第31話 壊れた善意
灰色の荒野を駆け抜け、俺はダリル司令が待つ最前線防衛砦へと帰還した。
数時間前に出発した時とは違い、砦の周囲には本来の青白い光を放つ強固な防衛結界が、分厚いドーム状に展開されていた。
勇者一行の「光の城」から強制的にリソースを奪い返したことで、砦の魔導炉が本来の出力を取り戻したのだ。
門をくぐると、砦の中庭では工兵たちが活気を取り戻し、奪い返した木材と魔石を使って、崩れかけていた南の城壁の補修作業を急ピッチで進めていた。
行き交う一般兵たちの顔からも、今朝までの色濃い絶望は消え去っている。確かな防御の壁があるという事実が、どれほど兵士たちの心を救うか。
「……よく生きて戻ったな、検査官殿」
馬を降りた俺を出迎えたのは、作戦室から出てきたダリル司令だった。
その顔には、驚愕と、深い安堵の色が入り混じっていた。
「外の結界を見ましたよ。これなら、今夜の魔物の襲撃も凌げるでしょう」
「ああ。あんたが東へ向かってから一時間もしないうちに、突然、魔導炉へ莫大な魔力が逆流してきてな。おかげで首の皮一枚繋がった」
ダリル司令は深く息を吐き出し、周囲の兵士たちに聞こえないよう、声を潜めて尋ねてきた。
「……本当に、勇者様の御陣の術式を破壊したのか? 王都から同行している聖女様や、随行者の連中が黙っていなかっただろう」
「破壊というより、最低限の野営機能だけ残してダウングレードしただけです。もちろん、聖女様には『王国の理に反する大罪人』として睨まれましたよ」
俺が肩をすくめると、ダリル司令は頭を抱え込んだ。
「笑い事ではないぞ……。現場の兵士十万人の命を救ったとしても、王都の連中に言わせれば、勇者様の寝床を奪ったあんたは極悪人だ。この砦の監査が終わったら、すぐにでも王都へ戻って身の潔白を証明する準備をした方がいい」
「その必要はありませんよ。誰の目から見ても明らかな、決定的な証拠を王都へ持ち帰りますから」
俺がそう答えた時だった。
「……お待ちください、検査官殿」
作戦室の奥から、青ざめた顔をした一人の若い男がふらふらと歩み出てきた。
仕立ての良い文官の服を着ている。確か、昨夜の特別区画で、あの宮廷書記官の側で帳簿を抱えていた下級の補佐官だ。
勇者一行が「光の城」へ向かう中、砦での物資管理のために一人だけ居残りさせられていたのだろう。
「……あなたは、王都から来た随行者の一人ですね」
俺が警戒して身構えると、若い補佐官は力なく首を振り、そのまま冷たい石畳の上へと膝をついた。
「私は、エルネストと申します……。検査官殿、どうか教えてください。先ほど、東の空で眩い光が消えるのが見えました。……あなたが、勇者様の過剰な支援術式を止めてくださったのですか?」
その声には、怒りや咎めるような響きはなく、ただ深い悲痛だけが込められていた。
「ああ。止めたよ。このままじゃ砦が落ちて、あんたも死ぬところだったからな」
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます……!」
エルネストは石畳に額を擦りつけるようにして、嗚咽を漏らし始めた。
ダリル司令が怪訝な顔で彼を見下ろす。
「どういうことだ、文官殿。王都の人間である貴殿は、勇者様への絶対優先の支援こそが正しいと信じていたのではないのか」
「……最初は、私もそう信じていました。王都の神殿で、勇者様がどれほど過酷な戦いを強いられているかを聞かされるたびに、涙を流して祈りました。少しでも勇者様の負担を減らして差し上げたいと、本気で思っていたのです」
エルネストは顔を上げ、涙と泥にまみれた顔で、絞り出すように語り始めた。
「王都の貴族や魔導師たちも、同じでした。勇者様がかすり傷を負ったと聞けば、最高位の治癒魔導師が何日も徹夜して『自動回避と痛覚遮断の術式』を組み上げました。勇者様が夜の寒さで眠れないと聞けば、王宮の建築家と術師が束になって『王都の館を再現する術式』を構築しました……。誰もが、勇者様を救うという『善意』に満ちていたのです」
俺は黙って彼の言葉を聞いていた。
わかっていたことだ。システムを壊すのは、いつだって悪意だけではない。
「ですが……私はこの最前線砦に滞在し、外で血を流す兵士たちの姿を見ました。我々が王都から送った『善意の術式』が発動するたびに、兵士たちの結界が消え、薬が奪われ、彼らがバタバタと死んでいくのを……この目で見てしまったのです」
エルネストは両手で顔を覆った。
「書記官殿や聖女様に進言しました。これ以上の過剰な支援は、前線の兵士たちを殺すことになると。……しかし、彼らは聞く耳を持たなかった。兵士の犠牲は、世界を救うための尊い代償だと。私たちが善意で作った術式を止めることなど、勇者様への冒涜だと……!」
それが、システムエンジニアが最も恐れる「壊れた善意」の正体だった。
誰も、兵士を殺そうと思って仕様を追加したわけではない。
ただ、「勇者を守る」という大義名分のもと、王都の人間たちが競うようにして「親切な機能」を継ぎ足し続けたのだ。
全体のリソース(魔力や物資の総量)を管理する者もいないまま、誰もが自分の作った支援術式こそが勇者のためになると信じて疑わなかった。
その結果、肥大化しすぎた善意の塊は、システム全体の首を絞める怪物へと成長してしまった。
「……誰も悪くないからこそ、誰も止められなかったんですね」
俺が静かに呟くと、エルネストは何度も頷いた。
「ええ。勇者様ご自身でさえ、もうあの過剰な支援を止める権限をお持ちではないのです。だから、あなたが強制的に止めてくださって……私は、心の底から救われた気がしました。我々の歪んだ善意が、これ以上、この砦の兵士たちを殺さずに済むのだと……」
「……まだ終わっていませんよ、エルネストさん」
俺は彼を見据え、冷酷な事実を告げた。
「俺が今日やったのは、末端で暴走していた術式を一時的に黙らせただけです。明日になれば、王都のシステムは再び『勇者への支援が足りない』と判断し、別の形でリソースを奪いに来るでしょう。……構造そのものを変えない限り、このデスマーチは絶対に終わらない」
俺はダリル司令に向き直った。
「司令。この砦の魔導炉の『認証核』を見せてください」
「認証核だと? 魔導炉の最奥にある、王都と直接繋がっている通信と制御の中枢だぞ。保守担当の魔導師以外は立ち入り禁止になっているが……」
「俺は首席検査官です。すべての魔導インフラを監査する権限がある。……勇者システム(X-01)の暴走を根本から断ち切るために、この目で直接『根源の仕様』を確かめる必要があるんです」
俺の真剣な眼差しに、ダリル司令は短く頷き、自ら先頭に立って砦の地下へと歩き出した。
*
砦の最下層、分厚い鉄の扉に守られた冷たい石室の中に、その『認証核』は鎮座していた。
大人の背丈ほどもある巨大な黒水晶。
その内部には無数の魔力線が血管のように張り巡らされ、王都とこの最前線砦を繋ぐ膨大な情報と命令が、青や赤の光の明滅となって絶え間なく行き交っている。
「これが認証核だ。……しかし、検査官殿。ここからどうやって、王都の連中が書き加えた『善意の術式』を止めるというのだ?」
「術式の追加履歴を調べます。誰が、いつ、どんな目的でこの仕様を書き加えたのか。その源流を辿れば、必ず『全体の制御権』を握っている大元のルールに辿り着くはずです」
俺は手袋を外し、冷たい黒水晶の表面に右手を押し当てた。
意識を極限まで集中させ、俺の最大の武器であるスキルを起動する。
『――差分解析(現仕様閲覧)、実行』
視界が完全に反転する。
薄暗い石室の風景が消え去り、俺の目の前に、無限に続く光の奔流と、複雑に絡み合った金色のフローチャートが展開された。
俺はその中から、勇者支援システムを示す【プロセスID:X-01】のタグを抽出し、その「更新履歴」へと深く潜り込んでいった。
そこにあったのは、エルネストが語った通りの、狂気じみた「善意のパッチワーク」の痕跡だった。
【歴程一:自動治癒術式の追加。提案者:王都第一神殿】
【歴程二:痛覚遮断プロトコルの追加。提案者:宮廷魔導院】
【歴程三:絶対優先による魔力徴収権限の付与。提案者:財務局】
【歴程四:前哨宿営地の完全展開術式の追加。提案者:王宮建築局】
何十、何百という追加仕様。
どれも「勇者を守るため」という大義名分のもと、一切の最適化やリソースの計算を無視して、ただひたすらに上書きされ続けている。
要件定義も、全体テストも存在しない。ただ「勇者を特別扱いせよ」というフワッとした方針だけが独り歩きし、システムをグロテスクに肥大化させていた。
「……ひどいスパゲティコードだ。これを保守しろと言われたら、発狂するレベルだな」
俺は悪態をつきながら、さらにログの深層へと潜る。
これだけの無茶な追加仕様を、システムがエラーで弾くことなくすべて受容し続けているのには、必ず理由があるはずだ。
通常、どれほど王都の魔導師が術式を追加しようとしても、システムには「安全装置」が存在する。
魔力の上限を超えたり、既存のインフラを破壊するような命令が下された場合、システム自体がそれを拒否しなければならない。
だが、この勇者システム(X-01)は、その安全装置をすべて「無視」して実行されている。
「……あったぞ。このX-01の権限を、無条件で承認し続けている『上位のルール』が」
俺の視界の最奥。
金色のフローチャートのさらに奥底に、ひっそりと、だが絶対的な強制力を持って鎮座している「漆黒のタグ」を見つけた。
勇者システムという巨大な怪物すらも、ただの「子プロセス」として従えている、真の支配者。
俺はその漆黒のタグに触れ、封印されている詳細情報を展開した。
「……なんだ、これは」
読み取った内容に、俺は息を呑み、思わず黒水晶から手を離しそうになった。
【上位参照権限:Summon-Origin(召喚由来権限)】
【権限レベル:王室・査問委員会を超越する最上位(System-Root)】
【定義:勇者システム(X-01)は、本権限の末端仕様の一つにすぎない】
「どうした、検査官殿。顔色が悪いぞ」
背後からダリル司令が声をかけてくるが、俺は答える余裕すらなく、視界に浮かぶログを凝視した。
勇者システムは、王都の連中が勇者を特別扱いするために作った「後付けの独立したシステム」ではなかった。
もっと古く、もっと巨大な……俺たち異世界人をこの世界に引っ張り込んだ「召喚制度そのもの」と完全に接続されていたのだ。
王都の魔導師たちがどんな無茶な術式を追加しても、システムがそれを弾かなかった理由。
それは、「召喚陣」というシステムの大元が、最初から「この世界のリソースをいくら破壊してでも、召喚した人間を維持・利用しろ」という命令を下していたからに他ならない。
勇者システム(X-01)の暴走は、現場の怠慢でも、王都の過剰な善意だけでも説明しきれない。
その根底には、俺たち異世界人を召喚した「真の目的」が、冷酷な仕様として組み込まれているのだ。
「……司令。俺が戦うべき相手は、どうやら王都の貴族や聖女だけじゃないらしい」
俺は黒水晶に手を押し当てたまま、低く呟いた。
俺のターゲットが、勇者制度から、「召喚制度そのもの」へと明確に定まった瞬間だった。




