第64話 安全余裕は余りではない
朝、修司が最初にしたことは、昨夜の数字を並べ直すことだった。
受け入れ枠が三件。帰還用バッファに一件、生活必須系統の第四・第五系統の予備に二件。それぞれに、承認局の旧テンプレートと同系統のフラグが入っている。
問題の輪郭は昨夜の段階で見えていた。だが、「輪郭が見えた」と「整理できた」は違う。今日やるべきことは、後者だ。
修司はメモを一枚取り出し、最初に一行書いた。
〔問い:この「空き容量」は何のために空いているのか〕
そこから始めるべきだと思った。
エイラが監視室に来たのは、通常の出勤より一時間早い時間だった。修司がまだ作業しているのを廊下から見て、そのまま入ってきた。
「昨夜のフラグ、私も確認しました。三件とも同じ系統です」
「おはようございます。少し整理したいことがあって、手伝ってもらえますか」
「何をしますか」
「空き容量の中身を分けます」
エイラが椅子を引いた。
修司はメモを広げた。昨夜の時点で頭の中にあった整理を、声に出しながら確認していく。
「今、基盤炉の空き容量として管理されている分を全部洗い出したいんです。先の基盤移行で、特権系統を制限して二十四パーセント分浮いた。その中身がいくつかの用途で使われているが、現仕様では全部が同じ分類——未使用魔力余力——として扱われている」
「同じラベルが貼ってある、ということですよね」
「そうです。帰還用バッファも、生活必須系統の予備も、地方炉の障害復旧用の積み増し分も、前線結界の安全率分も、全部一緒のラベルです。だから受け入れ枠のフラグが入り込めた」
エイラが手元のコンソールを開いた。「今の空き容量を系統別に出してみます」
数値が出た。修司はそれを見ながら、紙の上に四つの箱を書いた。
「分けます。一つ目は生活必須系統の予備。地方暖房、水道、医療、通信。これが止まると人が死ぬ。これは安全余裕であって、余りではない」
「二つ目は?」
「帰還用安全余裕。帰還処理は基盤炉に一時的な負荷をかける。その負荷を吸収するための緩衝材として確保した分。これが潰れると帰還処理が失敗する可能性がある」
「三つ目」
「障害復旧バッファ。基盤炉が想定外の負荷を受けたとき、サービスを維持したまま回復するための予備。これがないと、次に何かが起きたとき手が打てない」
「四つ目が非緊急余剰ですか」
「そうです。本当の意味で余っている分。ここだけが、計画的に別の用途へ回せる候補になる。ただし、現状では四つ全部が同じラベルに入っているから、三つを食いつぶすつもりがなくても、フラグを立てると食いつぶしてしまう」
エイラが静かに言った。「今まで誰もこの四つを分けていなかった、ということですか」
「分ける必要がなかった、という方が正確かもしれません。空き容量があっても、それを計画的に使う運用が今まで存在しなかった。余ったら余ったで何となく動いてきた」
「……帰還の工程ができたから、初めて必要になった分類、ということですね」
修司は頷いた。
「そうです。改善で生まれた余裕が、定義なしで放置されていると別の何かに食われる、という構造です」
午前中、バルトが監視室に来た。
用件は一つだ。北部地方炉の予備魔石について、昨夜の続きの確認が取れたという。
「北部炉の第二系統の予備魔石、型番を全部洗い直してきた」
バルトが手元の書き付けを出した。修司の机の前に立ったまま読み上げる。
「神殿の付属倉庫に入っていた触媒石、全型番と一致した。北部だけじゃない、東部炉の予備分とも一部かぶってる」
「帳簿上は何の扱いになっていますか」
「王都への定期補充扱い。だが受け取り先が付属倉庫になってる。補充なら通常の物流倉庫に入るはずだ。おかしいとは分かっていたが、書類に不備はなかったから止められなかった」
「それを今ここに持ってきてくれた理由は」
バルトが腕を組んだ。「昨日の話を聞いていたから。空き容量がどこへ行くかの話。魔石の話も同じことだと思った。俺が管理している備蓄魔石は、帳簿の上では余剰在庫みたいに見える。実際には、地方炉が緊急で止まったとき最初に使う分だ。余ってるように見えて余ってない」
修司は少し前に身を乗り出した。「それを文書で残してもらえますか。備蓄魔石は余剰ではなく緊急対応資材であるという証言として」
「書けるか、と言えば書ける。だが、それを誰かに止めてもらえるのか」
「文書があれば止める根拠になります。止められるかどうかは状況による。ただし、根拠がなければ一言も言えない」
バルトは少し間を置いた。
「……分かった」
それだけ言って、書き付けの裏に文章を書き始めた。簡潔だった。字が大きく、三行で終わった。修司はそれを受け取って記録台帳に挟んだ。
「ありがとうございます。一つ確認させてください。北部と東部の予備を合わせると、地方炉の緊急対応は今どれくらい維持できますか」
「抜かれた分を補填なしで計算すると、北部は七割弱。東部はぎりぎり八割。どちらも一回の緊急対応分があるかどうかの水準だ」
「二回続けて何か起きると」
「足りない」
修司は書いた。
〔北部・東部地方炉緊急対応余力:一回分未満。追加徴発があれば対応不能〕
午後、セルアスを通じてダリル司令に照会をかけていた返答が届いた。
通信でなく書面で来た。ダリルらしかった。
内容は短く、一枚だった。要約すると、前線結界の安全率は現在の水準で「最低限を維持している」が、これ以上基盤炉側の供給が削られると維持できなくなる。また、新規召喚による増強より、現行の結界安定を優先してほしいという意見が書いてあった。
最後の一行に、ダリルの字でこう書かれていた。
「新しい誰かを連れてくるより、今ここにいる兵士を生かす魔力を残してくれ」
修司はその一行を読んでから、メモに書き写した。そのまま記録に入れることにした。
夕方、修司は今日一日の整理を終えて、四分類の定義書を一枚にまとめた。
エイラを呼んで、各分類の監視項目を決めていく作業に入った。
「生活必須系統予備の監視は、エイラさんの班がすでにやっている項目と近いので、今の監視体制に分類ラベルを追加する形でいいです。帰還用安全余裕は帰還処理の前後で専用の監視ログを取りたい」
「監視項目の設計は私がやります。どの数値が閾値を超えたら警告を出すかを決めるということですか」
「そうです。ただし今日中に全部やろうとしなくていい。先に帰還用安全余裕の監視だけ整えてください。この部分に流用禁止タグを付けたいので、そのためには監視が先に必要です」
「流用禁止タグというのは」
「基盤炉の管理システム上で、このリソースIDを他の用途に使う処理が来たとき、実行前に警告を出して一時保留にするフラグです。自動実行はできないので、承認が必要になる」
「今の権限でそれができますか」
「帰還監査の範囲であれば、一時的に付与できます。恒久的なものにするにはセルアスさんの公文書化が必要ですが、まず仮のタグを入れて今夜の状況を確認したい」
エイラがコンソールに向き直った。「では監視項目から入ります。帰還用安全余裕のリソースID、今ここに出せますか」
「出せます」
二人は並んで作業した。修司がIDと監視対象の数値を指定し、エイラがそれをコンソールの監視テンプレートに落とし込んでいく。一時間ほどで、帰還用安全余裕の専用監視ラインが出来上がった。
修司は最後にその監視ラインを確認してから、流用禁止タグの設定に入った。
操作は単純だ。対象のリソースIDに対して、処理要求が来たとき自動実行ではなく人の判断を挟む設定を入れる。ただし、修司の権限で入れられるのは「帰還監査中の暫定フラグ」という扱いで、強制力は強くない。
「エイラさん、付けます」
「はい」
修司がキーを叩いた。
帰還用安全余裕に、流用禁止の暫定フラグが入った。
コンソールがしばらく静かだった。
それから三十秒もしないうちに、エイラのコンソールに通知が届いた。
「……何かが来た」
エイラが画面を確認した。声が少し固くなった。
「修司さん。今のタグに対して、上書き処理の要求が来ています」
「発信元は」
「……王宮魔導院。処理要求の名称は『防衛予備権限による緊急割り当て』」
修司は手を止めた。タグを付けてから三十秒以内だ。自動監視が動いている。
「承認しましたか」
「していません。ただ、要求そのものは来ています。私の権限では上書きを止められるかどうか……」
「止めます」
修司は次のキーを打った。要求を保留状態に置く処理だ。ただし、保留できる時間は限られている。
「セルアスさんを呼んでください。今夜、公文書化を急ぎます」
「分かりました」
エイラが通信を取った。
修司は画面を見ていた。保留状態のまま、王宮魔導院からの上書き要求が待機している。
夜、セルアスが来た。
書類の束を抱えていた。今日一日で集めた証言と記録を修司が渡すと、セルアスは素早く中身を確認した。
「バルトさんの証言、ダリル司令の書面、エイラさんの監視設計、そして受け入れ枠三件の同一リソースID記録。これだけ揃えば、今夜の公文書化に使えます」
「王宮魔導院の上書き要求、どう扱いますか」
「今夜中に、帰還監査権限に基づく流用禁止措置として正式な文書を発行します。暫定フラグを公文書で補強する形です。ただし」
セルアスが眼鏡を直した。「魔導院側は防衛予備権限を根拠に要求を出しています。その権限継承の根拠がどこにあるかを、私たちはまだ見ていない」
「どこから来ているとお考えですか」
「おそらく、召喚者補充計画の承認階層と、防衛予備権限の承認階層が、どこかで接続されています。修司殿が以前見た旧テンプレートの権限コードと同じ系統に繋がっている可能性がある」
「それを明日確認します」
「はい。今夜は流用禁止の公文書を先に出します。それだけでも、魔導院側が即座に上書きできる状況からは外れます」
セルアスは書類を広げて書き始めた。修司の隣で、静かに、速く。
その夜遅く、修司は今日の四分類定義をもう一度見直した。
生活必須系統予備。帰還用安全余裕。障害復旧バッファ。非緊急余剰。
四つに分けるだけで、何が起きるかが変わる。「余っている」という括りをやめると、「どれなら使えるか」が見えるようになる。使えない三つを守れるようになる。
修司はメモの余白に書いた。
〔安全余裕は使わないために置く。使わないことが、使えることを保証する〕
当たり前のことだった。
ただ、この国の現仕様は、使われなかった分を自動的に次の需要に回す前提で動いていた。余力はリソースではなく、未割り当てのまま残っていることが許されない仕組みだった。
その仕組みを変えることは、今日一日では終わらない。ただ、定義を置いた。今日はそれで十分だ。
深夜、エイラが修司に声をかけた。
「一つだけ確認させてください」
「どうぞ」
「今日、四分類を整理して、タグを付けて、公文書を動かした。それで明日、魔導院は何をしてきますか」
修司は少し考えた。
「公文書が出れば即座な上書きはできなくなります。ただし、魔導院は権限継承の根拠を持っている可能性がある。それを使って別の経路から同じことをしようとするかもしれない」
「別の経路というのは」
「防衛名目や、別の承認階層から入ってくる可能性です。それを明日から調べます」
「いたちごっこになりますか」
「なるかもしれません。ただ、いたちごっこになるということは、相手が正面から来られなくなったということでもある。今日付けたタグは、そこまでの価値はあります」
エイラが少し息を吐いた。「そうですね」
「もう一つ、今日分かったことがあります」
「何ですか」
「防衛予備権限と召喚補充計画が同じ承認階層にある可能性がある、という話をセルアスさんがしていました。もしそうなら、帰還用安全余裕への流用禁止タグを突破しようとする動きは、召喚再開とも繋がっている」
エイラが黙った。
「つまり、タグへの上書き要求は偶然じゃない。帰還用の余白を守ろうとすると、即座に召喚側から圧力が来る。それが今日三十秒以内に届いた理由です」
「……監視されていた、ということですか」
「タグが付いたことをトリガーに自動で動く仕組みがあると考えた方が自然です。誰かが見ていたというより、そういうフローが組まれていた」
エイラがコンソールを見た。画面には、保留中の上書き要求がまだ待機していた。
「この要求、明日公文書が出たら正式に却下できますか」
「できます。ただし却下記録が残ります。それが明日の交渉の入口になります」
「やることが増えますね」
「増えます」
修司は答えてから、今日のメモを閉じた。
〔帰還用安全余裕:流用禁止タグ付与完了、公文書化進行中。上書き要求:王宮魔導院「防衛予備権限」名目で待機中〕
明日は権限継承の根拠を追う。今日はここまでだ。




