第23話 現仕様、その国境へ
王宮行政局の秘密会議室で、王国システムの「現仕様」を黒板に描き出した翌日。
王都の中枢は、昨日までの狂騒が嘘のように、静かで規則正しい活気を取り戻していた。
行政フロアでは、天井まで届いていた勇者の自動報告書の山が消え去り、文官たちが本来の重要な決裁書類に落ち着いて目を通している。
通信局では、空っぽのまま占有されていた回線が解放され、緑色に輝く水晶が小気味よい電子音を鳴らしながら地方からのデータを受信し続けていた。
そして地下の魔導炉では、無人の迎賓館へ無駄に注がれていた熱と水が王都全体へ均等に分配され、下層区の住民たちに温かい生活を取り戻させている。
俺が当てた「流量制御」や「オンデマンド供給」のパッチは、今のところ完璧に機能していた。
俺は、中央転送室に併設された静かな通信ブースの中から、その光景を満足げに眺めていた。
『――というわけで、昨夜のうちに王宮の全インフラに応急処置のパッチを当てた。勇者のポイ捨てした武具が回線を占有することはもうないし、無駄なエネルギー供給も止めた。行政の承認プロセスも自動で流れるようになっている』
「ははっ、本当にたった数日でやってのけたのですね」
通信水晶の向こう側で、ルミナス代官補佐のセルアスが、呆れたような、しかし深い安堵の混じった笑い声を上げた。
水晶に映る彼の顔からは、ここ数日の死にそうな疲労の色が抜け落ちている。
「王都の各部署の長を説き伏せ、王国の物流、通信、装備、行政、都市の魔導基盤までを手術してのけるとは……。ルミナスの代官様も、あなたの送ってきた報告書を見て目を丸くしておいででしたよ」
『俺一人でやったわけじゃない。王都の各部署の責任者たちが、現状の不具合を素直に認めて、俺にサーバーの操作権限を貸してくれたおかげだ。現場を預かる人間の根っこの部分は、王都もルミナスも大して変わらなかったということさ』
俺は通信ブースの窓越しに、外のフロアを見た。
そこでは、物流部門の輸送管理官・グレアムと通信局長のバーナードが、一枚の羊皮紙を挟んで真剣な顔で話し合っている。
昨日まで「うちの部署は正常だ、そっちが悪い」と責任を押し付け合っていた彼らは、俺が全体図を示したことで、ようやく「横の繋がり」を意識し始めた。互いのシステムのタイミングを合わせるための、前向きな調整を行っているのだろう。
『ともかく、これでルミナス向けの冬備蓄は、昨夜のうちに全量そっちへ向けて再転送されたはずだ。消えていた暖房用の魔石もな。バルト親父の機嫌はどうだ?』
「ええ、それはもう。今朝方、山のような魔石と毛布がゲートから吐き出されてきた時の親父殿の顔、あなたにも見せてあげたかったですよ。泣き叫ばんばかりの歓喜の声で、若い兵士たちを怒鳴り散らしながら荷受けの指揮を執っています」
セルアスの背後から、遠く「急げ! 貧民区への配給が先だ!」というバルトの野太い声が微かに聞こえてきた。
どうやら、街の凍死の危機は完全に去ったらしい。
『そうか。そっちのインフラが正常に回っているなら、俺も安心だ。……それで、セルアスさん』
俺は声のトーンを一段階下げ、水晶の向こうの彼を真っ直ぐに見据えた。
彼の手元には、俺が昨夜送った『勇者支援システム(X-01)の設計不良』に関する詳細なレポートが置かれているはずだ。
「……ええ。報告書、読ませていただきました」
セルアスの表情も、公人としての厳しいものに変わる。
「この王国のシステムが、勇者様を最優先するあまり、自らを食い殺す怪物になっているという事実。そしてそれを止めるには、魔力が集中している東部国境の最前線へ赴き、決定的な証拠を集める必要があるということも」
『そういうことだ。だから、悪いがルミナスへの帰還は延期させてもらう。「首席検査官」の出張期間を、もうしばらく延長してくれないか』
俺の申し出に、セルアスは小さく息を吐いた。
「……出張の延長は構いません。あなたが王都のシステムを動かしてくれたおかげで、ルミナスの行政業務も劇的に軽くなりましたからね。ですが……東部国境は、王都やルミナスのような安全な場所ではありません。文字通り、魔物との戦争状態にある最前線です」
セルアスは眼鏡の位置を直し、心配そうに俺を見た。
「戦闘能力を持たないあなたが赴くには、あまりにも危険すぎる。いかに首席検査官とはいえ、命を落としてしまえば意味がないのですよ」
彼の懸念はもっともだ。
俺の『差分解析』は、システムのバグを見抜くことはできても、オークの棍棒を弾き返すような物理的な防御力はない。システム外の純粋な暴力に対しては、ただの無力な現代人でしかないのだ。
『分かっている。無理して魔物と正面から戦う気はないさ。俺の仕事はあくまで「魔導インフラの監査」だ。現場の兵站や通信基地のサーバーを洗って、勇者の特権がどれだけ陣地のシステムを圧迫しているか、その裏付けを取るだけだ。危なくなったらすぐに逃げる』
「……くれぐれも、ご無事で。あなたが欠ければ、またルミナスが不具合だらけに戻ってしまいますからね」
『シュウジさーん!』
不意に、通信水晶の向こうから、元気な声が割り込んできた。
セルアスの背後からひょっこりと顔を出したのは、冒険者ギルドの受付主任であるリゼットだった。どうやらギルドの報告書を代官所に届けに来ていたらしい。
『冬備蓄、本当にありがとうございました! ギルドの冒険者たちも、配給の毛布と魔石をもらって大喜びしてます! ……国境へ行かれると聞きました。どうか、無茶だけはしないでくださいね。ルミナスに帰ってきたら、一番美味しいお店のシチューを私のおごりで振る舞いますから!』
「ああ、楽しみにしてるよ」
俺は自然と笑みをこぼし、通信水晶の接続を切った。
辺境の街で俺の価値を一番最初に認めてくれた彼女たちの声は、何よりも確かな前へ進む理由になる。
通信ブースを出て、塔の正面玄関へと向かうと、そこにはすでに一台の堅牢な馬車が用意されていた。
王都で見かける貴族の華美な馬車ではない。分厚い鉄板と魔導装甲で覆われた、国境の最前線へ向かうための軍用装甲馬車だ。
「真鍋殿。出発の準備は整っているぞ」
馬車の前で待っていたのは、武具管理室長のジャイルズと、行政局長のロイドだった。
彼らは徹夜明けのひどい顔をしているが、その瞳には奇妙なほどの強い光が宿っていた。
「ジャイルズさん、ロイドさん。わざわざ見送りに?」
「当然だ。王都を、そしてこの国を救ってくれた恩人を、黙って送り出すわけにはいかないからな」
ジャイルズがそう言って、重厚な革袋を俺に手渡した。
中には、護身用の魔導具や、淡く発光する高品質な回復ポーションがいくつも入っている。
「我々武具管理室の予備庫から出せる、最上級の護身具だ。真鍋殿は戦えないと言っていたが、これを持っていれば、いざという時に数回の致命的な攻撃は自動で防いでくれる」
「ありがとうございます。遠慮なくもらっておきますよ。……それにしても、随分と気合が入っていますね」
俺が二人の顔を交互に見ると、ロイドが一枚の分厚い羊皮紙を差し出した。
そこには、王室の紋章と共に、いくつもの光り輝く魔導印が押されている。物流、通信、装備、行政……昨日俺が救った、四つの局の印だ。
「これは、我々四人の局長クラスの連名による『特命全権監査状』だ」
「特命全権……?」
「ルミナスの代官が発行した地方の監査状では、国境の軍部や最前線の砦には立ち入れないだろうからな。この王都の印を見せれば、王国のどの施設だろうと、最高レベルのセキュリティを突破してシステムの深部にアクセスできるはずだ」
ロイドは、疲労の抜けない顔に、確かな決意の笑みを浮かべていた。
だが、四つの局長印が並んでいるということは、彼らが自身の進退を懸けて俺の行動を保証しているということだ。
「……いいんですか? 俺が国境で大暴れしたら、ハンコを押したあんたたちの首が飛びますよ」
「構わんさ」
ジャイルズが鼻を鳴らした。
「真鍋殿。国境のシステム監査は、あなたに任せる。我々は、この王都で『賢者会議』の連中を抑え込む」
「抑え込む?」
「あなたが昨夜パッチを当てた仕様変更について、すでに今朝方、賢者たちから『勇者様への支援を渋るとは何事か。すぐに元の仕様に戻せ』と横槍が入り始めている。だが、ダッシュボードの表面しか見ない彼らに、あの現場の地獄は分からない」
ロイドが忌々しそうに吐き捨てた。
王宮の賢者たちは、自分たちが組んだ「勇者最優先のシステム」が絶対に正しいと信じている。現場の悲鳴など、システム上の小さな誤差程度にしか思っていないのだ。
「……我々は四人で結束し、システムのエラーを理由に徹底的に時間稼ぎをする。我々が盾となり、あなたが最前線で『決定的な証拠』を見つけるまで、絶対に元の狂った仕様には戻させない」
ジャイルズの言葉には、元近衛騎士としての並々ならぬ覚悟がこもっていた。
それは、ただの建前で動いていた彼らが、初めて「現場」のために見せた反逆の意思だった。
俺が直したシステムを、彼らが自らの地位を懸けて守る。
そして俺は、さらなる根本のバグを叩くために前へ進む。
完璧な役割分担だ。
「心強いですよ。王都のことは、お二人に任せました」
俺は二人に短く頭を下げ、装甲馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を鳴らし、馬車がゆっくりと王宮の敷地を出発する。
窓から振り返ると、ジャイルズとロイドが、馬車が見えなくなるまで直立不動でこちらを見送ってくれていた。
王都の巨大な防壁を抜け、馬車は東へと続く主要街道をひた走る。
数時間も進むと、景色は劇的に変わり始めた。
王都の中央部を覆っていた「異常な春の暖かさ」は嘘のように消え去り、本来の厳しい冬の冷気が馬車の装甲の隙間から入り込んでくる。
魔力による温風器などあるはずもなく、街道沿いの木々は完全に葉を落とし、冷たい雪が平原を白く染め上げていた。
「寒いな……」
俺はジャイルズからもらった毛布に包まりながら、窓枠に肘をついて外を眺めた。
王都の春と、地方の冬。
その残酷なまでの貧富と魔力の差が、こうして物理的に移動してみると嫌というほど実感できる。
王都の人間たちは、自分たちの足元が地方の犠牲の上に成り立っていることなど、微塵も気にせずに笑い合っているのだ。
「お客さん、王都の出かい? こっから先はもっと冷えるぜ。それに、最近は東の空がどうにも気味が悪くてね」
分厚い防寒具を着込んだ御者が、小窓越しに声をかけてきた。
彼の言う通り、窓の向こうに広がる東部の山脈の上には、黒々とした雲が異様な形で渦巻いていた。
「……あれが、最前線の空か」
ただの雨雲や雪雲ではない。
俺の『差分解析』を使わなくとも、肉眼で辛うじて視認できるほどの異常な魔力の乱気流だ。
王都の方向から、そして王国の各地から、無数の細い光の糸が束になり、太い川のようにあの黒雲の下へ向かって吸い込まれている。
あれが、勇者一行に注ぎ込まれている王国中のリソースの可視化された姿だ。
物流を止め、回線を埋め、熱を奪い、書類をパンクさせてまで、「彼らだけを最高状態に保つ」ために送られている、歪で強大な力の束。
異世界に召喚された、俺と同じ現代日本の若者たち。
彼らはきっと、自分たちが「神聖な勇者」として世界を救っていると信じて疑わないだろう。
自分たちが少し刃がこぼれた剣を捨てるたびに、自分たちが温かいお茶を飲むたびに、その後ろで数万の人間がシステムのエラーに苦しみ、凍えていることなど、想像もしていないはずだ。
「別に、彼らを恨むつもりはないさ」
俺は揺れる車内で、独りごちた。
悪いのはユーザー(勇者)ではないのだ。
何も教えずに無限の権限を与え、現場の限界を無視した設計を組んだ王宮の側――建前ばかりを重んじる賢者たちにこそ、最大の罪がある。
だから俺は、デバッガーとしてその設計不良を正す。
王宮の会議室で絵空事を並べるつもりはない。
建前で飾られた王都のシステムを暴き、現場の悲鳴を形にしてきた。
今度は、魔物とシステムが入り乱れる最も過酷な現場で、この世界の「正義の仕組み」がいかに破綻しているかを、物理的な証拠と共に突きつけてやる。
「待ってろよ、勇者さんたち。あんたらの『無敵の現仕様』……丸裸にして、書き換えてやる」
東の空で、一筋の雷光が走った。
馬車の車輪が雪を噛む音が、やがて来る嵐を予感させるように重く響く。
王都でのデバッグ作業は、これでひと段落だ。
次なる舞台は、建前すら通用しない、魔物と致命的なエラーが交差する最前線。
王国最大のバグに挑む、俺の本当の仕事が始まろうとしていた。




