第85話 選択権の仮仕様
朝、三件が同時に詰まった。
最初はアニカだった。会議室に入ってくるなり、書類の束を机に置いた。
「カテゴリーB事前分離工程、再開待ちです。先に進めようとしたら、承認局から止められました。『分離後の対象をどの分類に置くかが未確定なので、工程を再開できない』と」
次がガルドだった。門の当番から回ってきたという紙を持っている。
「残留を選んだサナさんが、身分証の発行待ちで止まっています。今のままだと、サナさんは門の外へ出る正規の手段がない。召喚者でも、住民でもない、宙ぶらりんの状態です」
最後がリゼットだった。
「保留を選んだレオさんの外出許可が、今日で期限切れです。更新しようとしたら、窓口が『保留者の外出許可を更新する根拠がない』と言ってきました。保留は未処理扱いなので、許可を出す欄がそもそもないんです」
三人の話は、別々の現場の話だった。だが、詰まっている理由は一つだった。
「三件とも、帰還、残留、保留を、正式な状態として扱う根拠がないから止まっています」と修司は言った。「分類辞書は直しました。費目は分かれるようになった。でも、運用の現場が使う『この人はこの状態です』という根拠が、まだ仮のままです」
「昨日オルフェさんが出した申請は、まだ持ち帰り検討中ですよね」とアニカが言った。
「検討中です。検討を待っている間に、現場は毎日止まります」
修司は立ち上がった。
「待っていても進みません。今日中に、現場で使える仮仕様を一本通します」
セルアスが公文書案を持ってきたのは、午前の半ばだった。
分厚かった。修司は最初の数枚を読んで、手を止めた。
「長いです」
「長くしました。前例がないので、根拠条文を一つずつ引いて、漏れがないように書いています」
「セルアスさんの仕事としては正しいです。ですが、これは王宮側に通りません」
「なぜですか」
「前例がないものを、長い文書で出すと、読む側は『これだけ書かないと成立しないなら、よほど無理があるのだろう』と受け取ります。長さが、不安の根拠になります」
セルアスはしばらく文書を見て、頷いた。
「……分かります。では、どうしますか」
「圧縮します。三つの原則に絞ります」
修司は紙を一枚取り、三行書いた。
「一、帰還希望者は、本人同意と接続条件に基づいて帰還工程へ進む。二、残留希望者は、供給源ではなく、生活者として保護される。三、保留者は、未処理ではなく、情報待ちの合法状態とする」
セルアスがその三行を読んだ。
「これだけ、ですか」
「これだけです。細かい条文は、この三原則の下にぶら下げます。王宮側には、まずこの三行を見せます。長い文書は、質問が出たときに開く」
「……前例がない、と言われたら」
「前例がないのは事実です。隠しません。ただ、前例がないことと、根拠がないことは別だと説明します」
午後、王宮側との場が開かれた。
保守派の一人が、三原則の紙を見て、最初に口を開いた。
「召喚者に、これだけの選択権を与えるのか。帰るも残るも保留も本人次第となれば、防衛計画はどうなる。必要な数の勇者を、必要なときに確保できなくなる」
「確保できなくなる、というのは、選択権を与えなければ確保できる、という前提ですね」と修司は言った。
「そうだ。召喚者を計画通りに配置できてこそ、防衛は成り立つ」
「その配置は、本人の同意なしに行われています」
「非常時だからだ」
修司は少し間を置いた。
「選択権を奪うことで維持される防衛計画は、もう通常運用ではありません。非常時の措置を、何十年も続けてきた結果が、今の帳簿の歪みです。人を在庫として数えないと回らない計画は、計画そのものが壊れています」
保守派が言い返そうとしたが、修司はそこで現場の証言につないだ。
バルトが帳票を広げた。
「残留を選んだ者を、勇者備蓄の費目で処理し続けると、帳票事故が起きます。実際に起きました。生活している人間が、備蓄として計上され、棚卸しのたびに『現物がない』と弾かれる。人が、欠損として扱われるんです」
ガルドが続けた。
「身分証がない者は、門で止まります。サナさんは今、外へ出られない。残留を選んだのに、住む場所の外に出る手段がない。これは保護ではなく、放置です」
リゼットが言った。
「本人同意は、形式化すると意味を失います。『同意しますか』と聞いて『はい』と書かせるだけなら、それは選択ではありません。同意を、接続条件と一緒に説明したうえで取らないと、結局、本人は何に同意したか分からないまま帰還工程に乗ります」
エイラが最後に言った。
「技術的に言うと、一括帰還は危険です。帰還先ノードが空欄の人がいます。接続条件が揃っていない人を、計画の都合でまとめて帰すと、戻る先のない帰還になります。だから、帰還も一律ではなく、本人ごとに条件を確認する必要があります」
四つの証言は、別々の現場の話だった。だが、すべて同じ一点を指していた。帰還、残留、保留を、本人と条件に基づいて、別々に、正規に扱わなければ、現場が壊れる。
保守派は、しばらく黙っていた。
「……即時に全部を認めるわけにはいかん」
「全部を認めてくださいとは言っていません」と修司は言った。「今日通したいのは、仮仕様です。完全な法ではありません。現場が、明日から人を止めずに済むための、暫定の根拠です。不都合があれば、運用しながら直します」
承認局での手続きに入ったところで、揺り戻しが来た。
オルフェが端末から顔を上げた。
「分類辞書が、一部エラーを出しています。三原則を反映させようとしたら、『保留』の状態に対応する既存コードがなくて、辞書が参照先を見失っています」
「保留は、新しい状態だからですね」
「はい。このままだと、保留を選んだ人が、また宙ぶらりんになります」
「現場で修正申請を通せますか」
「通常フローだと数日かかります。ただ、暫定措置として、保留状態に仮コードを割り当てて、後から正式コードに置き換える方法があります。昨日の費目上書きと同じやり方です」
「それでお願いします。仮コードであることを、必ず記録に残して」
「残します。仮であることが分かるように、頭に印をつけます」
オルフェが申請を通した。アニカが分離工程の再開条件を確認した。ガルドが門の当番に新しい扱いを伝えた。リゼットがレオの外出許可の根拠欄を作った。エイラが辞書を保存した。
別々の現場が、同じ午後に、一斉に動いた。
夕方、仮仕様が受理された。
「帰還監査標準運用・初版」という名前がついた。完全な法律ではない。条文の多くは仮で、保留の正式コードもまだ仮のままだ。だが、現場が明日から使える根拠にはなった。
セルアスが受理の控えを修司に渡した。
「初版、という名前にしました。直す前提だという意味です」
「いい名前です。完成版にしなかったのが正しい」
「完成版にすると、直せなくなりますから」
受理の直後、アニカが会議室に戻ってきた。今度は急いでいた。
「修司さん。事前分離工程、再開できます。分離後の対象を置く分類が決まったので、承認局の止めが外れました」
「最初の試験は」
「カテゴリーB、一例だけ。明日の朝、最初の分離試験を始めます」
修司は控えを机に置いた。
「立ち会います。最初の一例は、仕様が現場で本当に動くかを確かめる場です。机の上で通った仕様が、現場で人に対して使えるかは、別の話なので」
アニカが頷いて、出ていった。
会議室に残ったのは修司一人だった。
机の上に、今日通した三原則の紙がある。その横に、昨日エイラが残した別の紙がある。〔参照先:深層分類コード・照会不可〕と書いてある。自分の魂IDが、どの分類にも着地しなかった記録だ。
修司はその紙を、三原則の紙とは別の場所にしまった。
今日通したのは、他人の選択権の仮仕様だ。自分がどの分類にも入らない理由は、まだ分からない。分からないものは、分からないまま、別の場所に置いておく。
明日の朝、最初の分離試験が始まる。




