第63話 誰かのために空いた席
ユウトが監視室に来たのは、夕方を少し過ぎた時間だった。
廊下の外から声をかけてきた。中に入ることを遠慮していた。修司が手招きをすると、ゆっくり扉を開けて入ってきた。
十七歳。召喚時の記録に書いてある年齢だ。今はもう少し経っているかもしれない。背が低く、髪が短い。普段は表情が読みにくいのに、今夜は顔に何かを抱えているのが分かった。
「前に言ってた話なんですけど」
ユウトは修司の斜め前に立ったまま言った。
「魂IDの待機枠があるって話。あれ、俺のことですか」
修司は手を止めた。
「座ってください」
椅子を示した。ユウトはゆっくりと腰を下ろした。背筋を少し丸めて、膝の上に手を置いた。
「まだ確認中ですが、あなたのカテゴリーAの帰還予定量と、待機枠の容量が近い数値です」
「近い、じゃなくて一致してるんでしょう」
「一致に近い値です」
「同じ、ってことですよね」
ユウトが静かに言った。怒っているわけではなかった。ただ確かめたかった、という声だった。
「帰還後の空き容量の予測値と、待機枠の予約量が非常に近い。さらに、両方が同じリソースIDを参照しています。今日、セルアスさんに法的根拠の照会を依頼しました。王宮側の回答を待っている段階です」
「……つまり」
ユウトは少し間を置いた。
「俺が帰ったら空く分が、もう次の誰かの席として取ってある」
「可能性として、そう見えます」
静かだった。コンソールの低い駆動音だけが聞こえた。
「そっか」
ユウトは膝の上の手を少しだけ握った。「そっか、やっぱりそうなんだ」
修司は何も言わなかった。
「マナベさん。俺、帰らない方がいいですか」
「それはあなたが決めることです」
「でも俺が帰らなければ、この席は空かないですよね。席が空かなければ、次の誰かは来ない」
「それは一つの選択肢です」
「俺が犠牲になれば、知らない誰かが犠牲にならなくて済む」
「それは違います」
修司の声は、穏やかだったが迷いがなかった。
「あなたが帰らないことは、犠牲ではない。それは単に、旧制度に席を譲ることです。あなたが帰還を諦めても、王宮がその席を次の目的に使わないとは限らない。むしろ、帰還を諦めた理由を、別の用途の根拠に使う可能性がある」
「……でも」
「今夜考えてほしいのはそこじゃないです。あなたが帰ることが誰かを呼ぶのかどうか、それを決めるのはあなたではなく、この仕組みの設計です。その設計が問題なんです。あなたの選択が問題なのではない」
ユウトが顔を上げた。
修司はそれ以上言わなかった。
一時間後、カズヤがやってきた。
ユウトがまだ監視室にいることを、リゼットから聞いたらしかった。扉を開けて中を確認してから、特に声をかけずにユウトの隣の椅子を引いて座った。
しばらく誰も話さなかった。
「待機枠のこと、聞いた」
カズヤがユウトに言った。
「修司さんから?」
「リゼットさんから。……お前が知ったなら、俺も聞いておくべきだと思って」
ユウトが少し肩を縮めた。「カズヤさんには関係ないことだから」
「関係ある」
カズヤが短く言った。
「俺も召喚者だ。お前と同じところから来た。帰れるかどうかはまだ分からないけど、この問題がどこに繋がっているかは分かってる」
「カズヤさんは帰れないんでしょう。なのに俺だけが——」
「それはお前の責任じゃない」
カズヤの声は少しだけ低くなった。責めているのではなかった。落ち着いた、確かめる声だった。
「俺が帰れないのは、俺の接続が深すぎるからだ。お前が帰れるのは、お前の接続がその分だけ浅かったからだ。どっちがいいとか悪いとかじゃない」
「……でも俺が帰ったら」
「それは俺たちの話だ」
ユウトが顔を上げた。カズヤは前を向いたまま言った。
「お前が帰ることで誰かが呼ばれるなら——俺たちがそれを止める。それはお前の仕事じゃない」
「でもカズヤさんには、もっと大事なことが」
「お前を引き止める気はない。ただ、お前が帰還を諦める理由が、知らない誰かを守るためならば、その誰かを守るのはお前じゃなくていい」
静かだった。
ユウトは唇を少し動かしたが、言葉が出てこなかった。
「俺たちが残っているのは、ここで何かを守るためでもある。お前が帰ってから新しい誰かを呼ばせないようにするのも、その仕事のうちだ。お前が帰ることを許すために俺たちがここにいる、という言い方もできる」
長い沈黙が落ちた。
カズヤはそれ以上何も言わなかった。
リゼットが部屋に入ってきたのは、さらにしばらく経ってからだった。
三人が監視室にいることを確認して、椅子を一つ持ってきて隅に置いた。割り込むでもなく、距離を保って座った。
「ユウトさん、一つだけ聞いてもいいですか」
ユウトが振り向いた。
「帰りたい、という気持ちは今もありますか」
ユウトは少し間を置いてから「あります」と言った。声が少し掠れていた。
「ずっとあります。毎日。お母さんのことを考えない日はないし、自分の部屋のこと、友達のこと、給食のこと、どうでもいいことまで全部思い出す。……帰りたいです、すごく」
「それは正しい気持ちだと思います」
「でも」
「でも、と言いたくなるのも分かります」
リゼットが静かに続けた。
「あなたが帰りたいと思うことと、帰ることで誰かが傷つくかもしれないという恐れが、両方本当にあるんですよね」
「……はい」
「その恐れは、あなたが持ってはいけない感情じゃないです。それを感じるのは、あなたがここで生きてきたからだと思う。でも一つだけ言わせてください」
リゼットは少し前に身を乗り出した。
「あなたが帰ることを怖いと思う理由の一部が、今日分かったことだと思います。この席が、あなたが帰った後に誰かを呼ぶために作られているかもしれないということ。……それはあなたのせいじゃない。その席を誰かのために作ったのは、この仕組みです」
「分かってる、頭では」
「頭と、ここが一致しないんですよね」
リゼットが自分の胸のあたりを軽く押さえた。ユウトが小さく頷いた。
「帰ることは、逃げることじゃないです。あなたはここに来ることを選んでいない。来ることを選んでいない人が、ここで生きたことは間違いじゃない。でも、来ることを選んでいない人が、帰ることを諦める必要もない」
ユウトが目を伏せた。
「……帰ることで誰かが来るなら、俺は帰らない方がいいと思ってた」
「それは、あなたが誰かのために考えられる人だからだと思います。でも、その誰かを守る方法は、あなたが帰還を諦めることじゃない。修司さんが調べて、記録して、制度を変えようとしているのは、そのためです。席が空いても誰も座らされないようにするために」
ユウトが顔を上げた。
リゼットは笑わなかった。真剣な顔のままだった。
「帰っていい、という結論は今夜出ない。でも、帰ることを諦めることが正しいとも言えない。今夜はそれだけ知っていてください」
その夜遅く、修司はセルアスからの返答を受け取った。
一枚の書面だった。
王宮側の回答は、「該当の受け入れ枠は、防衛計画に基づく将来の緊急予備枠であり、召喚再開の予約ではない」というものだった。
修司はその回答をメモに書き写した。
次に、帰還後の予測空き容量の計算値と、受け入れ枠の予約量の数値を並べた。誤差は三パーセント以内だ。同じリソースIDを参照していることは、昨夜の段階で確認している。
もう一点。受け入れ枠の予約に使われている管理フラグには、「防衛予備」と「召喚受け入れ」の両方のタグが設定されていた。どちらにも属せる設計になっている。
修司はメモに書いた。
〔受け入れ枠:容量一致・同一リソースID・タグ重複確認済み。王宮回答「防衛計画予備」——記録に固定〕
次に、セルアスに返信した。
「防衛計画予備であるなら、その根拠となる防衛計画の文書を開示してください。また、帰還用安全余裕と同一リソースIDを参照していることの説明を求めます」
送信してから、修司はコンソールに向き直った。
王宮の言い逃れは予測通りだった。ただし、「防衛計画予備」という名目の文書が実在するなら、その中身を見る必要がある。実在しなければ、名目が虚偽だという記録になる。どちらに転んでも、積み上げは続く。
エイラが奥から声をかけてきた。
「修司さん。さっき北部地方炉の担当者から連絡があった。今週の資材搬出で、予備魔石の残量が想定より減っているって」
「どこへ行った分ですか」
「分からない。帳簿上は王都向けの補充になってるけど、届いた先が明示されていない」
修司はメモに追加した。
〔北部地方炉予備魔石:想定外減少。搬出先不明〕
「それ、昨日の触媒搬入と型番が一致しますか」
「確認する」
エイラが自分のコンソールへ戻った。
修司は手元の計算を見直した。受け入れ枠は「一件だけ」ではないかもしれない。前話末尾でバルトが確認した数値を思い出しながら、別のウィンドウを開いた。
帰還用バッファの容量割り当てを確認する。生活必須系統の予備容量と、帰還用安全余裕は、今は分けて管理されているはずだ。ただし、分けたのは修司が監査の中で整理した実態上の分類であり、システム上は同じ「未使用魔力余力」として登録されている部分がまだ残っている。
修司はその部分のリソースIDを一つずつ確認した。
三つ目のIDのところで、手が止まった。
生活必須系統の予備に分類しているはずのバッファの一部に、受け入れ枠と同じ系統の管理フラグが入っている。帰還用バッファだけではなかった。
「……エイラさん」
「何?」
「生活必須系統の予備バッファ、今すぐ容量確認してもらえますか。特に、第三系統から第五系統の割り当て分」
エイラが操作する音がした。数秒の沈黙。
「……あれ」
「どうですか」
「第四系統と第五系統に、帰還用とは別の予約フラグが入ってる。こっちは受け入れ枠じゃなくて……なんだろう、種別が読めない」
「承認局の旧テンプレートと照合してください。種別コードが合致するかどうか」
また沈黙が続いた。修司はメモに書きながら待った。
「……合致してる」
エイラの声が少し低くなった。「受け入れ枠は一件だけじゃない。帰還用バッファの分と、生活必須系統の予備に、少なくとも合計で三件のフラグが入ってる」
修司は書きかけのメモを止めた。
一件だと思っていたものが、三件だった。
〔受け入れ枠:帰還用バッファ一件+生活必須系統予備(第四・第五系統)二件——合計三件のフラグを確認〕
エイラが静かに言った。
「修司さん。これ……どこまで入り込んでいるんでしょう」
修司は少し考えてから答えた。
「まだ全体が見えていません。明日、全系統を一から確認します」
「全部に入ってる可能性がありますか」
「ゼロではないです」
監視室がしばらく静かになった。
コンソールの警告色は黄色のままだった。赤には戻っていない。だが修司の目の中では、問題の輪郭が、帰還用バッファの外へ広がり始めていた。
その夜、ユウトは帰還準備室に一人でいた。
監視室を出てから、どこへ行くでもなく廊下を歩いていたら、この部屋の前に来ていた。扉は鍵がかかっていなかった。中には何もなかった。石の床と、壁と、薄い明かりだけの部屋だ。帰還の手順を説明するための場所として今後使われる予定のある部屋だと、リゼットから聞いたことがあった。
ユウトは壁に背をもたせかけて座り込んだ。
修司の言葉が頭の中でぐるぐるした。あなたが帰ることが誰かを呼ぶかどうかを決めるのは仕組みだ、と言った。カズヤは、お前が帰ることを許すために俺たちがいる、と言った。リゼットは、帰ることは逃げることじゃない、と言った。
三人とも、嘘をついていないと思った。だから、もっと辛かった。
誰かに「帰れ」と言われるより、「帰ることをお前のせいにするな」と言われる方が、なぜか重かった。
自分のために帰っていい。
その一言が、一番難しかった。
帰りたかった。ずっと。それは本当だった。
だから、帰ることで誰かが傷つくなら帰れない、という感情も本当だった。
どちらも本当だから、どちらも消えなかった。
ユウトは膝を抱えて、暗い天井を見上げた。
答えは今夜出ない。リゼットがそう言った。出なくていいと思った。
ただ——もし誰かが自分の席に座らされるなら、その人に謝りたかった。会ったこともない、これから来るかもしれない誰かに。自分のせいじゃない、と修司は言った。でも、そう思える日が来るかどうかは分からなかった。
石の床が冷たかった。ユウトは少し身を縮めた。
廊下の向こうで、誰かの靴音が遠く過ぎていった。




