第55話 帰還手順の実行試算
王都魔導省、インフラ統合監視室。
分厚い石壁に囲まれたこの空間を支配していたのは、数日前までの不自然な温気ではなく、肌を刺すような純粋な「冬」の冷気だった。
部屋の隅にある換気口からは容赦のない寒風が入り込み、窓枠には白い結露が走っている。監視官たちが吐き出す息は白く濁り、室内でも厚手のコートを手放せない状況だ。
修司が基盤炉の優先順位を強制的に書き換え、王都上層区の「常時春設定」を停止させたことで、この街には数百年ぶりとなる本来の季節が訪れていた。特権階級の反発は凄まじかったが、その代わりに、地方や前線を絶望の淵に追い込んでいた警告灯の多くは沈黙している。
「依存率二十四パーセント。……ようやく、外の冷気で頭を冷やしながら、本質的な話を始められそうだな」
修司はかじかむ指先を軽くこすり合わせ、中央のメインコンソールに向き直った。
隣ではリゼットが、自らも厚手のケープを羽織りながら、神殿側に保護されていたカズヤや聖女、そして数名の召喚者たちをこの監視室へと案内してきていた。
今日この場で行うのは、先日、東部砦の地下石室で暴き出した『帰還手順(Return-Protocol)』の本格的な実行試算である。
かつて初代王が隠蔽し、神殿の上層部が「不可能」と決めつけていたこの術式は、今や修司のコンソールの奥深くに引きずり出され、実行命令を待つだけの状態にあった。
「シュウジさん……。本当に、俺たちは日本へ帰れるんですか?」
カズヤの声には、強い期待と、それ以上に深い不安が混ざり合っていた。
彼はもう、ただの魔力供給源ではない。自らの意志で戦うことを選び、この世界の人々の命の重さを背負ってしまった一人の若者として、その言葉の重さを誰よりも理解していた。
「技術的には、道は開いている。だが、カズヤ。……『帰還』というのは、おとぎ話みたいに魔法の光に包まれて一瞬で元の世界へ飛ばされるような、便利な現象じゃないんだ。システムエンジニアの視点で言えば、この王国のインフラという超巨大なメインフレームから、あんたたちの存在を完全に『アンインストール』する緻密な工程なんだよ」
修司はコンソールを叩き、大型のメインモニターに複雑なツリー構造の図解を展開した。
そこには、召喚者という存在が、いかにしてこの世界に縛り付けられているかが、無数の糸のような線で描かれている。
「今のあんたたちは、この世界の基盤と複数の『接続』でがっちりと結ばれている。これを強引に引き剥がそうとすれば、あんたたちの魂そのものが破損するか、あるいはこの世界のシステムが深刻なクラッシュを起こして、取り返しのつかないインフラ障害を引き起こす」
修司は、召喚者一人ひとりの背後に伸びている見えないコードを『現仕様閲覧(差分解析)』で読み取り、その複雑さをモニター上に可視化していった。
「あんたたちを生かすための『生命維持補助』。魔力を吸い上げるための『供給リンク』。前線で戦うための『X-01の同期セッション』。聖女様が善意で行った『治癒履歴による更新トリガー』。そして、世界をまたぐ移動を禁じる『帰還ロック』。……これだけの依存関係が、幾重にも絡み合っている。これを一つずつ、順番を間違えずに、安全に解きほぐさなきゃならないんだ」
修司はコンソールに指を滑らせ、一つのリストを表示した。
それは、あの日王宮の広間に共に召喚された自分を除く五名の名前と、それぞれの接続ステータスが記載された一覧表だった。
「エイラ、試算結果を共有する。俺を除いた五名の接続状況を解析した。……見ての通り、全員同時の一斉帰還は不可能だ」
保守主任のエイラが、モニターに並んだ数値とアルファベットを見て息を呑む。
「カテゴリーAからEまで……? 修司、これはいったい……」
「各召喚者の『帰還可能性』を、基盤炉との癒着度合いに基づいて五段階に分類したものだ。……順に説明する」
修司は、金色の文字列でハイライトされたグループを一つずつ指し示した。
【カテゴリーA:即時帰還試算可能(該当:1名)】
「まずはこの層だ。戦傷が少なく、聖女による治癒回数も限定的。前線での活動も短かったため、基盤への癒着が最も浅い。この少年なら、今のインフラ状況のままでも、数日中に安全な切断手順に入れる見込みがある」
【カテゴリーB:生命維持補助の代替が必要(該当:1名)】
「次は、基盤からの生命維持補助なしでは肉体の維持が危うい重傷者だ。彼を帰還の物理的な衝撃に耐えさせるためには、基盤炉からの接続を切る前に、魔導省側の独立した医療設備による『外部補助』へ一時的に切り替える緻密な移行作業が必要になる」
【カテゴリーC:X-01装備接続解除が必要(該当:1名)】
「前線での活動が長く、勇者用の補助装備と魂が深く同期してしまっている。装備を物理的に脱ぐだけでは足りない。システムレベルでの同期セッションを一つずつ正常終了させていく工程に時間を要する。無理に剥がせば、精神に深刻な後遺症が残る恐れがある」
【カテゴリーD:基盤炉供給リンクが深く癒着(該当:1名)】
「……カズヤ、あんたのことだ」
修司が視線を向けると、カズヤは小さく息を吐いた。
「あんたは勇者として、供給リンクのメインパスとして酷使され続けてきた。その太い回線を急激に切断すれば、基盤炉側に致命的な過負荷がかかり、王国中のインフラが吹き飛ぶ。あんたを帰すには、インフラの完全な移行設計が終わるまで、最後の最後まで残ってもらう必要があるんだ」
「……わかってます。俺のことは後回しでいい。俺は、最後でいいんです」
カズヤは迷いのない瞳で静かに頷いた。その若すぎる覚悟を、修司は冷徹な数値としてシステムに登録する。
【カテゴリーE:本人の意思確認が未了(該当:1名)】
「そして最後がこれだ。……帰るかどうか、迷っている者。あるいは、この世界で何らかの使命感や関係性を抱き、日本へ戻る理由を見失っている。技術で強制できる問題じゃない。……ここが一番難しい」
修司は、一度キーを叩く手を止めた。
システムエンジニアとしての技術は、魔導のコードを書き換えることはできても、人の心まで規定することはできないのだ。
「いいか、皆。……現在の王国インフラは、俺が特権階級の贅沢分を削ったおかげで、ようやく『召喚者をあと一名から二名欠いてもシステムが耐えられる』という状態にまで漕ぎ着けた。依存率二十四パーセントのうち、まずはカテゴリーAの彼を帰しても、地方炉と備蓄魔石の予備リソースでギリギリ埋め合わせができる計算だ」
「じゃあ、その子は……すぐに帰れるってことなのね?」
リゼットの問いに、修司は「理論上は」と付け加えた。
「段階的に、一人ずつ、基盤への負荷の波形を見ながら帰還させる。……これが、現場が死なないための、そして誰も犠牲にしないための最短ルートだ」
監視室に、重苦しい安堵と、未体験の領域へ踏み出す新たな緊張が広がった。
帰還はもはや、神学的な夢物語でも、不可能な奇跡でもない。明確な期日と手順を持った「プロジェクトの工程表」へと変わりつつあった。
その時だった。
カテゴリーA――つまり、真っ先に日本へ帰れると判定された高校生の少年が、震える声で口を開いた。
「……マナベさん。俺、本当に……帰っていいんですか?」
少年の声は弱々しく、今にも泣き出しそうだった。
修司が視線を向けると、少年はモニターに映り続けている「地方暖房の出力レベル」や「前線結界の安定度」を示すリアルタイムのグラフを、怯えたような、それでいて深い罪悪感に苛まれたような目で見つめていた。
「俺たちが帰ったら……さっきの数字、また悪くなるんですよね? 王都の人たちは今も寒いって文句言ってるし、前線の兵士さんは、今この瞬間も魔物と戦って血を流してる……」
「……計算上は、俺が削った贅沢分のリソースで補填可能だ。インフラの維持は王国側の責任。あんたが気にする必要はない」
「でも! ……もし計算が間違ってたら? 俺が日本に帰って、元の生活に戻って、家族に会って、温かいご飯を食べてる間に……ここの誰かが、俺のせいで凍えて死ぬんじゃないかって……そう思ったら……」
少年の絞り出すような言葉に、その場にいた全員が息を呑み、深い沈黙が落ちた。
彼は、この世界に無理やり連れてこられた被害者だ。この異世界を救う義務など、本来一分たりとも持っていない。誰に責められる謂れもない。
だというのに、彼はこの数ヶ月間、自分たちが「魔力の供給源」としてこの国を支えてきたという事実を知ってしまった。自分の命と引き換えに、見知らぬ誰かの生活が成り立っているという、歪で残酷な構造を理解してしまったのだ。
「帰れるなら帰りたい……。ずっと、お母さんに会いたかった。日本に帰りたかった……。でも、俺が帰ったら、この世界で誰かが凍えるんじゃないのか。……そう思うと、足がすくむんです……っ」
少年の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、冷え切った監視室の石畳に小さな音を立てて弾けた。
傍らに立っていた聖女が、耐えきれないように顔を覆い、静かにむせび泣く。
修司は、その少年の涙を拭う言葉を持ち合わせていなかった。
「問題ない」「データ上は安全だ」という無機質な回答は、少年の優しすぎる心にかかった重いブレーキを外すには、あまりにも軽すぎた。
「……リセットできない実機の難しさ、か」
修司は低く呟き、再びコンソールの暗い画面を見つめた。
依存率二十四パーセント。
その数字の中には、魔力というエネルギーの総量だけでなく、彼らの「善意」や「罪悪感」、そして「責任感」という、仕様書には決して書かれない重みが混ざり合っている。
召喚者を燃料にしない国を作る。
その真の難しさは、システムのエラーを直すことではなく、一度歪められてしまった「人の心」をどうやって解放するかという点にあるのだと、修司は痛感していた。




