第67話 神託枠の抜け道
朝の最初の仕事が、昨夜のエイラの通知の確認だった。
神殿側端末から神託系の処理要求が出ている、という一行だ。修司はコンソールを開き、要求の詳細を引き出した。要求の種別コードを昨夜の合議フロー凍結の記録と照らし合わせる。
種別コードは合議フローのどの経路とも一致しない。
独立した枠だった。
「エイラさん、この要求の発信元経路、もう少し詳しく出せますか」
エイラが自分のコンソールで作業しながら答えた。
「神殿の通常管理系統じゃなく、別系統から来ています。昨夜のうちに経路を追いかけていたんですが——神殿に登録されている緊急経路の一つで、通常の承認フローを通らない」
「通らない、というのは」
「承認局も魔導省も経由しません。神殿が独自に保有している処理枠です。昨日の凍結公文書の送付先に、この枠の存在が書かれていなかった」
「書かれていなかった、というのは、私たちが把握していなかった」
「そうなります。凍結公文書を出した後で動いてきた経路なので……」
修司は少し考えてから、まず災厄判定ログを引き出すことにした。
マルファスを呼んだのは午前の早い時間だった。
昨夜のうちに神託系処理要求の中身をある程度開いていたが、術式の構造を読むには修司の専門外の部分がある。マルファスはちょうど監視室の隣の部屋で作業していた。声をかけると、億劫そうな顔で顔を出したが、ログを見せた途端に表情が変わった。
「これ、神託枠か」
「そう読んでいます。まず術式の構造を教えてもらいたい。神託枠がどういう条件で発火するか」
「神託枠は本来、大規模災厄の前兆が基盤炉に出たとき、神殿が通常手続きを省略して動ける非常処理だ。発火条件は基盤炉の急激な負荷変動——具体的には、定常値の一定割合を超えた出力変動が短時間に起きた場合」
「その閾値を見せてもらえますか」
マルファスが手を伸ばし、ログの別のファイルを開いた。数値が並んでいる。目を細めて、少しの間見ていた。
「……古い」
「古い、というのは」
「この閾値、更新されていない。見た感じ、二十年以上前の仕様のままだ。当時の基盤炉は今より出力が低く、急変動は本当に異常の兆候だった。今の基盤炉は出力規模が上がっているから、同じ変動量でも比率として見ると大きく見えることになる」
修司は少しの間、その説明を頭の中で整理した。
「今の基盤炉で正常運用の範囲内の変動でも、古い閾値だと異常判定される」
「そうなる。更新されていなければ、な」
「帰還試算ログを見てもらえますか」
修司が別のウィンドウを開いた。昨日エイラと組んだ帰還準備計算の試算ログだ。帰還処理を実行した際の想定負荷変動が数値として出ている。
マルファスがそれを見て、神託枠の発火閾値と並べた。
修司は画面を見た。並べると一目で分かる。帰還処理の想定負荷変動が、神託枠の発火閾値を超えている。
「……帰還準備の計算を走らせるだけで、これが発火する」
「試算を走らせただけで、か。本番実行なら確実に超える。現在の閾値ではな」
「つまり」
「帰還処理を始めようとした瞬間に、神殿の神託枠が『災厄の兆候あり』と判定して発火する。神殿はその枠を使って召喚準備を始められる」
室内が少し静かになった。エイラが手を止めた。
「昨夜の処理要求は、帰還試算を走らせたから来た」
「俺が言えるのは術式上の話だ」とマルファスは言った。「意図してそうなっているかどうかは分からん。ただ、現仕様上はそうなる」
修司は頷いた。断定せず、記録に入れる。
〔神託枠発火条件:古い基盤炉閾値が未更新。帰還処理の負荷変動が発火条件を超える——マルファス術式評価〕
午前中に、ミナから連絡が来た。
リゼットが前日から連絡を取っていたようで、「昨夜、また指示が来ました。今回は神託命令という形で」と短い文面が届いた。リゼットが返信して、会って話を聞けないかと連絡を取った。
ミナが来たのは昼前だった。神殿区画の近くの小道、人通りの少ない場所で三人が話した。リゼットが隣に立ち、修司は少し離れて聞いた。
「昨夜、先輩から呼ばれて、新しい指示書をもらいました」ミナは声を少し低くして言った。前回より緊張した様子はなかったが、目の下に疲れが出ていた。「内容は前回と似ていて、附属倉庫への追加搬入と、召喚陣周辺の清掃です。でも今回の指示書、上の欄に『神託命令・緊急』という印が押してありました」
「前回の指示書と比べて、何か違いがありましたか」
「通常業務だと、指示書は前日に出ます。でも今回は当日の夜中に来て、朝までに準備しろという内容でした。先輩も少し慌てた様子で、私も理由を聞く間がなくて」
「指示書の発行元はどこですか」
「神殿資材管理です。でも今回は、その上に神殿典礼長の名前も入っていました。普通の搬入指示に典礼長の名前が出るのは初めてで、変だなとは思いました」
「その指示書、今持っていますか」
「はい」
ミナが折り畳んだ紙を出した。リゼットが受け取り、修司に渡した。
見ると、上部に神託命令の印と典礼長の署名がある。内容はミナの言った通りだ。搬入品目と量が書いてあり、前回の指示書と型番が一致している。
「この指示を実行しましたか」
「搬入の準備だけ始めました。でも今朝、先輩が『少し待て』と言ってきて、止まっています」
「先輩が止めた理由は」
「分からないです。ただ先輩の顔がすごく固かったので、何か上の方で揉めているのかなと思って」
修司はミナを見た。
「今日はここで待っていてもらえますか。引き続き搬入は止めておいてください。指示書は監査記録に使わせてください」
「……はい。何があったか、教えてもらえますか」
少し間があった。リゼットが修司の様子を確認してから、ミナに向き直って言った。
「昨夜、神殿の端末から緊急の処理要求が出ました。その内容が、神託命令と関係している可能性があります。あなたが受けた指示は、その処理の一部として来たものだと見ています。あなたは悪いことをしていない。今止まっているのは正しい」
ミナが少し息を吐いた。「……分かりました」
午後の早い時間に、修司は聖女と会った。
場所は神殿区画の外、王都中層区にある礼拝用の小さな建物の一室だった。聖女の方から「話したいことがある」と連絡を寄越してきた。
聖女は修司が入室すると、椅子に座ったままこちらを向いた。白い衣の袖を軽く整えてから、真っ直ぐに話し始めた。
「昨夜、神託枠が動いたことはご存知ですか」
「昨夜の処理要求として確認しています」
「典礼長が発令しました。帰還監査の作業負荷が基盤炉に異変をもたらす兆候である、という判定を根拠にして。神託枠はそういうときのための制度です。ただ」
聖女は少し間を置いた。視線を手元に落として、また修司に戻した。
「今回の発令に私は同意していません。神託とは、神の意志を現場に届けるための手続きです。しかし、昨夜の発令は神の意志ではなく、帰還監査を止めるための手段として使われていると私には見えます」
「その考えを典礼長に伝えましたか」
「伝えました。返ってきた言葉は『基盤炉の異変を放置することは神殿の義務に反する、黙って従え』でした」
「それで、ここに来た」
「はい」
修司は聖女を見た。以前ぶつかった相手だが、今は表情が違う。確信と迷いが両方ある目だと思った。信仰を武器として使っている顔ではなく、何かと戦おうとしている顔だ。
「昨夜の基盤炉の負荷変動の原因を教えてください。典礼長はそれを災厄兆候と呼びましたが、私自身は確認できていない」
「帰還処理の試算を走らせた際の負荷変動です。帰還準備計算が基盤炉に一時的な負荷をかける。その数値が、神託枠の発火閾値を超えた」
「帰還準備が、神託枠を起動させた」
「現仕様上そうなっています。閾値が古い仕様のままなので、今の基盤炉規模では正常動作の範囲内の変動でも発火する」
聖女がゆっくりと頷いた。
「つまり、召喚者を帰そうとするたびに、神殿は神託枠を使って召喚準備を始められる」
「そうなります」
「帰還しようとすることが、召喚再開のトリガーになっている」
「現仕様では、はい」
しばらく沈黙があった。聖女は視線を窓の外に向け、それから戻した。
「……最悪ですね」
修司は何も言わなかった。
「私が証言します。今回の神託命令は、基盤炉の技術的異変への対応ではなく、帰還監査への対抗手段として使われていると。神殿の現場でそれを確認できる立場の人間として、記録に入れてください」
「証言を使う際に、あなたへの影響が出る可能性があります。典礼長が知れば」
「知るでしょう。覚悟の上です」
修司は頷いた。「記録します」
神殿上層部が動いたのは、午後の遅い時間だった。
典礼長の代理人が修司とセルアスのいる監視室を訪ねてきた。五十代と思われる男で、神殿の上位職員の衣をまとっている。副長とは別の人物だ。
代理人は挨拶を省いて言った。
「聖女が監査チームに接触したと伺いました。彼女の言葉を記録として使うことは、神殿の内部事項への不当な干渉にあたります」
「聖女は自らの意思で証言を申し出ています」とセルアスが答えた。「強制ではありません」
「彼女は神殿の務めを負った者であり、外部へ発言する際には典礼長の承認が必要です。その手続きを踏んでいない」
「その手続きは、神殿内規ですか。帰還監査の公文書上の制約ではないと理解していますが」
「神殿の権威に関わる問題です」
修司が静かに言った。
「今回の神託命令が発令された根拠は、基盤炉の負荷変動が災厄兆候にあたるという判定です。その判定の技術的妥当性を確認することは、帰還監査の範囲内です。聖女の証言は、その確認の一部として取得しています」
「技術的な問題は神殿が判断します」
「神託枠の発火閾値が、現在の基盤炉仕様に対応した値かどうかの確認を神殿に求めることはできますか。具体的には、閾値の最終更新日と、当時の基盤炉出力規模の記録を」
代理人が一瞬止まった。
「……確認します」
「記録してください」とセルアスが言った。閾値の記録開示を要求したという事実が、この場に残る形で。
代理人はそれ以上言わず、立ち上がった。退出する前に一言だけ言った。「聖女への接触はお控えください」
扉が閉まってから、セルアスが静かに息を吐いた。
「閾値を出してくるとは思えませんが、開示できないという記録が積み上がります」
「それでいいです」と修司は返した。
夕方、修司はマルファスとエイラを呼んで、フィルタの設計に入った。
やることは単純に言えば一つだ——帰還試算由来の負荷を、神託枠の発火判定から除外する暫定フィルタを入れる。ただし技術的には単純でなかった。
「基盤炉の負荷変動として届く数値から、帰還試算の計算負荷だけを分離できますか」とエイラが聞いた。
「試算の処理にタグを付けておけばできる」とマルファスが言った。
「試算を走らせるとき、専用の識別子を付けて実行する。神託枠の判定側で、その識別子の付いた変動を除外するルールを入れる」
「神殿側の判定システムに直接変更を入れられますか」
「無理だ。こっち側からは入れられない。できるのは、基盤炉が神殿側へ送るログの形式を変えること——試算負荷と本番負荷を別フィールドに分けて送る。神殿側がどう解釈するかはコントロールできないが、少なくとも試算だと分かる形にはなる」
「それが今できる最大値ですか」
「そうだな」
修司はそれを書き留めた。完全な解決ではない。神殿側が「別フィールドでも同じ扱いをする」と言えば突破される。ただし、試算と本番が区別されていることが記録上明示されれば、神託枠を使った際に「帰還試算を災厄と判定した」という事実が残る。
「やってください。フィルタではなく、送信フォーマットの変更として」
「了解」
エイラが修司を見た。
「本番帰還処理を走らせたらどうなりますか。試算より負荷は大きい」
「本番処理に識別子を付けることはできますか」とマルファスに聞いた。
「付けられる。ただし、本番帰還処理の負荷が閾値を超えることは変わらない。識別子があっても、神殿が無視すれば神託枠は発火する」
「神殿が無視した場合の記録が残る」
「残る」
修司は少し間を置いてから言った。
「閾値の更新を神殿に求めることも、並行して進めます。セルアスさん経由で。閾値が現在の基盤炉仕様に合っていないなら、更新は神殿の義務でもある」
「通りますか」とエイラが聞いた。
「すぐには通らないかもしれない。ただ、更新を求めた記録と、神殿が対応しなかった記録が積み上がる。今夜の凍結公文書の補足として追加します」
エイラが静かに頷いた。マルファスはすでに作業を始めていた。
夜、フォーマット変更の作業を終えてから、修司は今日の記録をまとめた。
整理した事実は三つある。一つ目——昨夜の神託系処理要求は、帰還試算の負荷変動を災厄兆候と判定した神託枠の発火によるもの。二つ目——神託枠の発火閾値は二十年以上前の仕様のまま未更新で、現在の基盤炉規模では帰還処理の正常負荷でも超える。三つ目——聖女の証言により、今回の神託命令は技術的判断ではなく帰還監査への対抗手段として使われているという神殿内部からの指摘がある。
応急対応として、基盤炉から神殿への負荷ログ送信フォーマットを変更し、帰還試算由来の負荷と本番処理の負荷を区別できる識別子を付けた。神殿側がどう扱うかはまだ分からない。
修司はメモの最後に書いた。
〔現仕様のズレ:帰還処理の負荷変動が、古い閾値を使う神託枠の発火条件を満たす——帰還しようとすると召喚再開準備が起動するループが存在する〕
ユウトの帰還本番を実行するためには、このループを止めなければならない。
止める方法は二つある。一つは神託枠の閾値を現在の基盤炉仕様に合わせて更新すること。もう一つは、神託枠そのものの使用を帰還監査期間中に制限すること。どちらも神殿の内部を動かす必要がある。
セルアスへのメモに追加した。明日の朝、閾値更新の要求公文書と、神託枠使用制限の申請を同時に出す。
扉が軽く叩かれた。リゼットだった。
「ミナさんが今日の話を聞いて、一つ言っていたことがあって」
「どうぞ」
「先輩が今朝、搬入を止めると言ってきた理由を聞けたそうです。先輩に典礼長から直接連絡が来て、昨夜の神託命令について、監査チームが動いているから搬入を急ぐ必要があると言われたって。先輩はそれを聞いて、急ぐ理由が神託の内容にあるわけじゃないと気づいて、一度止めることにしたそうです」
「先輩というのはミナさんの直属ですか」
「そうです。名前は教えてもらっていないけど、搬入を止めた判断は自分でしたって言っていました」
修司は少し考えた。
「その判断を記録に入れておいてください。神殿の現場で搬入を止めた事実として」
「ミナさんが証言できるかどうか、また聞いてみます」
「急がなくていいです。ミナさんに負担がかからない形で」
リゼットが頷いた。それから少し声のトーンを変えて言った。
「修司さん、ユウトに今日の話、どのタイミングで伝えますか」
「明日、フィルタの動作を確認してから。今夜は伝えない」
「彼、自分が帰ろうとするたびに何かが起きると知ったら、また諦めようとするかもしれない」
「そうかもしれません」
「でも知らないままの方が辛い場合もある」
「そうですね」と修司は言った。
「伝える前に、ループを止める見通しを一本立ててから伝えます。問題だけ伝えても困らせるだけなので」
リゼットが少し黙ってから「分かりました」と言った。
廊下へ出てから、一度振り返った。「修司さん、今日も遅くまで、ありがとうございます」
「仕事なので」
「それでも、ありがとうと言いたい」
扉が閉まった。
監視室に一人になった修司は、コンソールの前に向き直った。画面には、今夜入れたフォーマット変更の確認ログが出ている。神殿側にどう受け取られるかは、明日の朝に分かる。
ユウトへの説明は、見通しを立ててから。それが今夜の結論だった。
ただ——見通しが立つのがいつになるかは、まだ分からない。




