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第86話 現仕様、選択権として

 朝、帰還準備室に入ったとき、アニカはすでに椅子に座っていた。


 少し早かった。体が硬い。手のひらを膝の上で合わせ、指先を組んでいる。


「アニカさん、準備はいいですか」


「……はい」


 アニカが顔を上げた。眠れなかった顔ではなかった。眠ったが、それでも朝が来てしまったという顔だった。


「今日はカテゴリーB事前分離工程の初回試験です。帰還本番ではありません」


「分かっています。……念のため聞いてよいですか。今日これが終わったら、次は」


「工程の結果を確認して、接続条件の確認に入ります。その後、帰還本番の準備が始まります。今日は、そこへ続く一段です」


 アニカは少し息を吐いた。


「はい。分かりました」


 エイラが端末を操作した。X-01の補助を段階的に落としてきた期間を経て、今日は接続前の波形確認から入る。


 画面に波形が映った。


「波形が出ています。揺れていますが、危険域には入っていません。事前分離工程の目標範囲内です」


 アニカが画面を見た。


「揺れてるんですね」


「揺れています。ただ、これは分離前の正常な揺れです。分離後に波形が安定するかどうかを確認するための試験なので、今は揺れていていい」


「分離後に安定しなかったら」


「工程を止めます。次の段階には進まない。今日の結果で次を判断します」


 アニカは頷いた。


 エイラが分離処理を開始した。三分かかった。

 画面の波形が少し動いて、それから落ち着いた。揺れは残っているが、幅が縮まっていた。


「安定しました。危険域に入っていません。事前分離、完了です」


 アニカが長く息を吐いた。


「これで……帰るための準備が、一つ終わりましたか」


「一つ終わりました」と修司は言った。「今日はここまでです」


 アニカはしばらく立たなかった。椅子に座ったまま、さっきまで波形があった画面の方を見ていた。立てないのではなく、立つ前に一度呼吸を整えているだけだった。波形はもう消えている。安定したことは、確認した。今日の結果は、正しかった。


---


 午前の後半、ガルドが来た。


「サナさんに身分証が出ました。受け取って、今窓口から出てきたところです」


 サナは廊下に立っていた。薄い紙の書類を両手で持っている。居住区の配給窓口の手続きが書かれた書類だ。身分証の欄には「召喚者生活保護・非供給接続」という分類が入っている。


「受け取りました」


「身分証がある状態で、窓口はどうでしたか」


 サナは少し間を置いた。


「昨日まで、配給を受け取るたびに、記録欄に勇者備蓄の費目コードが入っていました。だから毎回、棚卸しの関連書類が一枚ついてきた。今日から、それがなくなりました。……食べ物をもらうたびに、備蓄扱いされなくて済む」


「今後も同じ場所で受け取れます」


「はい。あと、これで、門の外に出られますか」


「出られます。身分証が正規の証明書になったので、門での確認が通ります」


 サナは書類を折り畳んだ。丁寧に折った。


「そうですか。……じゃあ、明日にでも、外の市場を見に行ってみます」


---


 昼すぎ、リゼットが図書室の許可証をレオに渡した。

 廊下で渡した。レオは受け取って、書いてある文字を読んだ。


「……再確認日が、三か月先になっています」


「決断期限ではないです。三か月後に、また話をする日が設定されているだけです。その日に決めなくても、また日程を作れます」


 レオは許可証を見たまま、少し止まった。


「今まで、いつまでに決めろ、という話しか来ていなかったので……」


「今回は違います。まだ決めなくていい、という状態を正規に登録しました。保留は未処理ではなく、情報待ちの合法状態です」


 レオは顔を上げた。泣きそうな顔をしていた。泣かなかったが、近かった。


「……図書室、今日から使えますか」


「今日から使えます」


---


 夕方の前に、カズヤが廊下で修司を待っていた。


 壁に背をあずけて、腕を組んでいた。来るのを見越していた顔だった。


「カズヤさん。少し時間はありますか」


「呼ばれると思ってました。俺、どうなりますか」


「前線代替計画が別工程として立ち上がりました。あなたが最後でなければならない理由は、切り離されて別の形で処理されます」


「俺が最後でいい、と言ったのは変わらないんですか」


「変わりません。ただ、今回から、その意思は保留として記録されます。自己犠牲ではなく、別工程が整うまでの待機として。……保留でいいですか」


 カズヤがしばらく黙った。


「……俺も、保留でいいのか」


「いいです」


「……分かりました」


 それだけ言って、カズヤは壁から離れた。


 廊下が少し静かになった。カズヤが何かを決めたわけではない。今日から、その意思は保留として記録されている。自己犠牲でも、諦めでもなく、待機として。それが何を変えるかはまだ先の話だが、決断を強いられない状態が、今日から正式に存在する。


---


 夕方、修司は仮仕様のログを確認した。


 端末を開いて、今日の処理結果を並べた。


〔カテゴリーB事前分離:正常完了〕

〔残留者供給リンク拒否権:登録済み〕

〔保留者再確認周期:登録済み〕

〔召喚再開関連旧分類:監視継続〕

〔修司魂ID:例外調査対象〕


 五項目のうち、四つは前進した。最後の一項だけは変わらなかった。


 最後の一項が、自分自身のことだった。他者の選択権を一つずつ動かした日に、自分の帰還先だけは変わらない。それは今日に始まった話ではないが、今日もまた並走していた。


---


 夕方遅く、リゼットが居住区の掲示板に一枚の紙を貼った。


 文面はシンプルだった。


「帰ること、残ること、まだ決めないこと、は、どれも手続き上認められた状態です。決断を求められた場合は、根拠条文を確認してください。誰にも、急ぐよう求める権限はありません」


 掲示板の前で、何人かが立ち止まった。読んで、顔を見合わせた。それだけだった。


---


 夜が深くなってから、配給列は終わり、帰還準備室の警告灯は黄色のままで安定していた。外出許可を更新した者が数名、居住区に戻った。


 大きな動きはなかった。それが正しかった。


 修司が最後に端末を確認したのは、他の者が引き上げた後だった。


 魂ID照会の画面を開いた。昨日のエイラの記録が残っている。〔参照先:深層分類コード・照会不可〕。


 更新を押した。


 新しい行が増えていた。


〔帰還先ノード:未定義〕

〔管理参照:基盤炉深層保守補助〕

〔削除可否:不可〕

〔備考:標準召喚者分類外〕


 修司はその四行を読んだ。二度読んだ。


 帰還先が未定義ということは、帰る先が設定されていない。基盤炉深層保守補助というのは、自分が今この基盤の何かに関与しているということだ。削除不可というのは、処理できないということだ。標準分類外というのは、他の召喚者に当てはめた運用が自分には当てはまらないということだ。


 今日通した三原則は、他人のための選択権だった。自分のIDが照会不能な場所に着地していることへの答えは、今日は出なかった。


 修司はその画面を保存した。


 「次は、王国が召喚者なしで回る形を作る必要がある。自分の問題は、その先で向き合う」


 端末を閉じた。

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