第81話 最後でいいと言う勇者
訓練場に人影は少なかった。
朝の早い時間で、通常の訓練はまだ始まっていない。砂の地面に、人が動いた跡が残っている。誰かが一人でずっと動いていた跡だった。
カズヤが木の柱に向かって素振りをしていた。
剣を持っていない。素手で、繰り返し同じ動作をしている。打ち込んで、引いて、踏み込んで。小さな声も出さず、ただ黙って動き続けていた。
リゼットが声をかけた。
「カズヤさん」
手が止まった。振り返った。
「……リゼットさん」
「もう前線には出ないと聞いていましたが、毎朝ここにいるんですね」
「身体を動かしていないと。何を考えていいか分からなくなるので」
それだけ言って、また柱に向き直った。リゼットは横に立って、しばらく何も言わなかった。
兵士たちが通りかかったのは、日が高くなってからだった。
三人組で、装備を点検しながら訓練場の端を歩いていた。カズヤを見て、足を止めた。一人が頭を下げた。
「カズヤ殿。先日は前線でお世話になりました」
カズヤが振り返った。
「あなたがいてくださったから、あの夜の守りが持ちました。礼を言わせてください」
カズヤは何も言わなかった。一度頷いて、また前を向いた。三人が通り過ぎてから、その背中がほんの少し、固くなっているのをリゼットは見ていた。
感謝の言葉が積み重なるたびに、カズヤの足がここに向く理由が少し分かる気がした。
リゼットがカズヤに聞いたのは、昼過ぎのことだった。
訓練場の隅に並んで座った。カズヤは水を飲んで、少し息を整えていた。
「帰りたいですか」
カズヤが静止した。水の入った器を持ったまま、少し間があった。
「……帰りたい。ずっと帰りたかった」
「それは今も」
「今も」
「でも?」とリゼットが続けた。
「帰っていいのか分からない」
リゼットは急かさなかった。次の言葉をカズヤが選ぶ時間を、そのまま置いておいた。
「あいつが帰ったとき……」とカズヤは言った。ユウトのことだ。
「初めて本当のことに思えた。帰れる、というのが。それまでは、そのうち帰れるとは聞いていたけど、何か遠い話みたいで、実感がなかった」
「今は実感があるんですね」
「ある。だから余計に、帰っていいのかと思う」
「帰っていいのか、というのは」
「俺が抜けると、前線がどうなるか」とカズヤは言った。感情より先に状況を言う言い方だった。
「供給リンクの問題も、昨日エイラさんから少し聞きました。俺の接続が深すぎて、すぐには切れないと。それは分かっています。手順が必要なことは分かっている」
「技術的な問題は修司さんが確認しています」
「技術的な問題だけじゃないんです」
カズヤが器を地面に置いた。
「前線の連中が、俺を当てにしている。さっきみたいに礼を言いにくる人がいる。俺が抜けると代わりが必要になる。代わりが見つかるまで、誰かがしわ寄せを受ける。……それが分かっているから、最後でいいと言っています。後ろめたいから、ではなくて、順番として理にかなっていると思っているから」
「理にかなっている」とリゼットが繰り返した。
「そう」
「カズヤさんが帰ることで誰かがしわ寄せを受ける、というのは、本当のことだと思いますか」
「……どういう意味ですか」
「帰るとしわ寄せが出る、というのが事実なら、修司さんが確認します。でも、それがカズヤさんの帰還判断の材料になるべきことかどうかは、別の話かもしれないと思って」
カズヤはリゼットを見た。すぐには言葉が出てこなかった。
修司が前線防衛計画の書類を確認したのは午後だった。
帰還監査の権限で、軍務側から提出された現行計画書を参照した。地域別の防衛配置、魔力供給の割り当て、有事の際の対応手順。
カズヤの名前が、複数の箇所に出てきた。
「勇者カズヤの供給リンクを前提とした出力安定」。「カズヤ連携時の結界維持時間」。具体的な数値が、カズヤが存在することを前提に計算されていた。
帰還工程を設計するためにカズヤの接続状態を確認しようとすると、その接続が前線防衛計画に組み込まれているため、切り離す前に代替案が必要だという話になる。代替案が決まるまで帰還工程は進めない。帰還工程が進まないからカズヤは残る。残るから代替案の緊急性が下がる。
一周して元に戻る仕組みだった。
カズヤが「最後でいい」と言うほど、この仕組みは安定して動き続ける。
軍務担当者との確認は夕方に行った。
担当者の名はヴォルテン。軍務局の実務を担う、実直な印象の中年だった。書類を持って来て、修司の前に広げた。
「カズヤ殿の接続削減に向けて、代替戦力の試算を行いました。ご確認いただけますか」
修司は書類を受け取った。数字が並んでいる。代替となる魔力源の候補。基盤炉の出力調整。地方炉の補助。それらを組み合わせた場合の前線維持可能期間。
「この試算が整うまでは、接続削減に入れないということですか」
「技術的な安全のためには、代替が確保されてから順を追うのが妥当です」
「代替の確保にどれくらいかかりますか」
「……現状の申請ペースですと、半年から一年程度になります」
「その間、カズヤさんの帰還工程は止まりますか」
「止まる、というよりは……代替が整ってから開始するという順番になります」
「カズヤさんの帰還工程の開始を、前線の代替計画の完了に依存させているということですね」
ヴォルテンが少し間を置いた。
「安全のための順番として——」
「それは帰還判断を前線維持の条件に紐付けていることになります」
「……そういう見方もありますが、前線の安全も重要な問題であり——」
「それは、別の問題です」
扉が開いた。
ダリルが入ってきた。書類を一枚持っていた。
ヴォルテンを見て、修司を見た。何があったかを一瞬で判断したような顔をした。
「ヴォルテン」とダリルは言った。声は低く、短かった。
「カズヤ殿が抜けた後の前線を誰が維持するかは、軍の運用責任だ。本人の帰還判断に組み込む問題ではない」
「しかし司令、現実として代替が——」
「代替を用意できていないのは軍の問題だ。本人がそれを理由に帰れないのでは、制度が人を縛っているのと同じことになる」
ヴォルテンが口を閉じた。
ダリルが修司の方を向いた。
「帰還工程の設計と、前線代替計画は別工程にできますか」
「できます。カズヤさんの帰還工程を進めながら、並行して代替計画を整備する。どちらかが完了するのを待たずに、同時に動かします」
「そうしてください」
「司令の権限で、代替計画の申請を別途起票してもらえますか。帰還監査の記録には、この二つが独立した工程であることを明記します」
「起票します。今日付けで」
夕方、修司はカズヤに結果を伝えた。
帰還準備室に呼んだわけではなく、廊下で会ったところで話した。
「カズヤさんの帰還工程の設計を、前線の代替計画から切り離します。代替計画は軍務局が別途進めます。どちらかの完了を待たずに、両方同時に動かします」
「……前線の代替が整わなくても、帰還工程は進みますか」
「進みます。帰還工程の技術的な条件が整えば、前線の状況に関係なく進められます」
カズヤが少し黙っていた。
「でも、前線に穴が開いたら」
「それは軍務局の責任として、軍が解決します。カズヤさんが解決する問題ではない」
「……俺が帰ることで、誰かが困る可能性がある。それは本当のことですか」
「短期的には、代替が整うまでの間に負荷が増す箇所が出る可能性があります。ゼロとは言えない」
「やっぱり」
「ただし。その負荷を誰が負うかは、制度の設計の問題です。カズヤさんが帰ることを選ばないことで解決する問題ではないです。残り続けることで解決を先送りし続けることになります」
カズヤが修司を見た。何かを言おうとして、止まった。
「最後でいい、と俺が言うと」
「制度がそれを都合よく使います。帰還を最後まで延ばせる理由として記録に残ります」
カズヤの目が、少し動いた。怒っているのではなかった。何かが、少し緩んだような動き方だった。
「……分かっていたような気もします。言い訳になっているのかもしれない、と」
「最後でいい、は間違いではないかもしれないです。ただし、それは技術的な工程の順番の話であるべきです。前線への義務感からそう言うのとは、別の話です」
「区別できますか。自分でも、どっちか分からなくなっている」
「今はそれでいいと思います。分からないなら、判断を急がなくていいです。ただし工程は進めます。進めながら、カズヤさんが自分で判断できる状態を作ることが先です」
カズヤが少し顎を引いた。それだけだった。
でも修司には、さっきまでと少し違う立ち方に見えた。
夜、修司は前線代替試算の数字を確認していた。
ダリルが別途起票した申請書が届いていた。代替計画の初期試算が添付されている。
修司はその数字を開いた。
基盤炉の出力調整。地方炉の補助投入。既存の召喚者供給リンクを段階的に削減した場合の各部門への影響。
数字を部門別ではなく、魔力源別に並べ直した。誰が何に当てにされているかを見るためだ。
並べ直すと、一つのことが見えた。
カズヤだけではなかった。
試算の中の複数の欄に、「召喚者供給リンク維持を前提とした場合」という条件が付いている。カズヤの名前が書いてある欄だけではなく、他の欄にも同じ条件が散在していた。
防衛。基盤負荷。地方炉の予備率。
複数の部門が、召喚者が残ることを前提に試算を組んでいた。
修司は画面を見たまま、少し考えた。
カズヤ一人の話ではなかった。試算表全体が、召喚者を残留させることを前提として作られている。残留を前提に置かなければ、数字が合わない構造になっている。
帰還を進めながら、この構造を見直す必要がある。それは次の仕事だ。
修司はメモを取って、端末を閉じた。




