第77話 残る者は燃料ではない
治療院の奥の部屋で、サナは包帯を畳んでいた。
一枚ずつ、きれいに折りたたんで棚に並べる。急ぐ仕事ではない。けれど、手を動かしていると頭の中が静かになる。
この世界に来てから、ずっと騒がしかった。身体が慣れない感覚。空気の重さ。何度試みても頭に入らない言葉。帰りたいという気持ちは今もある。消えたわけではない。
ただ、ここで手を動かしていると、少しだけ呼吸ができる気がした。
「サナさん」
リゼットが入ってきた。サナは手を止めずに振り向いた。
「今日も来てくれたんですね」
「少し聞かせてもらえますか。残留の件です」
サナは包帯を一枚折り終えてから、棚に置いた。
「残ろうと思っています。決めました」
「理由を聞いていいですか」
「ここでやれることがあるから。帰っても、自分の部屋があった場所に戻れる気がしない。時間がどれくらい経っているか分からないし、帰ってから何をするかも分からない。でもここには、今日やることがあります」
薬草の仕分け。記録の整理。怪我人が来たときの補助。どれも小さいが、やった分だけ誰かに届く。
「帰りたいという気持ちは残っていますか」と、リゼットが確認するように聞いた。
「あります。だから残留って言葉がちょっと嫌なんですよね。諦めて残る、みたいに聞こえて」
「残ることを選んだ、の方が近いですか」
「そうです。今は、の話です。今は残ることを選んだ」
仮登録は、居住区管理室で行った。
ミレーヌが端末を開いて、前の日に作った仮分類の欄を呼び出した。「残留希望・権利未整備」の欄にサナの名前を入れる。
「まず氏名と接続状態の確認をします。それから——」
ミレーヌが操作を続けると、端末の下の方に新しい欄が現れた。
自動で展開されてきた。ミレーヌが入力したわけではない。
〔協力召喚者登録(任意)〕
項目が並んでいる。氏名。身体状態。得意分野。それから最後に。
〔緊急時供給接続許可:□同意する〕
サナが画面を見た。しばらく黙っていた。
「供給って。また燃料になるってことですか」
ミレーヌが手を止めた。端末を見て、サナを見た。答えが出てこなかった。
「このフォームは私が出したものではないんです。登録を進めたら自動で出てきて……」
「出てきた、ということは。残るって言ったら、出てくる仕組みになっているんですか」
ミレーヌは何も言えなかった。
修司が管理室に来たのは、ミレーヌから連絡を受けてすぐのことだった。
端末を確認した。昨日のサナの仮登録記録。その直後のタイムスタンプで生成された協力召喚者登録フォーム。
修司はフォームを開いたまま、別の画面を引いた。
残留登録の書式と、旧勇者補充書式を並べる。
項目の見出しは違う。書類の名前も違う。だが、修司が確認したかったのは見出しではなかった。書式が内部で参照している分類辞書のIDだ。
同じだった。
残留登録書式の「登録種別」欄が参照している辞書と、旧勇者補充書式の「対象種別」欄が参照している辞書が、同じIDを指していた。
修司は辞書の中身を確認した。
〔残留召喚者:→ 近似分類:稼働可能召喚者〕
一行だけ。明快だった。
残留を選んだ召喚者は、辞書の上では「稼働可能な召喚者」として近似分類される。書式の名前が変わっても、辞書が同じなら分類の結果は変わらない。
協力召喚者登録フォームが自動生成されたのは、この辞書が残留登録を「稼働可能」と読み取ったからだ。
「エイラさん、確認できますか。残留登録で参照している分類辞書。どの時点から存在しているものか」
「少し待ってください。……これ、凍結した旧テンプレートより前からあります。勇者補充書式が作られる前の、もっと古い分類です」
「凍結対象に入っていなかった」
「テンプレートは凍結しましたが、辞書そのものは対象にしていませんでした。テンプレートを止めても、辞書が生きていれば、新しい書式が同じ辞書を呼び出せます」
修司はメモを取った。テンプレートを凍結しても、分類辞書が生きていれば別の経路から戻ってくる。今日、それが起きた。
王宮保守派の担当者が来たのは午後だった。
名前はケルハイム。管理局の上位機関にある、王宮内政府の参事だ。穏やかな話し方をする人物で、怒鳴ることも脅すこともなかった。ただ、言っていることは明確だった。
「残留召喚者への協力接続は、王国防衛上の必要から設けられた制度です」
修司と向かい合って、静かに言った。
「現在、前線に依存していた魔力供給の代替が完全には整っていません。残留を選ぶ方は、それだけ長くこの世界に滞在することになる。その間、有事の際に一定の協力をいただくことは、無理な要求ではないと考えています」
「協力の内容は何ですか」と修司は聞いた。
「供給接続の維持です。魔力を——」
「本人が自発的に供給契約を結ぶことは可能です。本人が申し出て、条件を交渉して、同意した上で契約する。それは通常の労働契約の範囲です」
「それで構いません」
「では、今のフォームとは別の話です。今のフォームは、残留登録をした時点で自動生成されます。本人が申し出たわけでも、交渉したわけでもない。空白のチェックボックスが表示される前に、本人はすでに同意を求められている状態になっています」
「任意と書いてありますが」
「任意であることを説明した上で表示されているなら、任意です。登録手続きの中に埋め込まれて自動で出てきた場合、本人は断れると分かりにくい」
ケルハイムが少し間を置いた。
「防衛上の必要は、現実にあります」
「あることは分かります。ただ、防衛上の必要と、本人同意なしに身体への接続を対象に含めることは、別の問題です。必要があるなら、必要であると説明して、本人に判断を求める。残留の選択に自動で紐付ける形はとれません」
「労働契約と供給接続を分けると言うのですか」
「はい。本人が働くこと、報酬を受けること、契約を結ぶことは可能です。ただし、本人の同意なしに身体・魂・魔力への接続を結ぶことは、帰還監査の基準では認められません」
ケルハイムはしばらく黙っていた。修司を見たまま、何かを測るような時間があった。
「……あなたの言う基準は、正式に承認されたものですか」
「現在、仮仕様として運用中のものです。正式承認の手続きは進行中です」
「仮仕様の範囲では」
「仮仕様の範囲では、本人同意なしの接続は認めません」
また沈黙があった。ケルハイムは立ち上がらなかった。しばらく考えてから言った。
「……防衛協力の契約窓口を別途設ける、という形なら検討できます。残留登録と切り離し、本人が個別に申し出る経路にする」
「それであれば、登録書式への自動紐付けは外せますか」
「検討します」
ケルハイムが出ていった後、修司はエイラに向いた。
「フォームの自動生成を止める方法を確認してください。辞書の近似分類を経由している可能性があります」
「今見ています。……やはり辞書経由です。残留登録が辞書を呼び出して、稼働可能に近似分類された後、協力登録フォームを呼び出す流れになっています」
「辞書の近似分類を削除すると他に影響がありますか」
「確認します。......他の書式でもこの辞書を参照しているものがあります。削除ではなく、優先順位を変える方が安全です」
「どうやって変えますか」
「近似分類の上に、明示的な別分類を置く。検索順位が上の分類があれば、辞書は近似よりそちらを先に返します」
修司はメモを開いた。
「残留者保護対象という分類を仮設します。残留を選んだ召喚者は、稼働可能への近似よりも先に、この分類に当たるようにしてください」
「分類の定義はどう書きますか」
「生活権・居住権・医療権・身分証明権を保有する者。供給源としての接続は、別途本人が締結した契約がある場合に限る。それを定義に入れてください」
エイラが入力した。修司が確認した。
〔残留者保護対象〕
〔定義:生活権・居住権・医療権・身分証明権を保有する者〕
〔供給接続:別途本人契約がある場合に限る〕
〔近似分類「稼働可能召喚者」への自動紐付け:無効〕
「これで辞書の検索順が変わります。残留登録をしても、近似分類に到達する前に保護対象で止まります」
「フォームの自動生成は止まりますか」
「止まります。フォームの生成条件が、稼働可能分類への到達を条件にしているので」
「分かりました。今日付けで仮設します」
サナに結果を伝えたのは夕方だった。
管理室に来たサナに、修司は説明した。残留登録に自動で付いてきた供給接続フォームは、残留者保護対象という新しい分類を仮設したことで生成が止まった。防衛協力の契約窓口は別途設けられる予定だが、残留の登録と切り離される。
「今日、サナさんが見た欄は、残留を選んだら自動で出てくる仕組みになっていました。あれは任意と書いてありましたが、登録手続きの中に埋め込まれていた。今後は同じことが起きないよう分類を変えました」
サナはしばらく黙っていた。
「……残るって言ったことで、また接続される、みたいな話になるのかなと思っていました」
「今日の段階では、そうはなりません」
「今日の段階では」とサナが繰り返した。少し苦いような顔をした。
「あなたがいる間は、ということですか」
「仮仕様として記録に残します。正式承認の手続きも進んでいます。ただし、仮仕様の正式化が完了するまでは、仮設の分類で動かします」
「記録が残れば、あなたがいなくなっても有効ですか」
「記録があれば、後から確認できます。後から変えようとした場合、変えた事実も残ります」
サナが少し顎を引いた。
「記録が、守るんですね」
「残ります」
短い沈黙があった。それからサナが言った。
「……ありがとうございます。残ることを、諦めとは別の話にしてもらえたから」
修司は何も言わなかった。答えが要る場面ではなかった。
帰りかけたとき、廊下にレオが立っていた。
壁に背中を預けて、両手をポケットに入れていた。管理室の扉の近くで、中の話が聞こえていたのかもしれない。
修司が近づくと、レオが顔を上げた。
「聞いていました。すみません」
「構いません」
レオはしばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「残るって言っても怖い。帰るって言っても怖い」
言葉が途切れた。続きを選んでいる間があった。
「決めなかったら、僕はどうなるんですか」
修司は廊下の壁を背にして、レオと同じ向きに立った。
「次の話をします」




