第87話 凍結では、止まっていない
朝、魔導省の窓口に修司が着くと、若い実務担当の男がすでに端末の前で立ち往生していた。
「真鍋様。確認していただきたいものがあります」
差し出された画面には、召喚関連区分の一覧が並んでいた。召喚陣そのものは赤いバーで「凍結中」と表示されている。その下の項目に、見慣れない緑の表示があった。
〔次回召喚用資材枠:予約済み〕
「これは……今朝、確認したら出ていました。誰も承認した記憶がないのに、予約済みになっています」
「召喚自体は凍結されているはずですが」
「ええ。私もそう思っていました。だから今日見て、驚いて持ってきました」
修司は画面に触れた。
現仕様が浮かぶ。召喚陣本体の駆動経路は、確かに止まっている。停止信号が深いところまで届いていて、再起動には複数の承認が必要な状態になっている。問題はそこではなかった。
その周辺に、別の経路が見えた。資材徴発の定期処理、神殿儀礼の予約枠、上位承認のテンプレート。どれも召喚陣本体とは別の権限で動いていて、「次回の召喚に備える」という古い前提のまま、止まらずに回り続けていた。
「召喚陣は止まっています。でも、召喚を前提にした周りの仕組みは止まっていません」
「……それは、どういう」
「凍結したのは、装置です。凍結していないのは、その装置を使う前提で組まれていた、別の業務の流れです」
実務担当の男は画面を見つめたまま、しばらく黙った。
「では、この予約済みの資材枠は、勝手に動いたわけではなく……」
「勝手に動いたのではなく、止め忘れた、というのが近いと思います。誰の責任というより、止める手順自体がなかったんです」
男は息を吐いた。怒っているのではなく、安心したような顔だった。
「よかった。誰かが裏で召喚を再開しようとしているのかと思いました」
「その可能性は低いです。ただ、確認は必要です」
修司は画面を保存し、その場で関連項目を洗い出した。資材徴発、神殿儀礼予約、上位承認フロー、基盤炉の受け入れ準備。少なくとも四系統が、召喚陣本体とは無関係に、まだ「次がある」前提で動いていた。
午前のうちに、セルアスの執務室を訪ねた。
「召喚陣は止まっているのに、周辺の処理が止まっていません」
セルアスは報告書に目を通しながら頷いた。
「驚きはありません。凍結は、王宮魔導院の権限で出した一通の命令です。資材は財務部、儀礼は神殿、承認は上位行政府。それぞれ別の部署が、別の根拠で動いています」
「一つの命令で、全部を止められなかった」
「止める命令そのものが存在しなかった、というのが正確です。誰も、止め方を決めていませんでした。再開を止めることだけを決めて、周辺をどうするかは誰も考えていなかった」
修司は手元の一覧をセルアスに見せた。
「単一のスイッチがない以上、部署ごとに止めていくしかありません」
「そうなります。骨が折れる作業です」
「やります」
セルアスはわずかに口元を緩めた。
「以前のあなたなら、その前に『なぜこうなったのか』を一通り説明していたと思います」
「説明する時間より、止める時間が先だと思っています」
昼前、修司は端末の前で一覧を整理し直した。召喚を前提にした処理は、思っていたより多かった。資材、儀礼、承認、予備枠。それぞれ別の善意と、別の惰性で動いている。誰かが悪意を持って続けているわけではない。ただ、「いつか必要になるかもしれない」という前提だけが、誰にも止められないまま生き続けていた。
「次の召喚を前提にしない運用に作り替える必要があります」
第86話の夜に整理した言葉を、修司は端末に打ち込んだ。抽象的な宣言だったものが、今は具体的な作業リストに変わっている。資材徴発の停止手続き、神殿儀礼予約の見直し、上位承認テンプレートの差し替え、基盤炉の受け入れ準備の確認。
昼すぎ、リゼットが資料を抱えて執務室に顔を出した。
「召喚を前提にした処理の一覧、もらいました。これ、部署ごとに担当者へ説明していく必要がありますよね」
「そうなります。止める作業自体は事務的ですが、止める理由は丁寧に伝える必要があります」
「分かります。何年もその仕事をしてきた人にとっては、止まる、というだけで不安になりますから」
「不安にさせない言い方を、一緒に考えてもらえますか」
「もちろんです」
リゼットは資料を抱え直して、頷いた。
午後、修司は資材徴発の停止申請を一件ずつ起票していった。単純な作業だったが、件数は思った以上に多かった。一件処理するごとに、別の部署から似たような項目が出てくる。召喚を前提にした処理は、王国の運用のあちこちに細かく根を張っていた。
夕方近く、マルファスが息を切らせて執務室に入ってきた。
「真鍋さん。基盤炉の方から、保守主任が話したいと言ってきています。今すぐ、と」
「何かありましたか」
「出力の話だそうです。専門のことは私より、本人から直接聞いた方がいい」
修司は端末を閉じて、マルファスと共に基盤炉の管理区へ向かった。
地下へ続く通路は、いつもより少し冷えていた。保守区の入口で、年配の男が待っていた。基盤炉保守主任のドルムだ。袖をまくった腕に、長年の作業でできた傷跡が何本も残っている。
「真鍋さんか。急に呼んで悪い」
「何かありましたか」
「出力の配分が、じわじわ合わなくなってきている」
ドルムは手元の記録板を修司に見せた。数字の列が並んでいる。専門用語は多かったが、ドルムは噛んで含めるように説明した。
「ここ最近、帰還した召喚者が増えただろう。あれは、いいことだ。誰も文句は言わない。だが、基盤炉に入ってくる力の量が、その分だけ目減りしている」
「召喚者の方が帰還すると、基盤炉への供給が減る、ということですか」
「正確には知らん。俺は炉の番をしているだけだ。だが、帰還が進むたびに、入ってくる量がわずかに減っている。今のところは備蓄でなんとか持っているが、この先も同じ調子で進めば、いつかは足りなくなる」
修司は記録板の数字を見た。今すぐ問題が起きる水準ではない。だが、傾きは一方向だった。
「分かりました。詳しく見せてもらえますか」
「いつでも構わない。ただ、今日伝えておきたかった。あんたが進めていることに、文句を言うつもりはない。ただ、こっちの数字は、あんたの仕事の裏側で正直に動いている」
修司はその言葉を端末に書き留めた。
召喚を前提にした旧い処理を一つ止めるたびに、王国は少しだけ「召喚なしで回る形」に近づく。だが同じ歩みの裏側で、基盤炉という別の現場が、別の理由で軋み始めていた。
帰すことと、保つこと。今日まで別の話だと思っていた二つが、地下の保守区で初めて、同じ線の上に並んだ気がした。
「明日、改めて伺います。今日はありがとうございました」
「いつでも来い。炉は逃げない」
ドルムはそう言って、保守区の奥へ戻っていった。
修司は通路を戻りながら、今日整理した一覧を思い出した。召喚を前提にした処理は、まだ半分も止まっていない。それを止め終える前に、もう一つの問題が地下から顔を出していた。
帰すほど、何かが足りなくなっていく。明日、その数字を確かめなければならない。




