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仕様書のない異世界で、俺だけが“現仕様”を見抜ける  作者: 結城ログ
第6章:帰還手順リリース監査編
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第60話 空き枠に走る未定義ログ

 基盤炉の警告色が、赤から黄色へ変わった夜から、ちょうど十三時間が経っていた。

 王都魔導省インフラ統合監視室。石造りの壁に囲まれた部屋に、夜明けの冷気が薄く残っている。修司は椅子に腰を下ろしたまま、コンソールのモニターを見ていた。眠れなかったわけではない。眠らなかっただけだ。


 第一段階移行は成功した。正確には、「失敗しなかった」という表現の方が正しい。生活必須系統への供給は維持された。召喚者の生命維持補助は独立ラインで動いている。特権系統は止めた。地方炉は代替供給として動いている。燃料供給リンクは段階的に絞り始めた。

 壊れなかった。


 それが昨夜の成果の全てで、修司はその事実を過剰に飾る気にならなかった。

 問題は今日から始まる。


「……?」


 修司の視線が、コンソール左端の小窓へ移った。帰還プロトコルの監視用に走らせたままにしていたパケットモニターだ。昨夜、帰還前チェックリストの準備をしながら起動したもので、そのまま放置していた。

 そこに、一行だけ、色の違うエントリが増えていた。


 修司は体を起こし、画面に近づいた。

 ログの時刻は、今から三十分ほど前。発信元は基盤炉のメイン経路ではない。副回線に近い、あまり目立たない経路から出ていた。宛先は――召喚の間。


「……なんだ、これ」


 独り言ではなかった。思考が声に漏れた。

 修司はログのタグを開いた。パケット種別の欄に、見慣れないラベルが入っている。


〔async-reserve-init 未定義 priority:mid〕


 非同期の予約初期化コマンド。帰還処理のタグでも、生活必須系統の管理タグでも、地方炉の同期タグでも、なかった。


「エイラさん」


 修司は声を上げた。監視室の奥、別のコンソールで基盤炉の表層ログを確認していた保守主任のエイラ・ノックスが振り返る。


「どうした?」


「三十分前に、副回線から召喚の間へ向けて飛んだパケット、あなたは見ましたか」


「……副回線?」 エイラが眉を寄せ、自分のコンソールに手を伸ばす。「いえ、私の監視画面には出ていません。それ、何系統の経路ですか」


「基盤炉の表層じゃなく、魔力配分管理の下層に近い位置です。通常の保守ログには拾われない深さ」


 エイラが口を引き結んだ。「そのあたりは、私の担当範囲では監視できていなかった」


「分かりました」


 修司は責めなかった。見えていなかった範囲があることは問題ではない。問題は、そこに何かが走っていたという事実だ。

 修司はパケットの詳細ログを展開した。宛先ポート、発信時刻、予約先リソースのフィールドを一つずつ確認する。


 まず時刻。発信されたのは、基盤炉の代替供給ラインが本稼働に切り替わって二十分後だ。第一段階移行の完了から、ほぼ間を置かずに走った。

 次に宛先。召喚の間への接続専用ポートを叩いている。帰還処理ではこのポートは使わない。帰還用の経路は別に確保してある。


 そして、予約先リソースの欄。そこには一行、こう書いてあった。


〔対象:基盤炉余剰容量 現在確認値:24.3%〕


 修司は少しの間、その数字を見ていた。

 二十四・三パーセント。それは昨夜、特権系統を停止して浮いた分だ。帰還手順のバックアップバッファとして確保したはずの、あの安全余裕だ。


「……なるほど」


 短く息を吐いた。


「修司さん? 何か分かったの?」


 入口の方から声がした。リゼットが朝の食事を包んだ布を持ったまま、様子を伺っている。昨夜からほとんど寝ていないのは彼女も同じだろう。目の下に疲れが滲んでいたが、声は落ち着いていた。


「まだ分かってないです。ただ、方向だけ見えた」


 修司は椅子を引いて、リゼットにもモニターが見えるよう体を横にずらした。


「昨夜、特権系統を停止して、基盤炉に二十四パーセント分の余裕ができましたよね」


「うん。帰還のバックアップ用に確保した分でしょう」


「そこへ、このパケットが走った。召喚の間へ向けた、受け入れ準備系のコマンド。タイミングは移行完了の直後。予約先には、その二十四パーセントが記入されている」


 リゼットが静かに目を細めた。「……つまり」


「帰還用に作った余裕が、別の何かの入れ物として登録されようとしている。かもしれない、という段階ですが」


「かもしれない、というのは?」


「まだ仮説です。このパケットが本当に召喚再開準備の一部なのか、それとも本当に残留した同期信号なのか、今の情報だけでは断定できない。でも、二つだけ、普通の残留ログと合わない点がある」


 修司は指でログの二箇所を示した。


「一つ目。通信の方向が逆です。残留した同期信号なら、召喚の間から発信されて基盤炉に届く方向に流れる。このパケットは逆だ。基盤炉の下層から召喚の間へ、何かを送りつけている。帰還プロトコルの方向とも違う。受け入れ側の設定を書き換えに行く向きです」


 エイラが手元のメモに何かを書き留めながら「もう一つは?」と問う。


「二つ目。発生タイミングが一致しすぎる。移行完了から二十分でこれが走った。残留信号なら時間軸はランダムになる。これは、余裕容量の発生を検知して発火している。起動条件が組まれている動きです」


 室内に、短い沈黙が落ちた。


「……整理すると」


 エイラがゆっくりと言った。


「空き容量ができた瞬間に、それを召喚の間の受け入れ枠として登録しようとするタスクが、自動で走った、ということですか」


「そう見えます。まだ確認が必要ですが」


「それって……帰還手順を全部終わらせる前に、次の召喚の準備を始めようとしているということ?」


 リゼットの言葉は質問ではなく、確認だった。


「帰還のための余裕を、新しい誰かを呼ぶための枠に使おうとしている、という読み方はできます。ただし」


 修司は声のトーンを変えず、続けた。


「今この段階でそう断定すると、後で覆された時に信頼を失う。今やるべきは、証拠を保存して監査対象として固定することです。何が走ったかの記録を押さえる。それが先です」


「分かった」とエイラが答えた。「何を保存すれば?」


「このパケット全体のダンプ。発信元の経路情報、発火タイミング、予約対象フィールドの値。それから、帰還用バッファの確保時刻と、召喚の間の起動時刻が一致するかどうかも確認したい。召喚の間側のタイムスタンプを引き出せますか」


「やってみます。ただ、召喚の間の起動ログは神殿管轄になっていて、私には直接見えない部分がある」


「セルアスさんに頼みましょう。行政文書として発信元権限の照会をかけてもらう」


 修司はコンソールに向き直り、パケットダンプの操作を始めた。

 廊下を通りかかったバルトロが、開いたままの監視室の扉から顔を出した。


「何をやっている。もう夜が明けているぞ。昨夜の移行が終わったならば、保守班は休息に入るべきではないか」


「一つ確認したいことがあります。バルトロさん、三十分前に副回線から召喚の間へ飛んだ非同期パケット、何かご存知ですか」


 バルトロは眉根を寄せた。「副回線? 召喚の間への通信が出るのは珍しいことではない。昨夜の大規模移行後なら、古い召喚陣の残留同期信号が誤発することもある。過敏になりすぎではないか」


「残留信号なら発火タイミングがランダムになるはずですが、これは移行完了の二十分後に走っています。しかも、予約先フィールドに昨夜確保した余裕容量の値が入っている」


 バルトロは一瞬、表情を止めた。それだけだった。


「……まあ、確認するのは構わん。ただ、徒に不安を煽るようなことは慎んでくれ。昨夜の移行で皆が疲弊している。余計な混乱は要らない」


「保存と確認だけです。それ以外はしません」


 修司の声は穏やかだった。バルトロはそれ以上何も言わず、廊下へ消えた。

 一時間後、セルアスが書類を一枚持って戻ってきた。


「神殿側の回答です。昨夜の副回線通信は、魔導陣の定期点検ログだと」


「点検、ですか」


「はい。定期的な安全確認のための自動発信であり、移行作業とは無関係だと」


 修司はその回答を聞いて、メモにそのまま書き留めた。回答の内容ではなく、回答の存在を。


「それで、召喚の間の起動時刻は?」


「そちらも問い合わせましたが、神殿側は『通常管理範囲外』として開示を拒否しています」


「分かりました。その開示拒否も記録してください」


 セルアスが眼鏡のブリッジを指で押し上げた。「もしかして、それも証拠として使う気ですか」


「神殿が開示できないほど重要な情報を管理している、という事実になります。否定の記録は、確認の記録と同じ重さを持つ場合がある」


「……なるほど。了解しました」


 セルアスは迷わず書き始めた。

 午後になって、基盤炉の表層ログを洗い直したエイラが修司のもとへ来た。


「確認できました。帰還用バッファの確保が完了した時刻と、召喚の間の内部センサーが微弱起動した時刻、二十二分の差で一致しています」


「二十二分」


「移行完了のログから測れば、ほぼ同じ時間軸にある。バッファが確保された瞬間に、召喚の間側でも何かが起動した形跡がある」


 修司はその数字を書き留めた。


「帰還用の余裕ができたから、呼びに行った動きに見えますね」


 エイラが小声で「呼びに行った」と繰り返した。彼女の声には、技術者としての確認と、人間としての嫌悪が両方混じっていた。


「断定はしないでください、まだ。でも、この二つが揃ったことで、パケットが残留信号である可能性は下がった。起動条件が設定された能動的なタスクである可能性が上がった。それだけです」


「修司さん」


 エイラが少し間を置いてから言った。「これ、どこへ向かうと思いますか」


「帰還のための余裕を、召喚の枠として再利用しようとする仕組みが動いている。今夜、それが何なのかをもう少し詰める」


「今夜も、ここにいるんですね」


「いますよ」


 修司は短く答えた。エイラは何も言わず、自分のコンソールへ戻った。

 夕方、修司は一人でパケットの宛先と発信権限の情報を整理した。


 宛先は召喚の間の受け入れポート。発信権限は、基盤炉の深層管理側から発行されている。ただし、その権限コードが、現行の保守権限テーブルには存在しない。

 廃止済み、あるいは旧世代の権限コード。


「……古いテンプレートから来ている、か」


 修司は仮説をノートに書いた。断定ではなく、仮説として。

 発信元の権限コードをもう少し細かく追えば、どの部署の、どの時代の承認コードから来ているか分かるかもしれない。ただ、そこまでの照合は今日中には難しい。セルアスの行政照会を使えば時間がかかっても追える。


 修司はその日の作業を保存した。


【監査対象として固定:async-reserve-init 発生時刻、発信元権限コード、宛先ポート、予約対象フィールド、神殿回答・開示拒否記録、召喚の間起動タイムスタンプ照合結果】


 これで今日の分は確保できた。

 夜、カズヤが監視室に来た。


 彼は入口で少し立ち止まってから、修司の隣に来て座った。別のコンソールの椅子を引いて。


「昨夜の移行のあと、体の感じが少し変わったんです」


 修司が顔を向けると、カズヤは視線を床に落としながら続けた。


「今まで、ずっと首の後ろにあった感じ。引っ張られるような、何かに繋がれているような。昨日の夜、あれが少し、細くなった気がする」


「燃料供給リンクを絞り始めたからですね。十パーセント分、段階的に」


「そうか」


 カズヤはしばらく黙っていた。修司も何も言わなかった。


「ユウトのこと、聞いた。帰還の話」


「はい」


「あの子、帰れるんですか」


「帰れるようにするための準備をしています。今日見つけた問題も、その準備のうちです」


「そっか」


 カズヤはそれだけ言って、椅子から立ち上がった。

 カズヤが出て行くとき、修司は後ろ姿に言った。


「燃料供給リンク、段階的にもう少し絞っていきます。急には変えないので、また何か感覚に変化があったら教えてください」


 カズヤは振り返らずに、小さく手を上げた。

 深夜。監視室に修司とエイラだけが残っていた。


 エイラが発信権限コードの旧テーブルを引き出し、照合作業を続けている。修司は隣でパケットの発信元の経路を一段ずつ遡っていた。

 画面の中で、権限コードの発行元が一段深く開いた。


 修司はそのラベルを見て、一瞬だけ手を止めた。

 発行元の名称に、こう書いてあった。


〔王宮承認局 勇者補充管理室 テンプレート登録番号:旧-028〕


「……承認局か」


 修司はその一行を書き留めた。感情は出さなかった。事実だけを記録した。

 停止済みの実行シーケンスではない。古い承認テンプレートから来ている。


 つまり、誰かが今日このタスクを動かしたわけではない。帰還用の余白ができた瞬間に、既に組まれていた古い承認フローが自動で動いた。

 意図した操作ではなく、組み込まれた仕組みが動いた。


 それは修司にとって、ある意味では敵が一人ではないことを意味していた。

 エイラが画面を覗き込んで、静かに言った。「承認局の古いテンプレート……。それって、今も動いているんですか?」


「少なくとも、今朝は動いた。停止されていない、ということです」


「次は何をしますか」


 修司はモニターから目を離さずに答えた。


「このテンプレートが、他にどこへ繋がっているか調べます。承認局だけの問題じゃないかもしれない」


 夜の基盤炉が低く唸っていた。警告色は黄色のまま、赤には戻っていない。

 ただし、修司の目の中では、新しい問題の輪郭が、少しずつ形を持ち始めていた。

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