
「そう考え始めています」
「私も、同じ考えです」
沢渡の言葉に、永野は思わず眉をひそめた。
「だったら、なぜ榊原に――」
「今の日本の福祉行政の仕組みそのものが、身寄りのない高齢者を『誰かが管理しなければならない資産』として扱う構造になっている。後見制度も、施設への公的補助も、悪用しようと思えば、いくらでも悪用できる余地が残されている。それは熊谷が特別に悪いのではなく、この制度そのものに欠陥があるからです」
「制度の欠陥を語りながら、あなたは、その欠陥を利用する人間に、経営権を引き継がせようとしている」
沢渡は、深いため息をついた。
「永野さん。理想論だけで、この業界は変わりません。少なくとも今の榊原さんは、熊谷よりはまだ、コントロールが利く相手だ。完全な悪ではなく、『まだましな現実』を選ぶことしか、私にはできないんです」
その言葉は、永野の胸に、複雑な感情を呼び起こした。怒りと、同時に、ある種の理解できてしまう部分と。
「一つだけ、教えてください」
永野は言った。
「俺の事故と入所の経緯に、あなた、あるいはあなたの事務所は、何か関与していますか」
沢渡は、今度こそ、はっきりと驚いた表情を見せた。
「いいえ。それは初耳です。何のことですか」
その驚きは、演技には見えなかった。永野は、沢渡がこの件については本当に知らなかったのだと直感した。
つまり、永野の事故と入所の経緯に関わっていたのは、沢渡ではなく――熊谷と榊原、あるいはその周辺の、もっと別の誰かだった。
事務所を出た永野は、雑居ビルの階段を降りながら、宇佐美に電話をかけた。
「沢渡は、俺の入所の経緯には関与していない。本当に知らなかった様子だった」
「じゃあ、誰が」
「分からない。だが、熊谷と榊原の間には、俺たちが思っている以上に、深く長い繋がりがあったのかもしれない。単なる利害の一致じゃない。もっと個人的な、何か」
その夜、永野は施設に戻った。桐生が、思いつめた表情で待っていた。
「永野さん。……大崎先生から、預かった資料の中に、気になるものがありました」
桐生が差し出したのは、古い職員名簿のコピーだった。五十年前の、やすらぎ園の開設当初の名簿だという。
「これを見てください」
永野は名簿に目を走らせた。そして、ある一行で、視線が止まった。
「事務長 榊原輝男」
三十年前、榊原輝男は、県の福祉政策課の職員である前――あるいは同時期に、やすらぎ園そのものの事務長を務めていた。




