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仕様書のない異世界で、俺だけが“現仕様”を見抜ける  作者: 結城ログ
第5章:古代魔導基盤移行設計編
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第59話 現仕様、燃料ではなく人として

 宣言の翌朝、修司が最初にやったことは移行の実行ではなく、訓練だった。

 正確には、失敗のための訓練だ。


 昨夜、修司は「燃料の定義を人間から運用へ戻す」と言い切り、移行設計の骨格をコンソールに打ち込んだ。だがエンターキーを押す直前で、手を止めた。設計を本番環境に流す前に、一度だけ試しておきたいことがあった。

 切り戻し訓練。


 もし途中で何かが壊れたとき、どこまで戻せるか。それを確かめるための負荷試験だ。

 訓練は、開始から四十七秒で止まった。


 王都魔導省、インフラ統合監視室。深夜の冷気が石畳に沁み込む中、修司はコンソールの前で腕を組み、モニターに広がった赤いエラーログを黙って眺めていた。

 原因は単純だった。移行手順を途中で中断した瞬間、基盤炉の自動復旧ロジックが動いた。供給リンクを維持しようとする旧パターンへの強制差し戻しが走り、経路全体が矛盾した状態のまま固まった。処理が止まったのではなく、古い仕様が勝手に戻ってきたのだ。


「……やっぱり、こうなる」


 保守主任のエイラが、隣で青ざめた顔のまま呟いた。


「切り戻し訓練、失敗です。移行手順を途中で中断した途端、基盤炉が過去の供給パターンに自動復旧しようとして、経路全体が矛盾した状態になりました。今の基盤には、途中から引き返すための『戻し方』が、ほとんど存在していない」


「ログを落としてください。どの段階で、何の処理が想定外の挙動を起こしたか。全部記録します」


 修司の言葉に、入口近くで腕を組んでいたバルトロが苦い顔で口を開いた。


「……マナベ殿。昨夜の宣言は聞いた。だが、こうして失敗が出るたびに思うのだが……本当に今夜、実行できるのか? 試みるたびに基盤炉に余計な負荷をかけているのではないか」


「余計な負荷じゃないですよ、バルトロさん。どこで何が壊れるかを事前に確認しておかないと、本番で取り返しのつかないことになる。失敗の記録こそが、今夜の実行を可能にする準備です」


 バルトロは何か言いかけて、口を閉じた。否定できる根拠がないのだと、その沈黙が示していた。


「……また最初からやり直して、また失敗するのを記録するんですか」


 リゼットが、壁際に立ったまま静かに言った。厚手のケープの端を両手でぎゅっと握りしめている。


「カズヤたちは、まだあの部屋にいる。今夜も、昨日も、ずっと待ち続けてる」


「知っています」


「じゃあ、いつになれば――」


「今夜です」


 修司の声は短く、しかし平らだった。リゼットが目を見開く。


「今夜、第一段階の移行を実行します」


 監視室に、張り詰めた沈黙が落ちた。


「切り戻し訓練が失敗した。だから、やめる、じゃないんですか?」


 エイラが戸惑いを隠せない表情で問い返す。


「失敗したから、切り戻し表を作ります。今夜中に」


 修司はコンソールに向き直り、エラーログのテキストを解析し始めた。


「訓練の失敗で分かったことが三つある。一つ目、基盤炉の自動復旧ロジックは供給リンクの維持を最優先に設計されている。二つ目、経路変更の途中で処理を止めると、旧パターンへの強制差し戻しが起きる。三つ目、その差し戻しが走る前に、代替供給の準備が整っていなかった」


 修司は淡々と整理を続ける。


「つまり、失敗した理由は手順がなかったからじゃない。代替供給側の準備が間に合わなかったから、です。逆に言えば、代替供給を先に確保してから移行を始めれば、今夜の失敗は防げる」


「……でも、完全な切り戻しは、まだできないままでしょう?」


「できない部分はできないと書いておく。それが切り戻し表です。完璧な保険なんて存在しない。何が守れて、何が守れないか。どこで踏みとどまれて、どこからは諦めるか。それを先に決めておく」


 修司はキーを一打し、新しいドキュメントを立ち上げた。


「今から書きます。見ていてください」


 それから二時間が経った。

 監視室には、いつの間にかセルアスが羊皮紙の束を抱えて入ってきていた。カズヤと聖女も、リゼットに連れられて室内の隅に腰を落ち着けている。バルトロは先ほどと変わらず入口の近くに立っていたが、修司がドキュメントを埋めていくにつれて、少しずつ腕の組み方が緩んでいた。


 修司が仕上げた「最低限の切り戻し表」は、決して美しいドキュメントではなかった。

 何十ものケースが箇条書きで並び、それぞれに「対応可」「対応不可(要手動介入)」「即時中断トリガー」の三列が振られている。設計書でも儀礼書でもない。現場が死なないための、最低限の約束事だ。


「……これが、完成形ですか?」


 セルアスが、眼鏡越しに丁寧に目を通しながら言う。


「完成形じゃないです。今夜使える版、です。第二段階以降は、実行しながら随時更新します」


「了解いたしました。では、これをもって今夜の移行実行の承認根拠とします。マナベ殿、きちんと証拠が残る形で動いてください」


「いつもそうしてますよ」


 バルトロが、ようやく腕を解いて一歩前へ出た。


「……マナベ殿。私は昨夜、あの宣言を聞いた時、正直なところ、また大言壮語かと思った。だが、この表を見れば分かる。あんたは失敗した場所から目を逸らさずに、それを手順に落としている。……承認する。責任は私も取る」


 修司は短く頷いた。多くを言わなかった。それで十分だった。

 修司はモニターを正面から見据え、今夜実行する移行の内容を声に出して整理した。場にいる全員に向けて。共有するために。


「第一段階の内容を確認します」


【第一段階:今夜実行する項目】

 まず、特権・快適化系統の最終制限。上層区の季節調整、儀礼用照明、使用記録のない施設への予熱供給、勇者関連の予備枠。これらは第54話以降で段階的に絞ってきたが、今夜は残っていた分を全て切る。

 次に、地方炉・備蓄魔石による代替供給の本稼働。バルトが調整してきた北部・東部の分散炉と、王都の備蓄魔石を今夜から正式に基盤炉の補助供給として組み込む。地方暖房、医療、水道、最低限の通信を優先。

 そして、召喚者供給リンクと生命維持補助の分離。これが今夜の本命だ。「生かすための回路」と「魔力を吸い上げる回路」を、今夜初めて別々のラインとして登録する。生命維持は絶対に切らない。ただし、燃料供給リンクは段階的に絞り始める。


「生命維持は残す、というのは本当に守れるんですね?」


 聖女が、静かに問うた。声に怒りはなかった。確認だった。


「守れます。今夜の作業で、生命維持補助を基盤炉の主回路から独立した補助ラインへ移します。物理的に、魔石バックアップと二重化する。基盤炉側がどんな状態になっても、生命維持補助だけは独立して動き続けます」


「……私の治癒が、これからも彼らを縛ることにはならない?」


「なりません。今夜の分離作業が完了すれば、治癒ログは生命維持補助の更新信号として処理されなくなります。治癒は治癒として残る。燃料補充の合図には使われなくなる」


 聖女は目を伏せ、小さく頷いた。何かを手放したような、それでも確かな安堵が、その横顔に滲んでいた。


「……わかった。信じます」


 カズヤが、壁を背にしたまま口を開いた。


「俺の供給リンク、今夜から絞り始めるんですよね」


「そうです。ただし、あんたのリンクは依存が深いから、今夜は全体の十パーセント削減まで。急激に変えれば基盤炉に過負荷がかかる。少しずつ、体感できるかどうかの差から始めます」


「……体感できる、って、どういうことですか」


 修司は少し考えてから、正直に答えた。


「今まで、あんたの魔力がどれだけ吸われてるか、分からなかったでしょう。吸われることが『普通』だったから」


「……はい」


「今夜から、少しだけ軽くなります。たぶん、最初はよく分からない。でも、何週間かかけてリンクを細らせていけば、どこかで『あ、こんなに疲れてなかったんだ』と思う瞬間が来る。それが、本来のあんたの状態です」


 カズヤは、しばらく黙った。それから、静かに笑った。


「……俺が今、どれだけ消耗してるのか、修司さんには見えてるんですよね」


「見えてます」


「でも、今まで一回も、可哀想だとか言わなかったですね」


「言っても変わらないことは言いません。変えられることを変える方を選ぶ」


 カズヤは少し目を細め、頷いた。燃料として扱われていた少年が、今夜初めて、人としての重さで扱われている。


 移行作業は、深夜零時を過ぎた頃から始まった。

 修司がコンソールを叩き、エイラが保守班を率いて物理魔石のバックアップラインを確認し、セルアスが承認文書に順々に署名を取り付ける。リゼットは通信室に入り、東部のダリル司令と北部の地方炉担当へ状況を中継し続けた。


「前線側、受けました。ダリル司令より、『基盤炉の出力が揺れても、今夜は俺たちで持たせる』と。騎士団の追加配置を済ませているそうです」


「北部の地方炉担当からも。代替供給の切り替えタイミング、準備完了と」


「バルト、備蓄魔石の残量確認」


「確認済み。帳簿上じゃなく現物で確かめた。問題ない」


 バルトが短く答える。言い訳なし、確認済み。それだけで十分だった。

 修司は、作業の節目ごとに切り戻し表の「対応可」「即時中断トリガー」の欄を指差しながら確認を続けた。一つ一つ、丁寧に。焦らず、しかし止まらず。


 特権系統の最終制限が完了した。モニターの上層区に点灯していたいくつかの緑のランプが、静かに消えた。誰かの贅沢が、今夜完全に終わった。

 地方炉の代替供給ラインが接続された。北部から安定した供給が流れ込み、地方暖房の出力グラフが穏やかに持ち直した。


「……北部、安定してます」


 エイラの声が、かすかに震えていた。寒さのせいか、安堵のせいか。どちらでもよかった。

 そして、最後の工程。召喚者供給リンクと生命維持補助の、正式な分離登録。


 修司は、コンソールの前で一瞬だけ動きを止めた。


「エイラ」


「はい」


「生命維持補助のバックアップライン、今の状態を確認してください」


「確認します……。物理魔石、二重接続済み。出力安定。独立ライン、正常稼働中。切り替え準備、完了」


「カズヤ、体調は」


「……問題ない、です」


「聖女様」


「……準備できています。今夜、一緒にいます」


 修司は、ゆっくりと頷いた。それからキーを叩いた。


 分離の処理は、静かに走った。

 爆発も、警告音も、劇的な何かも起きなかった。ただ、モニターの深いところで、長年一本の糸として扱われてきた処理が、二つのラインへと静かに書き換えられていった。


【生命維持補助ライン:独立稼働中】

【供給リンク:段階縮退運転、第一フェーズ開始】


「……動いてる」


 エイラが、声を押し殺したまま呟いた。


「基盤炉の出力、揺れてますが……範囲内。切り戻しトリガーには引っかかっていない」


「地方、安定継続中」


「前線、異常なし。ダリル司令より『今夜は持てる』と」


 修司は、誰かに何かを言うわけでもなく、モニターの波形をただ見つめ続けた。ずっと赤く染まり続けていたグラフの一部が、今夜初めて橙色へ、そして黄色へと変わっていく。

 完全復旧ではない。安全でもない。


 ただ、もう見えない場所で誰かの命を静かに燃やし続けるだけの運用ではなくなった。


 空が、白みはじめた頃だった。

 修司は椅子の背にもたれ、冷め切ったコーヒーを一口飲んだ。いつもの、古くなったコーヒーの味がした。どんな日でも、同じ味がした。それが少しだけ、落ち着く理由になっていた。


「……修司さん」


 リゼットが、隣に静かに座った。


「今夜で、終わりじゃないですよね」


「終わりじゃないです。ここからが、本当の運用開始です」


「分かってます。でも……」


 リゼットは少し間を置いた。


「あなたが今夜やったこと、この国には前例がないんです。切り戻し表を作って、現場全員に確認して、誰も死なせないために手順を一個ずつ確かめながら進んだ。……それが、どれだけ大事なことか」


「それが普通のやり方ですよ」


「普通じゃなかったから、今まで誰かが燃やされてきたんです」


 修司は少し考えてから、頷いた。


「……そうですね」


 カズヤは、監視室の隅で静かに目を閉じていた。眠っているのか、ただ休んでいるのか分からなかった。でも、その表情は、この数ヶ月で初めて、何かを手放したような軽さがあった。

 聖女は椅子に腰を落ち着けたまま、低く祈り続けていた。何を祈っているのかは分からない。ただ、今夜の祈りは、もうシステムの更新信号には変換されない。


 修司は立ち上がり、まだ低く唸り続ける基盤炉のモニターを見上げた。黒水晶の奥に、今夜の作業の結果が静かに記録されていた。


【現仕様:召喚者由来供給依存、段階的縮退運転へ移行】

【現仕様:生命維持補助と供給リンクを分離】

【現仕様:特権系統より生活必須系統を優先】

【現仕様:強制召喚再開、凍結】


「ようやく、本番環境を人間の命で動かすのをやめる準備ができた」


 誰に言うわけでもなかった。ただ、声に出して言いたかった。

 修司は小さく息を吐いた。


 これで終わりではない。むしろ、ここからが本当の運用開始だ。

 でも、この国の仕様は、今夜初めてほんの少しだけ変わった。


 人を燃やす仕組みから。人を生かす仕組みへ。

 基盤炉の警告色は、赤から黄色へ変わっていた。


 ――現仕様、燃料ではなく人として。

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