第75話 成功例は標準ではない
廊下の端で、アニカは自分の手のひらを見つめていた。
指先が少し、震えていた。
深呼吸をしてみる。吸って、吐いて。震えは止まらない。止まらないまま、帰還準備室の扉がある方向を見た。
ユウトが帰れた。
その話は昨日から居住区中に広がっていた。帰還準備室の前に並んでいた召喚者たちが、互いに顔を見合わせて、小さく声を上げた。帰れる。本当に、帰れる。
アニカも同じだった。帰りたい。毎日そう思っていた。ここに来てからずっと。
ただ、最近、少しだけ体がおかしい。
三日前から眠りが浅い。朝起きると頭が重く、午後になると脚が怠い。X-01の補助を段階的に落としている時期だと言われていたから、そういうものだと自分に言い聞かせてきた。言い聞かせながら、今日の呼び出しを待っていた。
アニカは両手をぐっと握り、廊下を歩き始めた。
——帰れるんだから。ユウトが帰れたなら、私だって帰れる。
帰還準備室に入ると、すでに何人かが待っていた。
修司とエイラが端末を挟んで立っていた。その斜め後ろに、白い上着を着た男が書類の束を持って立っている。
アニカは今日で二度目の顔合わせになる。修司と同じ日にこの世界へ召喚された、六人のうちの一人。カテゴリーBの分類が付いた、という通知だけは受け取っていた。その意味をまだ、誰にも教えてもらっていなかった。
もう一人の男はエイラが短く教えてくれた。王宮魔導院から来た人間で、名前はノルド。帰還審査の実務担当として今回から入ると言う。
「アニカ・セルタ殿。お待たせしました」
ノルドが書類をめくりながら言った。声が事務的で早い。
「昨日の帰還成功事案は把握しています。第一号の手順が標準工程として確立されました。本日はあなたを第二号として、同型手順で進めます」
アニカは少し眉を動かした。
「同型……ですか」
「ええ。第一号が正常終了した以上、同じ工程として扱えます。チェックリストはこちら」
ノルドが書類を差し出した。
それはユウトの帰還時に使ったものの複写だった。項目が几帳面に並んでいる。X-01補助の段階的解除。波形の確認。仮分離テスト。承認。本番実行。
修司が書類を受け取り、一度だけ眺めてから黙ってエイラに渡した。
「事前波形の確認を先に入れましょう」と修司は言った。
「波形は事前チェックリストの項目に含まれています」とノルドが返した。
「手順通りに進めれば問題ない」
「含まれていますね。ただ、波形の中身を先に見ておきたい」
「帰還第一号と同型の工程です。大きく違う部分は出ないはずですが」
「出ないかどうかを確認するために見ます」
ノルドが少し口元を固くした。エイラはその隣で、端末の方を向いたままだった。
アニカが検査台に座った。
エイラが計測器を起動した。修司がその隣で、表示される波形を静かに見ている。
波形が画面に出た。
修司の目が、少しだけ止まった。
波形そのものは、閾値の内側にある。数値で見れば問題ない。しかし、波形の揺れかたが、ユウトのときとは違う。ユウトは緩やかな山を描いていた。アニカの波形は、細かく速い。
「異常ではない揺れです」とエイラが言った。
「閾値には引っかかっていません」
「分かりました」と修司は言った。
そして画面の別の部分を指した。
「X-01補助を一段落とした時の反応記録、見せてもらえますか」
「今日の分はまだ取っていませんが、直近の補助調整記録があります」
「そっちを」
エイラが数日前の記録を呼び出した。修司が画面に近づいた。
X-01補助の段階調整ログ。一段落としたタイミングで、身体維持補助側の値が跳ね上がっている。一瞬だけ、補正要求が過剰になっている。
数値はすぐに収束している。結果として「問題なし」と記録されている。
ただ、その一瞬の跳ね方が、ユウトの記録にはなかった。
「アニカさん。最近、X-01を落とした後で、体が重くなったり、夜眠れない時間がありましたか」
アニカは一瞬、黙った。
「……少し。でも、大丈夫です」
「大丈夫ではないと言っているのではないです。念のため確認したかっただけです」
「帰れますよね」とアニカが聞いた。声が少し小さくなっていた。
「事前テストをやってから判断します」
仮分離テストが始まった。
本番と違い、帰還処理の接続は切らない。ただ、X-01補助を一段下げて、身体がどう反応するかを見る。
アニカは「大丈夫です」と言って、検査台の上でまっすぐ座った。
エイラが操作した。補助が一段、落ちた。
三秒。
五秒。
アニカの体が、ゆっくりと傾いた。
膝がついた。検査台の端をつかもうとして、指が届かない。リゼットが横から支えた。音を立てずに、素早く。
「アニカさん、聞こえますか」
「……はい」とアニカが言った。
「聞こえます、大丈夫、ちょっとだけ……」
「今すぐ補助を戻します」
エイラが補助レベルを元に戻した。アニカの体から、少しずつ力が戻ってきた。
生命に危険はない。値も閾値内だった。ただ、人が膝をついた。
修司は本番帰還の実行を、その場で止めた。
「閾値内の反応です」
ノルドが言った。
「正常範囲内の体調変動として処理できる。手順を変える方が、かえって工程の安定性を損ないます」
「閾値内だから安全、ではないです」
修司が返した。感情はなかった。淡々と、確かめる口調だった。
「切り戻し前提の工程設計において、初期反応が前回と違う場合は差分を確認する必要があります。閾値を下回っていても、補正要求が過剰に出ているなら、その理由を見てからでないと本番には進めません」
「理由を見てどうするんですか。結論が変わりますか」
「変わるかどうかは見てから判断します。変わらないと先に決めるなら、それは確認ではなく消化です」
ノルドが眉を動かした。エイラが静かに端末を操作していた。
修司は画面を引いた。ユウトの事前記録と、アニカの直近記録を並べる。
「第一号の帰還直前、X-01補助はほぼ解除されていました」
「そうです」とエイラが確認した。
「段階的に落とした結果、帰還時点ではほぼ自立状態でした」
「アニカさんの記録では、補助を落としたとき、身体維持補助側が補正要求を出しています。ユウトの記録では、この補正要求が出ていない」
ノルドが書類から目を上げた。
「それは、個人差の範囲では」
「個人差が出ている理由を確認しています」
修司はアニカの初期記録を呼び出した。召喚された直後の接続ログだ。
「アニカさんは召喚直後の適応期間が長かった。第一号より二倍以上です。適応期間中に、生活補助系の微細な接続が入っています。戦闘系は薄いですが、日常の身体維持に関わる補助が長く残っている」
「それがカテゴリーBの理由ですか」とリゼットが聞いた。
「カテゴリーBは危険度が高いという意味ではないです。生活適応補助が長期的に残存しているという工程上の分類です。帰還前にそれを段階的に分離する工程が、第一号には必要なかったため省かれていた。省かれたままで進めると、今日のような反応が本番中に出ます」
ノルドが腕を組んだ。
「……手順の変更には、魔導院の審議が必要になります」
「本番を止めているのは今日だけの話です。必要な事前分離工程を追加して、それを通してから本番に進む。手順の変更ではなく、手順の補完です」
沈黙があった。
リゼットがアニカの隣に座っていた。
アニカは体調が戻っていたが、両手を組んで膝の上に置いたまま、顔を上げていなかった。
「帰れないんですか」
絞り出すような声だった。泣いていない。ただ、泣きそうだった。
「帰れないという意味ではありません」
修司が言った。声は穏やかだったが、曖昧にしていなかった。
「今日の本番を止めたのは、準備が足りていないからです。足りていない部分を補ってから進む。それだけです」
「でも今日できなかったということは……」
「今日は、事前分離工程を設計する日になりました。本番帰還の一つ前の工程を整える日です」
アニカが顔を上げた。
「……いつになりますか」
「何日かかるかは今の段階では確定できません。ただ、補助の残存状態を確認して、段階的に分離する手順を組む。それが終われば本番に進めます」
「延期、ですか」
「中止ではなく、延期です」
アニカが少し唇を動かした。
「……延期と中止は、違うんですね」
「違います」
リゼットがアニカの背に、そっと手を置いた。
帰還準備室の片隅で、修司は端末を開いた。
アニカの欄に〔事前分離工程要〕と入力してから、一覧の他の欄に目を移した。
修司はユウトの事前記録とアニカの記録を、もう一度並べて表示した。
補正要求の跳ね方が、一方にあって一方にない。数値だけ見れば同じ「閾値内」だが、中身が違う。その違いがチェックリストのどこにも書かれていなかった。
ユウトの手順は、ユウトに合った工程として成立していた。アニカには合っていなかった。それだけのことだ。
修司は一覧を下にスクロールした。
カテゴリーC、D、E。それぞれの欄に名前がある。接続状態の記録欄は、ほとんど空白のままだ。台帳には「帰還待ち」とだけ書かれている。
今日アニカで確認したことを、残りの全員について誰かが確認したという記録は、どこにもなかった。




