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第28話 随行者のための戦場

 灰色の空から、粉雪が舞い落ちていた。


 東部方面第一中継補給基地、そして野戦治療院でのバグを立て続けに修正した俺は、装甲馬車に揺られてついに最前線へと到着した。


 東部方面軍・最前線防衛砦。


 魔物の領域と人類の生存圏を隔てる、巨大な石造りの防波堤である。


 だが、馬車を降りた俺の目に飛び込んできたのは、堅牢な要塞という言葉からはほど遠い、満身創痍の光景だった。


 砦の城壁はあちこちが崩落し、応急処置として積まれた土嚢や丸太が痛々しく露出している。


 すれ違う兵士たちの鎧はへこみ、血と泥で汚れ、その顔には深い疲労と絶望が刻み込まれていた。


 冷たい風が吹き荒れる中、彼らは薄い外套に身を包み、焚き火の周りに身を寄せ合って震えている。


 魔物との激しい戦闘が日常茶飯事であることは一目でわかった。


 だが、それ以上に異常なのは、この巨大な砦全体を覆っているはずの「防衛結界」の薄さだった。


 本来なら青白い光のドームが砦をすっぽりと包み込んでいるはずなのに、今の結界はまるで風前の灯火のように明滅し、上空からの雪さえまともに防げていない。


「……ひどい有様だな。これでは魔物の群れに押し込まれるのも時間の問題だ」


 俺はため息をつきながら、砦の司令部へと向かった。


 司令部として使われている堅牢な石造りの塔に入ると、そこには血走った目で巨大な地図と睨み合っている初老の騎士がいた。


 彼がこの最前線砦を預かる、ダリル砦司令だ。


「王都から来た首席検査官だと? こんな死地に、いったい何の用だ」


 ダリル司令は、俺の左腕にある真紅の腕輪を一瞥しただけで、すぐに視線を地図へと戻した。


 その声には、怒りよりも深い諦めが滲んでいる。


「監査に来ました、ダリル司令。……外の兵士たちを見ました。防衛結界の出力が異常に低下しているようですが、魔導炉の故障ですか?」


 俺の問いに、ダリル司令は自嘲気味に鼻を鳴らした。


「故障だと? 冗談を言うな。魔導炉は正常に動いている。ただ、出力の八割が『別の場所』へ吸い取られているだけだ」


「別の場所?」


「ああ。あんたも王都の人間なら知っているだろう。今、この砦の奥の区画には、勇者様御一行が滞在しておられる。……結界を張るための魔力は、すべてそっちへ持っていかれているんだよ」


 司令の言葉に、俺は眉をひそめた。


 いくら勇者が重要とはいえ、砦全体の防衛結界を犠牲にしてまで魔力を集中させる必要があるのか。


「……案内してもらえますか。その区画へ」


「好きにしろ。ただし、我々現場の兵士は立ち入りを禁止されているからな。あんた一人で行くんだな」


 ダリル司令から通行許可証を受け取り、俺は砦の最奥部にある特別区画へと足を向けた。


 特別区画へ近づくにつれ、周囲の空気が劇的に変わっていくのがわかった。


 先ほどまでの凍りつくような冷風が嘘のように消え去り、ふわりとした春のような暖かな空気が肌を包み込む。


 分厚い石壁で囲まれたその区画に入った瞬間、俺は自分の目を疑った。


 そこは、血と泥にまみれた最前線砦とは完全に切り離された「異世界」だった。


 床には上質な絨毯が敷き詰められ、壁には煌びやかな魔導照明がいくつも輝いている。


 部屋の隅には、王都の貴族の館にしかないような巨大な魔導暖炉が設置され、赤々と燃える炎が部屋全体を適温に保っていた。


 さらに奥からは、甘い香水の匂いと、肉を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。


 外では一般兵が寒さに震えながら焚き火を囲み、傷の痛みに耐えているというのに。


 壁一枚隔てたこの場所は、過剰なまでの魔力を消費して、完璧な「王都の快適さ」を再現していたのだ。


「……おい! 温度が二度下がっているぞ! どうなっているんだ!」


 突然、奥の部屋からヒステリックな男の怒声が響いた。


 俺が足音を殺して近づくと、開け放たれた豪奢な部屋の中で、煌びやかな宮廷服を着た細身の男が、砦の保守担当らしき下級兵士を怒鳴りつけていた。


「も、申し訳ありません、書記官殿! しかし、これ以上この部屋の空調魔導具に魔力を回すと、外の防衛結界が完全に消滅してしまい……」


「言い訳をするな! 私は王命により、勇者様の偉大な軌跡を後世に残す宮廷書記官だぞ! この部屋の温度と湿度が完璧に保たれなければ、王都から持ち込んだ最高級の羊皮紙が傷んでしまうではないか!」


「し、しかし、防衛結界が破られれば、魔物が砦になだれ込んできて我々は全滅します……!」


「ええい、知ったことか! 勇者様がいらっしゃるこの砦が落ちるわけがなかろう! そもそも、我々『随行者』の健康と環境を維持することは、王国の法と魔導の理において最優先事項と定められているのだ。貴様らのような下っ端の兵卒が、我々に割り当てられた魔力に口出しするなど言語道断!」


 宮廷書記官はそう吐き捨てると、壁に設置された空調の制御盤を乱暴に叩いた。


 すると、制御盤が青白い光を放ち、部屋の温度がさらに上昇していく。それと反比例するように、遠くから聞こえていた防衛結界の駆動音が、さらに弱々しいものへと変わっていった。


 俺は静かに部屋の中へ足を踏み入れた。


「……なるほど。これが『別の場所』の正体か」


「なんだ貴様は! ここは勇者様の随行者たる我々の特別区画だぞ! 泥まみれの靴で入ってくるな!」


 俺の姿を見た宮廷書記官が顔を真っ赤にして叫ぶ。


 俺は彼を完全に無視し、壁の空調制御盤へと歩み寄った。


「あんた、宮廷書記官と言ったな。勇者本人じゃない」


「当たり前だ! 勇者様は今、奥の浴室で一日の疲れを癒しておられる。我々随行者は、勇者様が快適に戦えるよう、身の回りの世話から記録まですべてを担う重要な役目を負っているのだ!」


「その『重要な役目』のために、外で命を張っている兵士たちの結界を削り取っているわけだ」


 俺は制御盤に右手を押し当て、静かに意識を集中させた。


『――差分解析(現仕様閲覧)、実行』


 視界が反転し、この部屋の環境を維持している魔力フローと、砦全体のエネルギー配分図が空中に浮かび上がる。


 信じられないほど太く、赤い光を放つ魔力のパイプが、砦の魔導炉からこの区画の「暖房」「照明」「給湯」「湿度調整」といった、戦闘には一切関係のない娯楽設備へと直結していた。


 俺はその赤いパイプを制御しているタグ情報を読み解いた。


【プロセスID:X-01-Sub(勇者随行者・環境維持プロトコル)】

【優先度:Absolute(絶対)】

【システム要求:随行者の心身の健康と作業環境を、王都基準の最高レベルで維持すること】


 怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、俺は冷たい理性で押さえ込んだ。


 野戦治療院でガロン院長が言っていた通りだ。


 勇者本人だけではない。料理人、侍従、そしてこの書記官といった「非戦闘員の随行者」たちにまで、絶対優先の特権が拡張されている。


 本来、軍隊の遠征において、非戦闘員の環境は後回しにされるべきものだ。


 だが、この国のインフラを設計した王都の連中は、「勇者様とそのご一行には、不便な思いをさせてはならない」という過剰な忖度を、そのまま魔導術式の「仕様」として組み込んでしまった。


 その結果、システムは『書記官の羊皮紙を保護するための湿度調整』を、『魔物の爪から兵士を守る防衛結界』よりも優先順位が高いと判断し、自動的に魔力を奪い続けているのだ。


「……狂った仕様だ。戦場を舐めるのもいい加減にしろ」


 俺は仮想コンソールを開き、赤い光を放つ【X-01-Sub】の権限に介入した。


 魔導の封印パスワードによる保護はかかっているが、そんなものは今の俺には紙切れ同然だ。


 俺は首席検査官の権限を使い、随行者たちに割り当てられている「環境維持」の命令を、最上位(Absolute)から最低位(Low)へと強制的に書き換えた。


【権限上書き:随行者の環境維持優先度を低下】

【防衛結界・生命維持システムの優先度を復元】


 俺がコマンドを実行した瞬間。


 ブツンッ、という鈍い音と共に、部屋を煌々と照らしていた魔導照明が、一斉に薄暗いオレンジ色へと落ちた。


 同時に、猛烈な熱を発していた魔導暖炉の炎がシュンと縮み、空調設備から噴き出していた温風が完全に停止する。


 春のように暖かかった部屋の空気が、急激に冷え込み始めた。


「なっ……!? なんだ、何をした貴様!」


 宮廷書記官がパニックを起こしたように叫ぶ。


「何をしたって? あんたたちの『過剰な快適さ』を削って、本来あるべき場所へ魔力を戻しただけだ」


 俺の言葉を証明するかのように、砦の外から地響きのような歓声が聞こえてきた。


 今まで風前の灯火だった砦の防衛結界に、莫大な魔力が還元されたのだ。青白い光のドームが本来の輝きと厚みを取り戻し、砦全体を強固に包み込んでいる様子が、窓の外からでもはっきりとわかった。


「き、貴様ぁ! 自分が何をしたかわかっているのか! 我々随行者の魔力を奪うということは、勇者様への反逆と同義だぞ!」


 寒さに肩を震わせながら、書記官が俺に詰め寄ってくる。


 俺は一歩も引かず、冷たい目で彼を見下ろした。


「反逆しているのはあんたたちの都合の良い仕組みの方だ。外の兵士たちを見てこい。彼らが魔物を防いでいるから、あんたはここで呑気に羊皮紙に文字を書いていられるんだろうが」


「黙れ! 我々は王都から選ばれた特別な存在だ! 泥にまみれるだけの兵卒とは価値が違うのだ!」


「ここは王都じゃない。最前線だ。泥にまみれる兵士が死ねば、次にあんたの首が飛ぶんだよ。……それとも、結界が消えたこの砦で、あんたが自分で剣を持って魔物と戦うか?」


 俺の静かな、だが殺意すら孕んだ言葉に、書記官はヒッと短い悲鳴を上げて後ずさった。


 彼はガチガチと歯を鳴らしながら、悔しそうに俺を睨みつける。


「……お、覚えておけ。この程度の嫌がらせで、我々を屈服させられると思うなよ……!」


 書記官は憎々しげに言い放つと、薄暗くなった部屋の隅へ逃げ込むようにして毛布に包まった。


「明日の朝には、勇者様と共にこの砦を出発し、さらに東の『前哨宿営地』へ向かうことになっている……! そこでは、完全自動の宿営地維持術式が展開されるのだ。砦の魔導炉などに頼らずとも、王都の中枢から直接莫大な魔力を引き出し、我々のための完璧な城が築き上げられる!」


「完全自動の、宿営地維持術式……?」


「そうだ! 貴様がここでいくら偉ぶろうと無駄だ! 明日の宿営地展開の際には、この東部一帯のすべての魔力が、我々のために集められる約定になっているのだからな!」


 書記官の負け惜しみに聞こえる叫び。


 だが、俺の『現仕様閲覧』の視界は、彼が嘘をついていないことを無慈悲に証明していた。


 砦のネットワークのさらに奥。


 明日の早朝に実行されるようにスケジュール(予約)された、巨大な術式のフローチャート。


【予約プロセス:X-01-Camp(前哨宿営地・完全展開プロトコル)】


 その構造を少し覗き込んだだけで、俺の背筋に氷のような悪寒が走った。


 それは、単なるテントを張るための魔法などではない。


 荒野のど真ん中に、王都の高級ホテルを丸ごと一つ、土くれと莫大な魔力を使って強制的に錬成し、維持し続けるという、常軌を逸した浪費のバグだった。


 もしこんなものが最前線で起動すれば。


 今度こそ、東部方面のすべてのインフラ――結界、通信、物流のすべてが、完全に息の根を止められることになる。


「……冗談じゃないぞ」


 俺は薄暗くなった部屋を後にし、急ぎ足でダリル司令の元へと向かった。


 明日の朝までに、あの巨大なバグの塊を止める方法を見つけなければならない。


 戦場を無自覚に破壊する、快適さという名の怪物を。

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