第68話 帰還前チェックリスト
神殿が保管する帰還儀礼のマニュアルは、羊皮紙三枚だった。
セルアスが正式な文書開示請求を通じて取り寄せてきたものを、修司は朝のうちに広げた。文字は古い書体で、全体の三分の二が祈祷文と術者の精神集中の手順で占められていた。残りの三分の一に、術式の起動順序と魔力の流量目安が書いてある。
修司はまず、最後まで全部読んだ。最初に戻り、二度目を読んだ。
三枚。それで終わりだった。
「エイラさん。地方炉の負荷許容値について、この書類に記載はありますか」
エイラが隣のコンソールから手を止め、修司の持つ書類に目を向けた。ページをめくり、また戻し、もう一度確認してから首を振った。
「……書いていません。帰還処理の途中で召喚者のバイタルが急変した場合の手順も、地方炉に想定外の負荷がかかった場合の処置も、何も」
「儀式として設計されているから、失敗を想定していない。成功すれば帰還する、失敗すれば何が起きるかは書いていない、という構造です」
「……もし失敗したら」
「何が起きるかを誰も記録していない。前例がないか、前例があっても残っていないかのどちらかです」
エイラが両手を膝の上で組んだ。視線はモニターに向いているが、そこを見ているわけではなかった。少しの間、その姿勢のまま黙っていた。
「帰還本番でユウトさんの担当班になる人間が、何を見て何をするか分からないまま当日を迎えることになります。それは困ります」とエイラは言った。声が穏やかだった分、かえって重く聞こえた。
「だから今日、チェックリストを作ります」
午前中は洗い出しから始めた。
修司はメモ用紙に、帰還処理が途中で止まった場合に何が壊れ得るかを書き出していった。ユウトの魂波形。基盤炉への接続状態。供給リンクの遮断途中の残留負荷。地方炉への切り替えが中断した際の影響。生命維持補助の経路。召喚陣の座標補正が途中で消えた場合の帰還精度。
エイラを呼んで、隣に座ってもらい、書きながら声に出して確認していく。
「基盤炉の現場から見て、追加すべき項目があれば足してください」
エイラが紙を受け取り、しばらく眺めてから二項目書き加えた。「帰還処理が途中で止まった際の基盤炉の自動復旧ロジックの挙動。あとは、地方炉の系統切り替えが片方だけ完了した場合に残りの負荷がどこへ逃げるか。この二つは見ていないと気づけないです」
「ありがとうございます」
洗い出しを終えてから、修司は八つの確認項目として整理した。紙の上に番号を振り、それぞれの担当者を書く欄を作った。
一番目は「本人同意」だ。
リゼットに担当を頼むと、彼女は翌日に向けて草案を作ってきた。一枚の紙に、帰還についての確認事項が短い文章で書かれていた。
「これをユウトさんに読んでもらって、それぞれ理解したかを確認します。全部分かった上で自分の言葉で同意を述べてもらい、私が書き留める形にしました。難しい用語は使いませんでした」
「召喚されたときは同意を取られなかった」と修司は言った。
「帰還するときは、本人の言葉で記録を残す」
「そうしたいと思って」
リゼットが草案を渡し、修司はひと通り読んだ。読みやすかった。技術的な記述を言い換える翻訳は、この人間が誰よりもうまいと改めて思った。
「これでいいです。帰還本番の前日までに確認を済ませてください。今日、ユウトさんにも工程の全体像を話してあげてください。当日に備えやすくなります」
二番目は「魂波形の確認」で、エイラが担当した。
帰還処理の前にユウトの魂波形の現在値を基準として記録し、処理中に閾値を下回ったら即座に中断するラインを設ける。マルファスに意見を求めると、億劫そうに来たが、数値を見た途端に表情が変わった。
「閾値の根拠は何にします。既存の記録がないなら類似事例を使うしかないが、何がありますか」とマルファスが聞いた。
「供給リンク縮退を段階的に行ったときのカズヤさんのバイタルデータがあります。完全な根拠にはならないが、参考値にはなる」
「出してみます。ただし、今回は供給リンクを完全に切断するわけで、縮退とは状況が違う。参考値をそのまま閾値にするのは危険だ。余裕を持たせた方がいい」
「同意します。参考値に余裕を持たせた推定値として設定して、記録には『先行事例を元にした推定値』と明示します」
マルファスが自分のコンソールへ戻り、データを引き出し始めた。逃げなかった。それだけのことだが、修司にとってはそれで十分だった。
三番目の「供給リンク段階遮断」と四番目の「生命維持代替」は、エイラと聖女が共同で担当することになった。
聖女が監視室に来たのは昼過ぎだった。神殿からの往来を典礼長に制止されているはずだったが、彼女は来た。修司が椅子を引いて示すと、腰を下ろして修司を見た。
「生命維持補助を独立させたいということでしたね」
「はい。帰還処理中に供給リンクを段階的に遮断するとき、生命維持補助が基盤炉の主回路に依存したままだと、遮断の過程で揺れる可能性があります。物理的な魔石バックアップと二重化して、基盤炉がどういう状態になっても生命維持だけは独立して動き続ける構成にしたい」
「私の安定祈祷は、基盤炉の出力を読んで最適化しています」と聖女は言った。「切り離した場合、その最適化ができなくなります」
「代わりに、ユウトさんの現在のバイタルを直接参照して祈祷を調整する方式に切り替えることは可能ですか」
聖女が少し考えた。窓の外を一度見てから、修司に戻った。
「やったことはないです。ただ、原理的には可能です。基盤炉の出力を読む代わりに、人を直接見る……むしろそちらの方が、本来あるべき形かもしれません」
「今日は本番ではなく、動作確認だけさせてください」
「構いません」という返事は、短かったが力があった。修司はチェックリストの四番目の担当者欄に聖女の名前を書いた。
五番目の「地方炉残量」は、バルトが担当した。
夕方に来て、北部・東部の備蓄魔石の現在残量と、帰還処理当日に投入できる予備量の計算書を置いた。紙の余白まで数字が詰まっている。
「北部は予備一回分、東部はその七割。昨日更新した数字だ」とバルトが言った。
「この量で帰還処理の当日分の負荷を吸収できますか」
「帰還処理の想定負荷をエイラから聞いて足してある。ぎりぎり入る。ただし帰還処理中に別の緊急事態が重なったら足りなくなる。二つ同時には持たない」
「二重障害の場合は切り戻しを優先する条件として書きます。それを前提にした上で、この数字でいいです」
バルトが頷いた。修司は地方炉残量の欄に確認済みの印を入れた。計算書は監査記録に添付することにした。
六番目の「前線結界安定」は、セルアス経由でダリル司令への照会として動かした。
返答は書面で来た。一枚。要約すると、現在の前線は安定しており緊急事態はない、帰還処理中の短時間の負荷変動に対しては縮退運用を受け入れる準備があるという内容だった。最後の一行に「帰還してくれ。その方が良い」と書いてあった。
修司はその一行も含めて、監査記録に入れることにした。
七番目が最も時間がかかった。「召喚系タスク隔離」だ。
修司とマルファスとエイラの三人で、昼過ぎから夕方にかけて基盤炉の深層ログを一件ずつ確認した。これまでの調査で把握してきたものと、今回新たに発見したものを合わせ、帰還処理中に召喚再開に関わるタスクが動かないよう、一つずつ停止確認と隔離設定を入れていく。
タスクは全部で十七件あった。
十七件中十六件は、設定を入れることができた。十七件目を開いたとき、マルファスが手を止めた。
「……これ、止められない」
修司がモニターを覗いた。
「召喚陣の座標補正処理だ。帰還処理が走ると、召喚陣側の座標補正ルーティンが自動で起動する。この処理は帰還処理そのものの一部として組み込まれているから、切ると帰還側の座標精度が落ちる」
「切れないのか、切ると帰還に影響するから切らないのか、どちらですか」
「後者だ。技術的には止められる。ただ、この座標補正が動かないと帰還先の精度が落ちる。ユウトが元の世界のどこへ届くかの精度に影響する」
エイラが「切ると、どれくらい精度が下がるんですか」と聞いた。
「計算してみないと分からない。ただ問題は精度だけじゃなく、この処理が召喚陣の入出力ポートを使っている。帰還と召喚が同じポートを通っているんだ。座標補正処理を完全に止めると、帰還側の補正まで一緒に落ちる」
「今日は止まっているということだけ記録します」と修司は言った。「この一件は未解決として持ち越します」
〔召喚系タスク隔離:十七件中十六件完了。一件未完了——座標補正処理は帰還側と共用のため隔離不可。対応方法を要検討〕
八番目の「切り戻し条件」は、七番目までに集まった全員の確認内容を一枚にまとめ、修司が切り戻しの発動条件を書いた。
ユウトのバイタルが閾値を下回った場合。地方炉の残量が二割を切った場合。基盤炉の出力が想定値の一定割合以上変動した場合。それぞれに中断の判断者と手順を書き、中断を実行したあとの復帰手順も簡潔に添えた。
エイラが読んで、一つ確認した。
「中断の判断者は修司さんだけですか」
「私とエイラさんの二人にします。一人でなく二人で判断する形にしてください。万が一私が確認できない状況になったときのためです」
「……私が判断していいんですか」
「あなたが現場の監視班の責任者です。誰よりも状態を見ています」
エイラは少し間を置いてから頷いた。手元のメモに何かを書きながら、表情が少し固まっていた。怖いのとは違う種類の固まり方だった。覚悟が形になっていく顔に見えた。
チェックリストが一枚の書類として出来上がったとき、バルトロが監視室へ入ってきた。
入口でセルアスと鉢合わせ、セルアスの手にある紙を見て立ち止まった。近づいて、渡されるでも奪うでもなく、セルアスの手元を覗き込んだ。目が動く速さで、中身を読んでいるのが分かった。しばらくして、ゆっくりと修司に向き直った。
「……古代の帰還儀礼には、こういった手順は記録されておらぬのだが」
「記録されていません。神殿のマニュアルを確認しましたが、失敗時の対応が一切書かれていなかった。だから作りました」
「古代の賢者たちが残さなかったものを、我々が勝手に付け加えることになる」とバルトロは言った。
「それは不敬に当たらないか」
修司はバルトロを見た。怒っているのではない。本気で問いかけている目だった。
「古代の賢者たちがこの手順を残さなかった理由は分かりません。省いたのか、失われたのか、そもそも想定していなかったのか。ただ現在、ユウトさんという実在の人物が帰還処理を受けようとしている。その人が途中で危険になったとき、止める手順がなければ、私たちは止めるという判断すらできません」
バルトロは黙っていた。廊下の外で誰かの靴音が通り過ぎた。
「古代の記録に敬意を持つことは正しいと思います。ただし、記録に書いていないから人を守る手順を作ってはいけない、とはなりません。賢者たちが作りたくても作れなかった手順を、今の技術で補うことは、敬意に反しないと考えます」
長い沈黙があった。バルトロは視線を落とし、もう一度チェックリストを見た。目が特定の欄で止まった。切り戻し条件の欄だ。何か言いかけて、少し口元が動いて、やがて言った。
「……承認しよう。ただし、実行後に経過記録を全て残すことを条件とする。後世の者が今日の手順を参照できる形にせよ」
「します。それも手順書の一部に入れます」
バルトロが頷いて、部屋を出た。
夜、セルアスがチェックリストを監査記録として正式に登録した。
文書の種別は「帰還工程実行手順書・第一版」として登録し、帰還工程においては神殿の帰還儀礼マニュアルより本文書を優先適用するという一文を加えた。
「これで、神殿儀式の手順よりこちらが優先される根拠ができます」とセルアスが言った。「帰還監査の権限範囲内での運用手順として承認された形です」
「神殿が異議を出してきたら」
「儀礼上の手順と技術手順の差分について照会を受ける形になります。ただし、技術安全上の手順が儀礼の慣行より優先されないなら、帰還実行は監査として承認できないという立場を取れます。記録に残します」
ユウトが来たのは夜になってからだった。
廊下の外に少し立ってから入ってきた。修司の隣に立って、机の上のチェックリストを見た。時間をかけて、一項目ずつ目で追った。読みながら指が少し動いていた。書いてある言葉を頭の中で繰り返しているような、そういう動きだった。
「本人同意が一番目なんですね」
「最上位の条件にしました」
「途中で止めることができると書いてある」
「ユウトさん自身が止めてほしいと言えば、即座に中断します。それも手順の一部です」
ユウトがしばらく黙っていた。チェックリストから目を離さずに、静かに呼吸していた。修司も何も言わなかった。
「……これだけのことを、みんなが確認してくれるんですか」
「準備中です。今日までに七項目が動いています。一項目だけ、まだ解決していない問題が残っています」
「どれですか」
「七番目の召喚系タスク隔離です。座標補正処理というタスクが、帰還処理と同じポートを使っていて、完全に隔離できない状態になっています。明日以降に対応します」
「それがあると、帰還できないんですか」
「隔離できないと判断しているのではなく、隔離の方法がまだ決まっていない、という状態です」
ユウトが顔を上げた。修司を見た。
「嘘はつかないんですね。できていないことはできていないと言う」
「言います。できていないことを隠すと、当日に問題が出たとき対処できなくなります」
ユウトは一度目を伏せ、それからまっすぐに修司を見た。疲れや不安は変わらずあるが、その下に何か別のものが混じっていた。
「帰ります」と彼は言った。宣言ではなく、確認だった。自分自身に向けた言葉だった。
「準備が整ったら、帰ります」
「手順が揃ったら教えます」
ユウトが頷いた。それ以上は何も言わず、扉の方へ向かった。廊下に出る前に一度振り返り、チェックリストをもう一度見た。それから出ていった。
深夜、監視室に修司一人が残った。
未解決の一件——座標補正処理の問題を紙に書いた。書くと違う角度から見えることがある。
〔召喚陣入出力ポートの共用問題:帰還と召喚が同一ポートを逆方向に使用している。完全停止は帰還精度に影響する。受け入れ枠を完全停止ではなく読み取り専用・非実行状態へ落とす方向を検討〕
読み取り専用状態にする。実行できない状態にするが、ポートは生かす。マルファスに明日、相談してみる価値がある。
修司はメモを閉じた。
チェックリストは七項目まで確認済みだ。帰還が実行可能な工程になった。残り一項目は明日に持ち越す。
それが今日の正確な結論だった。




