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第27話 治療院に届かない薬

 装甲馬車が泥濘を抜け、なだらかな丘を越えた時、視界いっぱいに巨大な白い天幕の群れが飛び込んできた。


 東部方面軍・野戦治療院。


 王都から送られる医療物資の最終集積地であり、最前線の砦で負傷した兵士たちが運び込まれる、命の防波堤だ。


 だが、馬車を降りた俺を出迎えたのは、整然とした医療拠点などという生易しいものではなかった。


「痛い……痛い……! 足が、俺の足が……!」


「しっかりしろ! 傷口を押さえろ! 誰か、こっちに止血帯を持ってきてくれ!」


「駄目です、もう綺麗な布がありません! 傷薬の在庫も底を突きました!」


 吹き荒れる冷たい風の中、泥だらけの天幕の間を縫うようにして、簡易ベッドやむしろが所狭しと並べられている。


 そこには、魔物との戦闘で深い傷を負った兵士たちが無数に横たわり、うわ言のように苦痛の声を漏らしていた。


 血と膿、そして強烈な消毒薬の匂いが入り混じり、鼻の奥を容赦なく突き刺してくる。


 白衣を血で赤黒く染めた治療師たちが、血走った目で駆け回っているが、彼らの手には肝心の「薬」や「魔導具」が握られていなかった。


 ただ布で傷口を縛り、なけなしの自身の魔力を振り絞って治癒魔法をかけ続けている。だが、個人の魔力には限界がある。次々と運び込まれる重傷者に対して、医療の手は明らかに崩壊していた。


「……ひどいな」


 俺は周囲の惨状に息を呑みながら、治療院の中心にある一際大きな天幕へと歩みを進めた。


 そこが物資の管理所になっているはずだ。


 天幕に近づくと、中から怒声が響いてきた。


「ふざけるな! 在庫がゼロだと!? 今朝、第一中継基地から医療品の箱が十ケースも届いたはずだろうが!」


「で、ですがガロン院長! 帳簿上も、保管庫のシステム上も、一般兵向けに使用できる傷薬やポーションの在庫は『ゼロ』と表示されています! 箱は確かに届きましたが、我々には指一本触れることができないんです!」


 天幕の中に入ると、筋骨隆々で熊のような体格をした初老の男が、管理官らしき若い兵士の胸ぐらを掴み上げていた。


 彼がこの野戦治療院の責任者であるガロン院長だろう。その白衣は誰よりも血で汚れ、目には過労と怒りによる濃い隈が刻まれている。


「指一本触れられないとはどういうことだ! 外では今この瞬間にも、魔物の毒で腕を腐らせている若者が何人もいるんだぞ! 薬がそこにあるなら、結界を叩き割ってでも持ってこい!」


「そ、そんなことをすれば、王都の査問委員会にかけられて反逆罪で処刑されます! あの保管庫にかかっているのは、勇者様御一行のための『絶対優先・不可侵結界』なんですよ!」


 若い兵士の悲痛な叫びに、ガロン院長はギリッと歯を食いしばり、そのまま兵士を突き飛ばすように解放した。


 そして、頭を抱えて呻き声を上げる。


「ああ、くそっ……! またか。またあの忌まわしい結界のせいか……! 我々は、目の前で死んでいく味方を見殺しにして、いつ来るかもわからない勇者様のために薬の瓶を拝み続けろというのか!」


 彼の言葉に、俺は静かに天幕の中へ足を踏み入れた。


「……王都から来た、首席検査官のマナベ・シュウジです。ガロン院長ですね」


 俺が声をかけると、ガロン院長は血走った目をこちらに向けた。


 俺の左腕にある真紅の腕輪を見ると、その顔に明らかな嫌悪と怒りが浮かぶ。


「王都の検査官だと? なんの用だ。我々が規則を破って勇者様の薬を横領していないか、見張りにでも来たのか? 安心しろ、王都の偉いさんたちが組んだ立派な結界のおかげで、我々は自分の部下を救う薬一つ取り出せずにいるよ!」


 吐き捨てるように言うガロン院長に、俺は首を横に振った。


「横領の監査に来たわけじゃありません。その『立派な結界』という名のバグを叩き壊しに来たんです。案内してください、その保管庫へ」


 俺の言葉に、ガロン院長と若い兵士は呆気にとられたような顔をした。


「……バグ? 叩き壊すだと? あんた、自分が何を言っているのかわかっているのか。あれは王都の中枢システムから直接かけられているプロテクトだ。地方の検査官ごときが触れられる代物じゃないぞ」


「俺がその中枢システムから派遣されてきた人間だから、触れられるんです。一分一秒を争うんでしょう? 早く案内してください」


 俺が鋭く言うと、ガロン院長は数秒だけ俺の目を見つめ返し、やがて無言で背を向けて歩き出した。


 案内されたのは、治療院の最奥にある、分厚い石造りの保管庫だった。


 入り口には頑丈な鉄格子が嵌められ、さらにその上から、青白い魔力の光を放つ半透明の障壁(結界)がびっしりと張り巡らされている。


 鉄格子の隙間から中を覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。


 木箱が山のように積まれ、棚には上質な傷薬や、魔力回復用のポーション、解毒剤などが、それこそ腐るほど並べられているのだ。


 外の天幕で何百人もの兵士が薬不足で苦しんでいるというのに、この分厚い壁の内側には、彼ら全員を救って余りあるほどの医療資源が手付かずのまま眠っていた。


「……これが、現実です」


 ガロン院長が、鉄格子を強く殴りつけながら呻いた。


 結界がその衝撃を弾き返し、彼の拳から血が滲む。


「今朝、中継基地から届いた物資もすべてここへ吸い込まれました。中には一般兵向けの傷薬もあったはずですが、結界が入り口を塞いでいて取り出すことができません。システム上は、ここにあるすべての薬が『勇者様のための予約済み在庫』として扱われているからです」


 俺は鉄格子に近づき、青白い結界にそっと手を触れた。


 システムエンジニアの世界には、「在庫の排他制御ロック」という概念がある。


 例えば、通信販売のシステムで、ある客が商品をカートに入れた瞬間、その商品は「予約済み」となり、他の客からは「在庫切れ」として扱われる。


 同じ商品を複数の人間に売ってしまわないための、重要な仕組みだ。


 だが、この世界のシステムは、そのロックの掛け方が根本的に狂っている。


「……見せてもらおうか。どれだけ強欲な予約システムを組んでいるのかを」


 俺は意識を集中させ、左腕の腕輪を光らせた。


『――差分解析(現仕様閲覧)、実行』


 視界が反転し、現実の風景の上に、巨大な在庫管理のデータベース(表)と、それに紐づく条件式のフローチャートが浮かび上がった。


 俺は、目の前にある「上級ポーション」の在庫データを読み解いていく。


 物理的な実在庫数は「三百本」と表示されている。


 しかし、一般兵が引き出せる「利用可能在庫数」の欄は、見事に「ゼロ」だった。


 三百本の実在する薬は、一体誰に確保されているのか。


 俺は予約者アロケーションのタグ情報を展開し、その中身を見て、思わず乾いた笑いを漏らした。


【在庫引き当て状況:上級ポーション(実在庫300)】

 ・引当枠A(勇者本人用・緊急予備):100本(Absolute・絶対確保)

 ・引当枠B(勇者随行者用・緊急予備):100本(Absolute・絶対確保)

 ・引当枠C(勇者支援部隊用・戦略予備):100本(Absolute・絶対確保)

 ・引当枠D(一般兵用・通常在庫):0本


「……なんだ、これは。一つのアイテムに対して、三重にロックを掛けているのか」


「どうしたんですか、検査官殿。何が見えているんです」


 怪訝な顔をするガロン院長に、俺は視界のログを睨みつけたまま答えた。


「院長。外で兵士たちが死にかけているのに、薬が引き出せない理由がわかりましたよ。物理的な在庫が足りないんじゃない。システムが、同じ薬に対して『過剰な重複予約』をかけているんです」


「重複予約……? 勇者様一人に、これほどの薬が必要だというのか?」


「いいえ。勇者一人じゃありません。勇者、勇者の随行者、そして勇者を支援するかもしれない部隊。システムは『万が一、彼らが同時に大怪我をした場合』を想定して、それぞれの枠ごとに最大数の在庫を、あらかじめ確保ロックしているんです」


 それは、システム設計における最悪のアンチパターンだった。


 本来、緊急用の予備在庫というものは「共有のプール」として持ち、本当に必要な事態が起きた時に初めて割り当てるべきものだ。


 だが、この狂ったシステムは、「Aさんのために百個」「Bさんのために百個」「Cさんのために百個」と、起きるはずもない最悪の事態を想定して、すべての在庫を事前に固定で確保してしまっていた。


 その結果、三百本あるポーションはすべて「予約済み」となり、今まさに目の前で血を流している一般兵に回す分が「ゼロ」になっているのだ。


「馬鹿げている……! 勇者様はともかく、随行者や支援部隊のためにまで絶対確保の枠があるだと!? 彼らが全員同時に死にかける事態など、国が滅ぶ時ぐらいしかあり得ないだろうが!」


 ガロン院長が激昂して叫ぶ。


 その通りだ。これは「念には念を」という過剰な親切心が引き起こした、致命的なリソースの枯渇デッドロックである。


「安心してください、院長。こんな欠陥仕様、今すぐ直して見せます」


 俺は仮想コンソールに手を伸ばし、在庫管理のデータベースに直接介入した。


 システムが構築した「絶対確保(Absolute)」のハードロックをすべて解除する。


 そして、三つに分かれていた予約枠を撤廃し、一つの「共有プール(Shared)」へと統合。さらに、勇者関連のタグが要求を出した時だけ優先して割り当てる「動的引き当て(オンデマンド)」のロジックへと書き換えた。


【権限上書き:事前予約ロックを解除。利用可能在庫を再計算します】

【一般兵用・通常在庫:300本へと更新】


「……これでよし」


 俺が最後のコマンドを実行した瞬間。


 パキィィィィンッ!


 という甲高い音と共に、保管庫の入り口を塞いでいた青白い結界が、まるでガラスが割れるように粉々に砕け散った。


「なっ……結界が、消えた……!?」


 ガロン院長と若い兵士が、信じられないものを見るように目を丸くした。


「院長! ロックは外しました。ここにある三百本のポーションも、大量の傷薬も、今はすべて一般兵が使える『フリー在庫』です。すぐに運び出して、外の兵士たちに使ってやってください!」


 俺の言葉に、ガロン院長は一瞬だけ呆然としていたが、すぐに獣のような咆哮を上げた。


「……おい、聞いたか! 薬だ! 薬が使えるぞ! 手が空いている者は全員ここへ来い! 保管庫の物資を天幕へ運ぶんだ! 一人も死なせるな!」


「「「おおおおおっ!!」」」


 治療院中に響き渡る院長の声に、疲れ切っていた治療師や衛生兵たちが、どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの勢いで殺到してきた。


 彼らは鉄格子を開け放ち、棚からポーションの木箱を次々と担ぎ出しては、重傷者が待つ天幕へと駆け出していく。


「ポーションが入りました! すぐに傷口にかけます!」


「熱冷ましの薬もあるぞ! 感染症の疑いがある者に飲ませろ!」


 外から聞こえてくる声は、先ほどまでの絶望に満ちた悲鳴から、命を繋ぐ希望の叫びへと変わっていた。


 運び出されていく薬の箱を見送りながら、俺は深く息を吐き出した。


 これで、この治療院で今日失われるはずだった命の多くは救われただろう。


 だが、俺の心の中に渦巻く疑念は、結界を解いたことでさらに大きくなっていた。


「……助かりました、マナベ検査官殿」


 指示を出し終えたガロン院長が、俺の元へ戻ってきて深く頭を下げた。


 先ほどまでの敵意は完全に消え去り、そこには純粋な感謝と、俺の力に対する畏怖が入り混じっている。


「あんたの言う通りだった。我々は、システムが勝手に作り出した『幻の予約』のせいで、目の前の薬を使えずにいたんだな。……しかし、本当に狂っている。勇者様ならまだしも、ただの随行者にまで、最前線の兵士の命を差し置いて絶対確保の枠が用意されているなんて」


「……随行者。勇者のパーティーメンバーのことですよね。彼らはそんなに頻繁に怪我をするんですか?」


 俺の問いに、ガロン院長は複雑な表情で首を横に振った。


「いいえ。勇者様のパーティーには、国が誇る最高位の聖女様が同行しておられます。ちょっとした傷なら、彼女の奇跡ですぐに治ってしまう。……それに、随行者というのは、一緒に戦うメンバーだけではないのですよ」


「戦うメンバーだけではない?」


「ええ。勇者様のお世話をする専属の料理人、身の回りを取り仕切る侍従、遠征の記録を後世に残すための宮廷書記官……そういった『戦闘には一切参加しない王都の人間たち』も、随行者として大勢同行しているんです」


 俺は眉をひそめた。


「ちょっと待ってください。最前線の過酷な戦場に、料理人や書記官を連れて歩いているんですか? そしてシステムは、その非戦闘員の彼らのためにまで、一般兵の薬をゼロにして予備在庫をロックしていたと?」


「……その通りです。王都の連中からすれば、勇者様に関わる人間はすべて、我々泥まみれの兵士よりも『価値がある』のでしょう」


 ガロン院長の言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。


 第一中継基地で見た、異常な魔力を消費して荒野を進む「勇者用の自動荷車」。


 そして今ここで見た、異常な数の在庫を独占する「随行者用の予約枠」。


 これらはすべて、勇者本人というよりも、勇者の周囲に群がる「快適さ」を維持するために、システムが暴走している結果ではないのか。


 本来、戦場という極限状態において、快適さなど二の次であるはずだ。


 だが、この国のインフラは、勇者とその一行に「王都と同じ快適な生活」を提供するために、最前線の生存権を削り取ってリソースを吸い上げている。


「……過剰な親切心だと思っていたが、どうやら違うな」


 俺は、灰色の空の向こう――さらに東にある、最前線の砦の方向を睨みつけた。


 勇者システム(X-01)は、単なる優先権のバグじゃない。


 戦場という現実を無視して、無理やり「安全で快適な箱庭」を維持しようとする、極めて歪な生態系そのものだ。


「院長。俺はこれから、最前線の砦へ向かいます。勇者一行が今、どんな『現仕様』の中で活動しているのか、この目で直接確かめる必要がある」


 俺が告げると、ガロン院長は驚いたように目を見開き、やがて力強く頷いた。


「……わかりました。道中は危険ですが、あんたなら、あの狂った仕組みの根源を暴いてくれると信じます。どうか、我々前線の兵士たちを救ってください」


 院長と固い握手を交わし、俺は再び装甲馬車へと向かった。


 次なる目的地は、魔物との最前線であり、勇者一行が滞在しているという前線砦。


 そこで俺が見るものは、兵站のバグなど可愛く思えるほどの、決定的に壊れた「善意の箱庭」の姿だった。

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