第56話 切り戻し手順
王都魔導省、インフラ統合監視室。
かつてこの空間を支配していた不自然なまでの微温湯のような「春」は、今や完全に消え去っていた。
窓枠の隙間からは、鋭いナイフのような冬の冷気が入り込み、石造りの床を冷徹に冷やしている。監視官たちは、かつての薄着の制服の上に分厚い毛織のコートを羽織り、かじかむ指先に息を吹きかけながらコンソールに向かっていた。
修司が強行した「特権系統の供給制限」は、王都に数百年ぶりの、そして本来あるべき「冬」をもたらした。それは政治的には反逆にも等しい行為だったが、その代償として、地方や前線の破綻を告げる赤い警告灯は、その多くが沈黙していた。
「……マナベ。帰還の分類が済んだのは理解したが、本当にこれを『実行』に移すつもりか?」
コンソールに向かい合う修司の背中に、統括監視官のバルトロが、震える声で問いかけた。寒さのせいか、あるいはこれから行われようとしている未知の術式への恐怖のせいか、その声はひどく掠れている。
「ええ。段階的移行の準備を始めます。まずはカテゴリーAの少年一人からだ」
「だが、古代の記録にある帰還の試みは、そのほとんどが失敗に終わっている! 一度でも基盤炉との接続を切り離せば、二度と元には戻せない。もし途中で魔力が途絶えたり、魂の同期に不具合が生じれば、その召喚者は霧のように消えてしまうのだぞ。これは手順などではない、やり直しのきかない博打だ!」
バルトロの言葉は、この世界の魔導師たちの常識を代弁していた。彼らにとって、大術式の発動とは不可逆な「儀式」であり、一度賽が投げられれば、あとは神の慈悲にすがるしかない一発勝負だった。
だが、修司はキーボードを叩く手を止めず、鼻で笑った。
「博打? いいえ、あんたたちが『切り戻し手順』を設計してこなかっただけですよ」
「きりもどし……?」
「システムを更新する時、もし想定外の不具合が起きたら、即座に元の正常な稼働状態に復旧させる。俺たちの世界じゃ、その手順を確立させないままリリースを行うエンジニアは、無能を通り越して犯罪者扱いされますよ」
修司は『現仕様閲覧(差分解析)』を発動させ、メインモニターに巨大なフローチャートを展開した。
視界に溢れる金色の文字列。その深層に刻まれた古代の帰還コードを改めてスキャンすると、そこには確かに「切断」の命令はあるが、その後の「異常終了時のリカバリ処理(例外処理)」が、驚くほど徹底して欠落していた。
「見てください。この術式は『成功すること』しか考えていない。失敗した瞬間にプロセスがハングアップし、対象(召喚者)とのセッションを物理的にロストする構造になっている。……設計者が傲慢だったのか、あるいは失敗した者は切り捨てる前提だったのか。どちらにせよ、現場の運用としては欠陥品だ」
修司は、コンソールの深い階層に潜り込み、基盤炉の余剰リソースを一時的にバッファとして確保する仮想領域を構築していく。
「エイラ。あんたは保守班を率いて、俺が今から作る『帰還前チェックリスト』の監視に回ってくれ」
保守主任のエイラが、緊張に顔を強張らせながら一歩前へ出た。
「チェックリスト……。具体的に何を監視すればいいんですか?」
「全部です。まずは、地方炉の魔力残量、および予備魔石の接続状態。帰還処理中に王都の負荷が跳ね上がった際、地方が自立を維持できるかを確認する。次に、召喚者のバイタルデータ。魂の波形が一定の閾値を下回った瞬間、強制的に術式を中断させる。そして……これが一番重要だ。供給リンクの『段階的な遮断設定』だ」
修司は、コンソール上にスライダーのような操作インターフェースを生成した。
「一気にゼロにはしません。まずは十パーセントずつ、様子を見ながらリンクを細らせていく。その間、前線結界の安定度や地方暖房の出力をリアルタイムで監視し、一ミリでも許容範囲を超えた変動があれば、即座に出力を百分の一秒で元に戻す『一時復帰ルート』を確保しておく」
「そんな……。基盤炉と接続を維持したまま、帰還の門を半開きにするなんて。そんな繊細な魔力制御、この国の制御術式には存在しません!」
エイラの叫びはもっともだった。この国の魔導は、常に「全開」か「停止」かの二択に近い大雑把なものだった。
だが、修司はそこに、現代的な『制御理論』を無理やり割り込ませる。
「存在しないなら、俺が書く。……王都の贅沢を削ったのは、そのための『安全マージン』を確保するためです。浮いた分の二十四パーセントは、すべてこの切り戻し手順のバックアップ電源としてリザーブします」
修司の指先が、目に見えぬ速度でコンソールを叩き続ける。
彼は、召喚者一人ひとりの魂の「バックアップ」を取ることはできない。だが、その接続を維持している「環境」のバックアップは、技術で構築可能だ。
「リゼットさん。前線のダリル司令に連絡を入れてください。今から数時間、結界の出力に微細なノイズが乗る可能性がある。だが、俺が監視している限り、崩壊はさせない。何かあれば、こちらで即座に切り戻す。……それからセルアスさん。神殿側の下級神官たちを説得して、生命維持補助の代替用魔石を、召喚者のベッドの脇に物理的に配置させてください」
「了解いたしました、シュウジさん。……ダリル司令には、私から直接伝えます。彼は今、あなたの出す数字を誰よりも信じていますから」
リゼットが力強く頷き、通信室へと走る。
「承知いたしました、マナベ殿。……実に見事な『臆病さ』です。これこそが、信頼に値するプロフェッショナルの姿勢というものでしょうな」
セルアスが眼鏡を押し上げ、事務的な、しかし確かな信頼を込めた声で答え、神殿との調整に向かった。
修司は一人、モニターの波形と格闘し続けた。
帰還の門を開くための魔導的なエネルギーの「圧力」と、それを支える王国インフラの「耐久力」。その拮抗点を、コンマ数パーセントの精度で調整していく。
1.帰還前チェックリスト(Pre-flight Check)の自動走査。
2.生命維持補助を基盤炉から独立魔石へ一時移行し、切り離しを確認。
3.供給リンクを10%刻みで減衰させ、インフラへの影響をフィードバック。
4.X-01同期セッションの「読み取り専用(Read-Only)」モードへの変更。
5.全系統に異常がない場合のみ、最終的な「切断(Disconnect)」を実行。
「……よし。これで、帰還処理の『試験実行』が可能な環境が整いました」
修司が最後の一打を叩き込むと、モニター上の「赤い警告」が、深い青色を帯びた「待機状態」へと変わった。
いきなり本番環境をいじるのではない。万が一、手順にミスがあれば、あるいは想定外の共振が起きれば、瞬時に「Ctrl+Z」を押すように、すべてを元通りに修復できる環境。
それこそが、数百年もの間、この国に欠落していた「運用の安全性」だった。
「これなら……」
エイラが、モニターを見つめながら震える手で自身の胸元を押さえた。
「これなら、あの子たちを……誰も消さずに済むかもしれない。修司さん、あなたは本当に、この国の『神聖な儀式』を、ただの『作業』に変えてしまったのね」
「儀式なんて言ってるから、死人が出るんですよ。……仕事なら、安全で確実なほうがいい」
修司は小さく息を吐き、ようやくコーヒーを一口飲む余裕を得た。冷え切ったコーヒーが、熱くなった脳を適度に冷やしてくれる。
――だが、その安堵は長くは続かなかった。
「……? 待て。……なんだ、この非同期パケットは」
修司の瞳が、コンソールの片隅で静かに動き出した「未定義のログ」を捉えた。
帰還プロトコルの監視のためにバックグラウンドで走らせていたパケットモニターが、王宮の奥深く――『召喚の間』に直結している専用回線から、奇妙なバースト通信を検知していた。
「修司さん、どうかしたの?」
戻ってきたリゼットが、彼の険しい表情を見て歩み寄る。
修司は無言で、そのログを抽出し、差分解析をかけた。
それは帰還プロトコルの一部ではなかった。むしろ、その真逆の目的を持ったコマンド群だ。
「……強制召喚の再開準備? バカな、実行シーケンスは俺が物理的に無効化したはずだぞ」
「えっ……? 再開って、また新しい人をこの世界に呼ぶっていうの……?」
ログには、神殿上層部の極秘IDと、王宮魔導院の管理者権限を併用した「予約タスク」が刻まれていた。
修司が贅沢を削り、依存率を下げ、ようやくシステムに「空き容量(魔力余裕)」を作り出した。……あろうことか、中央の権力者たちはその空いたリソースを、召喚者を帰すためではなく、新たな「燃料」を異世界から補充するために使おうとしていたのだ。
「……連中、俺がリソースを整理して作った『空き枠』に、新しい召喚者を放り込むつもりか」
修司の声が、これまでになく冷たく、鋭く響いた。
現場が命懸けでインフラを立て直し、勇者たちが一人の人間としての尊厳を取り戻そうとしているその隣で、中央の連中はただ「安価な代替バッテリー」の補充だけを考えていた。
彼らにとって、修司が行った改善は、単に「より多くの人を効率的に使い潰せるようになった」というアップグレードにしか見えていなかったのだ。
「……バルトロ。あんた、これを知っていたか?」
「な、何のことだ!? 私は……私は聞いていない! それは王宮直轄の……」
修司はバルトロの弁明を遮り、ログをプリントアウトした羊皮紙を無造作に放り投げた。
「……ゴミが増えましたね。リゼットさん、帰還試験は一時保留だ。手順2を始める前に、まずはこの『腐った仕様(王宮)』を物理的に黙らせる必要がある」
切り戻し手順を確保し、ようやく希望が見えた矢先。
王国の「現仕様」は、修司の想像を遥かに超える執念で、若者たちの命を喰らい続けようと足掻いていた。




