第66話 責任者のいない合議
承認局の小会議室は、窓が一つしかない狭い部屋だった。
修司、セルアス、オルフェの三人が卓を囲んでいる。オルフェが持ってきた書類の束が、卓の半分を占めている。昨日今日で集めたものではなかった。彼が何日も前から手元に残していたものだと、紙の端の折れ具合から分かった。
修司は昨夜整理した資料を広げた。承認印の時刻、実行ログのタイムスタンプ、各部署の処理記録。
「整理してきた内容を確認させてください」と修司は言った。「今回の召喚再開予約の合議フロー、四部署のうち、最初に承認フラグが立ったのはどこですか」
「承認局です」
オルフェが迷わず答えた。声は落ち着いていたが、手元の書類を押さえる指に少し力が入っていた。
「二十四日前、旧-〇二八番テンプレートを使った点検書類が神殿から提出されました。私が通した書類です。承認印を押した時点で、テンプレートの構造上、承認局フラグが自動的に立ちました。私はその日、フラグが立ったことを知りませんでした」
「フラグが立ったことを知らせる通知は来ましたか」
「来ません。書類を処理すれば自動的に立つ仕組みになっています。確認する手順が、承認局の業務フローに入っていない」
セルアスがそれをメモに書き留めた。修司はタイムラインの「一番目」の欄に〔承認局フラグ:テンプレート処理と同時に自動立ち上がり、担当者への通知なし〕と書いた。
「次は神殿です。承認局フラグが立って何日後に神殿フラグが立ちましたか」
「六日後です」
オルフェが自分の書類の一枚を示した。「神殿からの触媒搬入承認書の控えです。先の調査でミナさんから確認された搬入作業が、この日に正式に完了扱いになっています。搬入完了が確認されると、神殿管理局のフラグが自動で立つ処理になっています」
「神殿側は、フラグが立つことを知っていましたか」
「神殿の担当者ではなく、上層部が把握していたかどうかは分かりません。ただ、フラグが立つ仕組みはテンプレートに書いてあります。知ろうとすれば知れた」
修司はタイムラインの二番目の欄に書いた。
そこからセルアスが引き取った。「魔導院は昨日、防衛予備権限で上書きを要求してきました。その時点で、魔導院フラグはどうなっていますか」
「魔導院フラグは、帰還用安全余裕に流用禁止タグが付与された時点で、自動的に有効化されています」
修司は手を止めた。「防衛予備権限の申請ではなく、タグが付いた時点で」
「そうです。タグが付いた、つまり帰還用バッファとして資源が確保されたことが、『リソースが一定量確保された』という条件を満たしたため、魔導院側のフラグが立った」
「三十秒で上書き要求が来た理由が分かった」
修司はそれを書き加えた。〔魔導院フラグ:帰還用安全余裕確保のタグ付与を条件に自動立ち上がり〕
「四つ目、軍務部は」
「昨日の申請で保留中です。処理が止まっています」
四部署のタイムラインが一列に並んだ。
承認局が二十四日前に起点を作り、神殿が六日後に次を足し、魔導院が昨日加わった。軍務部だけが止まっている。三対一の状態だ。
修司はそのタイムラインを卓の中央に置いて、オルフェとセルアスの両方が見られる向きにした。
「このフローで誰かが全体を見ていましたか」
オルフェがゆっくりと首を振った。
「私が見ていたのは、神殿から来た書類の書式が正しいかどうかです。書式が正しければ通す。それが私の仕事でした。他の三部署が何をしているかは、私には見えない。見える仕組みもない」
「神殿は」
「神殿の搬入担当者は、指示書に従って触媒を運んでいました。搬入が完了したら承認の記録を出す。その記録が何のフラグを立てるかは、下の担当者には分からない」
「魔導院は」
「魔導院は、リソースが確保されたら防衛予備として申請する条件が組まれていたと見ています。実行した担当者は、その条件が何のトリガーになっているかを確認していなかったと思われます」
セルアスが静かに言った。「全員が、自分の範囲の手続きを正しく踏んでいる」
「そうです」と修司は返した。
「全員が正しく動いている。ただ、全体として何が起きているかを見ている人間がどこにもいない。だから誰も止めなかった。止める理由が見えなかった」
「……責任者がいない」
「正確には、全員が部分的な責任者です。ただし、全体の責任者がいない」
オルフェが小さく息を吐いた。それだけで、彼がこの状況を何日か前から感じ取っていたことが伝わってきた。
「私が通した書類が起点になっているのは事実です。テンプレートの問題だとしても、私が通したことで動き始めた」
「あなたが通したことで動いた、というのは正しい」と修司は言った。「ただし、あなたが止めようとしても止められる仕組みが承認局にありましたか」
「……ありませんでした。書式に問題なければ、止める権限がない」
「そこが問題です。書式は正しい。でも、その書式を通すと何のフラグが立つかを確認する仕組みが、どこの部署にもない」
昼前、リゼットが監視室から承認局に来た。
オルフェの部屋の近くで、廊下の隅に三人の若い文官が立っていた。二十代前半と見える。昨日から書類整理をしていた下級の担当者たちだ。
リゼットは通りかかりながら自然に話しかけた。
「今日も早いですね」
「はあ……まあ、書類が詰まっているので」
「最近、忙しい感じはありますか」
三人が顔を見合わせた。その目配せは「話していいのか」という確認のようだった。一番背の低い女性の文官が、少し声を落として言った。
「忙しいというか……なんか、上から次々と差し替えが来るんです。一度通した書類を訂正するように言われたり、新しいテンプレートを使えって急に言われたり」
「誰から来ますか」
「上からとしか言われなくて。直接の上司の名前で来ますけど、その上司も上から言われたって言うので、どこから来てるのかよく分からない」
「何かミスをしたら、あなたたちの責任になりますか」
今度はもう少し間があった。隣の男性の文官が、小さい声で言った。
「基本的にはそうなります。書類を通した担当者名が残りますから。テンプレートに従って処理しても、結果に問題があれば担当者が問われる形になってます」
「テンプレートが間違っていても?」
「テンプレートを選んだのは担当者だ、という話になります」
リゼットは頷いた。それ以上掘り下げなかった。「ありがとうございます。お仕事の邪魔をしてすみませんでした」と言って歩き出した。
午後、修司とセルアスは承認局の上層部と向き合うことになった。
相手は前回と同じ三人の管理職だ。今回は向こうから呼んだのではなく、修司側が会議を申し込んだ。
「確認したいことがあります」と修司は言った。
「合議フローの責任分界について、各部署の担当範囲を明確にしたい」
「召喚再開予約の合議フローは、正式な手続きに従っています。王宮・神殿・魔導院の承認がすべて揃う形になっており、どこかが単独で決めているわけではありません。正規の手順です」
管理職の一人、中央に座った男が答えた。落ち着いた声だった。前回より少し慎重な様子がある。
「その合議フローで、全体影響を確認している部署はどこですか」
「各部署がそれぞれの専門範囲を確認しています」
「帰還用安全余裕が召喚枠と同じリソースIDを参照していることを、どの部署が確認していますか」
「……それは技術的な管理の問題で、魔導省の管轄になります」
「魔導省は確認しましたか」
「魔導省に確認すべき事項です」
「魔導省は防衛予備権限の申請を出す立場です。申請を出す前に、帰還バッファへの影響を確認しましたか」
今度は少し間があった。
「魔導省の手続き内容については、私どもには分かりません」
「承認局は、合議フローのフラグが立ったとき、他の部署のフラグ状況を確認する手順がありますか」
「……ありません。各部署が独自に管理しています」
「では承認局の観点で言えば、神殿からの書類を通した時点で合議フローが動き始めていたことを、どの時点で把握しましたか」
管理職三人が目配せした。中央の男が言った。
「……把握していませんでした。書類の処理の結果として自動的に進む仕組みです」
「把握していなかった。神殿も、触媒搬入完了がフラグを立てると知っていたかどうか確認中です。魔導院は、リソース確保のタイミングで自動発火する条件が組まれていた。三部署のいずれも、フラグが立ったことを把握していないか、把握していても他部署の状況を見ていなかった」
修司は資料を一枚出した。タイムラインの整理だ。
「この状態で合議が成立するとお考えですか」
「……書式上は成立しています」
「書式上は、という限定が付く」
「行政上の手続きは書式に基づきます」
「では、書式上は合議が成立している状態で、全体影響を確認した部署がなく、各担当者はフラグが何を意味するか知らなかった。それが今回の合議フローの現仕様です」
三人は何も言わなかった。
「その現仕様で進んだ結果、帰還用安全余裕に召喚再開予約のリソース参照が入った。帰還監査として、これを見過ごすことはできません。合議フローを帰還監査完了まで凍結する申請を出します」
「正式手続きを止める根拠がありません」
「全体影響の確認が欠けた合議の根拠を問います」と今度はセルアスが静かに言った。「各部署に確認照会を出します。帰還用安全余裕への影響を確認した記録があれば、提出してください。記録があれば凍結の根拠は弱くなる。なければ、確認不足の合議として保留の根拠になります」
管理職の中央の男が、少し声のトーンを変えた。「……照会には対応します」
「結構です」
夕方、修司はオルフェと二人で廊下に出た。
会議が終わってから、オルフェが「少し話せますか」と言ってきた。二人は窓際に立った。外は夕暮れになっていた。
「さっきの会議で、上層部は『書式上は問題ない』と言いました」オルフェはそう切り出した。手を組んで、窓の外を見ながら。「彼らは間違っていないんです。書式上は正しい。手続き上は正しい。私が通した書類も、書式上は正しかった」
「そうですね」
「でも、正しい書式を正しい手順で通した結果が、誰も意図しない場所へ向かっていた」
「そこがズレです」
「監査官。私は一つ、お願いがあります」
オルフェがこちらを向いた。四十代半ば、疲れた目をした実務家の顔だった。
「承認局の内部テンプレートを改訂する申請を、私から上げたい。今の合議フロー凍結と並行して、テンプレートに全体影響確認の欄を追加する改訂案を作りたいと思っています。凍結が解けた後も、同じことが起きないように」
「それは承認局の内部判断でできますか」
「改訂の申請は私が出せます。通るかどうかは上層部の判断になります。ただ、申請を出した記録は残る。上層部が何を判断しても、現場からそういう声があったことは消えない」
修司はオルフェを見た。六十一話で初めて会ったときとは、少し表情が違っていた。あのときはただ動揺していた。今は前を向いている。
「やってください」と修司は言った。「その申請、監査記録に関連文書として添付してもいいですか」
「構いません。むしろそうしてほしい」
夜、セルアスが責任分界表の草案を持ってきた。
四部署のそれぞれが確認すべき範囲、確認していた範囲、確認していなかった範囲を三列に分けた表だ。セルアスらしい、簡潔で読みやすい構成だった。
「これをベースに、合議フロー凍結の公文書を起草します。根拠は二つです。一つは全体影響確認の欠如。もう一つは帰還監査中の安全余裕への参照です」
「承認局上層部から照会への回答は来ましたか」
「今日中には来ないと思います。ただ、照会を出したという事実が記録に入りました。回答が遅れるほど、確認していなかったという状況証拠が積み上がります」
修司は責任分界表を手に取った。四部署の列を眺めた。
「これを見ると、欠けているのは確認の欄だけじゃないですね」
「おっしゃる通りです」セルアスが言った。
「各部署の確認すべき範囲の欄が、最初から定義されていない。何を確認するかが決まっていないから、確認したかどうかを問えない」
「合議の設計自体に確認責任が入っていない」
「はい。これが根本的な問題です。合議が成立するためには、参加者全員が合意対象の全体を見ていることが前提のはずです。この合議フローは、その前提がない」
「それを公文書に入れてください。合議の設計が確認責任を含んでいないという事実を」
セルアスが頷き、草案に書き込み始めた。
夜も更けてから、リゼットが監視室に来た。
昼に廊下で話した下級文官のことを、修司に伝えた。テンプレートに従って処理しても問題が起きれば担当者名が残るという話だ。
「担当者が責任を取るなら、担当者に全体を確認できる仕組みが必要ですよね」
「そうです」
「でも、その仕組みがない状態で担当者が責任を取らされている」
「それが現仕様です」と修司は言った。「改善の入口は二つあります。一つは確認できる仕組みを作ること。もう一つは、仕組みのないところで担当者に責任を押しつけない記録を残すこと。今日、オルフェさんがテンプレート改訂の申請を出すと言ってくれた。セルアスさんが責任分界表を作った。この二つが、後者の土台になります」
「あの文官たちが気の毒で」
「彼らも記録に残ります。証言として」
リゼットが少し頷いた。「……分かりました」
深夜、合議フローの凍結公文書が完成した。
セルアスが修司に最終版を見せた。宛先は四部署の長と、魔導省の統括部門だ。
「明朝、一斉送付します。凍結の有効期間は帰還監査完了まで。解除には監査チームの承認が必要という条件を入れました」
「解除要件に承認者の欄を作ってください。誰が解除したか記録が残る形に」
「入れました。また、凍結中に迂回経路を使った場合は別件の監査対象になるという一文も添えています」
迂回経路、という言葉を書いたことをセルアスは分かっている。明日、何かがその方向で動くかもしれないと、二人ともどこかで読んでいた。
「よく書けています」と修司は言った。あまり褒めない修司にしては、はっきりした言葉だった。
セルアスが少しだけ表情を緩めた。「慣れてきました、このやり方に」
「どのやり方に」
「断られた記録も、確認しなかった記録も、全部積み上げるやり方に。最初は不格好だと思っていましたが、積み上がると重くなる」
「そうです」
修司はメモに今日の記録をまとめた。
〔合議フロー凍結公文書:完成・明朝送付。責任分界表:四部署の確認欠如を記録。オルフェ:テンプレート改訂申請予定。下級文官証言:確認手段なき担当者責任の構造〕
それで今日は終わりだ、と思ったとき、エイラから短い通知が来た。
「修司さん。召喚の間の神殿側端末から、今夜、小さな処理要求が出ています。通常の点検ログとは違う。種別コードが神託系です」
神託系。
修司は少し考えてから返した。「記録してください。明日確認します」
「承知しました」
神託枠という言葉が、頭の端に残った。凍結公文書を迂回するための経路として、そこが動き始めているとすれば——
修司はメモの最後に一行だけ書き加えた。
〔要確認:神殿側端末から神託系処理要求。合議フロー凍結との関係を明日精査〕




