第110話 誰も最後の一点にしない
最後の一点を剥がした、その翌朝だった。
修司は、いつもより早く記録室へ入って、まず盤を開いた。確かめたいことが、一つあった。
〔代替接続:充足〕。
束は、夜のあいだも、一点を掴んだままだった。地方炉の勝手な息が、あちこちで揺れているのは、筋を見れば分かる。だが、その山は、もうそろって来ない。位相をずらした拍が、互いの盛り上がりを、静かに削り合っている。棚は、揺らぎを呑みきっていた。
保守主任が、深層から上がってきて、控えを卓に置いた。
「北の系統、朝の立ち上がり、揺れませんでした」
その声には、まだ、信じきれない響きがあった。
「昨日までは、朝方になると必ずぐらついた系統です。今朝は、なんとも、なかった。当番も、手動点検の項目が、丸ごと自動で通るのを見て、拍子抜けしていました」
「人の手が、要らなくなったか」
「要らなくなりました。……ずっと、汗をかいて潰していた項目です。それが、束が一点を掴んでいるあいだは、勝手に通る」
修司は、盤の〔充足〕の二文字を、しばらく見ていた。剥がした実感は、昨日も、今朝も、まるでなかった。ただ、北の朝が揺れなかった、というその一つだけが、確かな手応えだった。
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だが、修司は、盤を閉じなかった。
最後の一点は、埋まった。人でなく、束で。自分の名前も、そこから外れた。それでも、盤の奥に、まだ片づいていない一手順が、静かに動いている。
炉が、召喚のたびに、取り込んだ魂IDの書式を、深層保守の書式と黙って照らし合わせる。合えば、予備の一点として、自動で拾い上げる。修司を拾ったのも、この一手順だった。
「これを、止める」
修司は、盤に、新しい票を起こした。
「俺一人が外れて、めでたし、じゃない。この仕組みが動いてる限り、次に召喚された誰かが、また、勝手に拾われる。書式が合うってだけで、本人の知らないうちに、最後の一点の予備にされる。……昨日の俺と、同じことが、繰り返される」
「次の修司を、作らない、ということですね」
監査状を束ねてきたセルアスが、票を横から検めた。
「はい。件名、召喚時における予備接続候補の自動選定、その恒久停止。区分、恒久対応。……一人を外す票じゃない。二度と、誰も拾わせないための票だ」
セルアスは、票の文面を、しばらく読んでいた。それから、めずらしく、静かに頷いた。
「あなたらしい。自分を外して終わりにせず、自分と同じ目に遭う者を、先に消しにいく」
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票は、その日のうちに、賢者会議へ回された。
止めていいのか、という問いが、真っ先に出ると、修司は思っていた。あの一手順は、いざというときに、人で一点を塞ぐための、最後の備えでもある。それを消すのは、備えそのものを捨てることだ。世界が保たない、と最も強く恐れてきたのは、賢者会議の、あの老人だった。
ガレオン。会議でいちばん長く炉を見てきた、白髪の老賢者だ。かつては、召喚の停止にも、最後の一点を人で塞がないことにも、根拠のある恐れから、真っ向から反対していた男だった。
その老人が、票を前にして、長いこと黙っていた。
「わしは、ずっと、恐れておった」
やがて、低い声が、会議の間に落ちた。
「召喚を止めれば、世界が保たぬ。最後の一点を人で塞がねば、いつか炉が落ちる。……その恐れは、偽りではなかった。現に、お前が外れた一瞬、炉は谷に沈んだ。あと半歩、支えが足りねば、北の暮らしは落ちておった。わしの恐れは、本物だった」
「否定しません」
修司は、静かに返した。
「炉は、落ちかけました。谷は、本物でした。あなたの恐れが、間違ってたとは、俺も思いません」
「だが」
ガレオンは、皺の深い手を、票の上に置いた。
「わしが間違っておったのは、恐れの中身ではない。恐れの、その先だ。世界を保たせるには、人を一人、最後の一点に据えるほかない――そう、思い込んでおった。人で塞ぐ以外に、道はない、と。……お前は、世界を保たせたまま、人を一人も、最後の一点にせなんだ。わしが間違っておったのは、そこだ。塞ぎ方を、一つしか、知らなかった」
老人は、票の末尾に、ゆっくりと署名した。
「この仕組みを、止めてよい。次の誰かを拾う備えは、もう、要らぬ。備えのために一人を宙吊りにするより、人なしで谷を渡る図を、皆で握っておくほうが、よほど確かだ」
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ガレオンの隣で、ヴェイドも、票へ手を伸ばした。
ヴェイドは、署名する前に、一度だけ、修司を見た。
「わしは、昔、一点を、一人で塞いだ。合う者を、拾って、繋いだ。……この一手順が、あの日、わしの手の中にもあったなら、わしは、迷わず使っておっただろう。合うから拾う。それが、いちばん楽だからな」
「使わずに、済む国にします」
修司は言った。
「合う者がいても、拾わない。拾う仕組みそのものを、消す。あんたが、あの日、一人を拾わずに済む道が欲しかったなら、……この署名が、その道です」
ヴェイドは、しばらく筆を止めていた。それから、ガレオンの名の隣に、自分の名を書き添えた。長く胸に沈めてきたものへ、静かに、蓋をするような手つきだった。
「これで、わしと同じ思いを、誰もせずに済む。……欲しかったのは、この一枚だ」
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署名がそろって、恒久停止の手続きは、成立した。
修司は、その足で、召喚者たちの現在地を、もう一度、リアノンと並べて確かめた。誰も、燃料に戻されていない。誰も、最後の一点にされていない。それを、記録の上で、はっきりさせておきたかった。
「ユウトは、帰還済み。いちばん最初に、帰りました」
リアノンが、写しを一枚ずつ、めくっていく。
「アニカは、帰還の手続きが、通りました。ユウトに続いて、二人目です。……サナは、残ることを選んで、いまは配分の棚を数えています。昨日の谷を渡す数字も、あの娘が現場から運んできたものでした」
「レオは」
「保留のままです。再確認の条件つきで、据え置き。急かしていません。あの人のペースで、いつでも」
「カズヤは」
「炉から、完全に自由です。もう、どこにも繋がっていません」
修司は、その一覧を、上から下まで、目でたどった。かつて、この国の炉を、人として支えさせられていた者たち。その全員が、いまは、燃料でも、最後の一点でもない。帰る者は帰り、残る者は運用の側に立ち、保留の者は自分の時を待っている。
「……誰も、燃えてないな」
「燃えて、いません」
リアノンは、写しを閉じた。
「あなたが、いちばん最初に言った通りに。誰も燃料にしない国が、いま、記録の上でも、成立しています」
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その日の夕刻、セルアスが、一枚の書状を、修司の前に置いた。
王宮上層からのものだった。修司を、王国の中枢へ迎えたい、という打診だった。最後の一点を人なしで塞ぎ、炉を自立させた功。その働きに、相応の席を、という文面だ。
「受けますか」
セルアスの声は、いつもの、突く硬さがなかった。
「あなたが望めば、席は、用意されます。あなたは、王国を、根の一点から作り変えた。中枢に座る資格は、十分にある」
「座らない」
修司は、書状を、卓に戻した。迷いは、なかった。
「中枢に座ったら、俺は、現場が見えなくなる。北の朝が揺れたかどうか、当番が汗をかいてるかどうか、地方が半歩を出せてるかどうか。……そういうのは、席の上からじゃ、読めない。俺の力は、動いてる仕組みを、その場で見るためのものだ。動いてる場所から離れたら、ただの、肩書きになる」
「では、これまで通り」
「これまで通りだ。現場を、横に渡り歩く。困りごとを、一つずつ拾う。それでいい」
セルアスは、少しだけ、目元をゆるめた。
「あなたなら、そう言うと思っていました。……ただ、一つだけ、席とは別に、残るものがあります」
監査状を束ねる男は、恒久停止の票を、指で押さえた。
「この、二度と誰も最後の一点にしない仕組み。その設計者として、あなたの名は、記録に残ります。中枢の席は断っても、これは、消せません。あなたが望もうと望むまいと、後の世が、この一手順を止めた者として、あなたを引きます」
修司は、その票を、しばらく見ていた。名を残したくて、やったわけではなかった。ただ、次の修司を作りたくなかった。それだけだ。だが、残るというなら、残ればいい。派手な功績としてではなく、誰も拾わせないための、地味な手続きの一枚として。
「……それくらいなら、いい」
修司は、短く言った。
「炉の依存を剥がした英雄、なんて名じゃなくて。拾う仕組みを、一つ止めた奴、で残るなら。それなら、据わりが悪くない」
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恒久停止が成立した盤を、修司は、最後にもう一度、開いた。
炉は、束で塞がっている。召喚時に書式適合者を拾う一手順は、止まった。次の誰かが、勝手に最後の一点にされることは、もう、ない。剥がしきった、と言っていい形が、盤の上に、ようやくそろっていた。
だが、盤には、まだ一つ、片づいていない欄が、残っていた。
〔修司・魂ID:標準召喚者〕。その下に、もう一行。
〔帰還可否:要再判定〕。
修司は、その一行を、指の腹で、そっとなぞった。
国の依存は、剥がした。次の修司を作らない仕組みも、作った。誰も燃料にしない国は、もう、回り始めている。片づいていないのは、もう、この一行だけだった。修司自身が、帰るのか、残るのか。
最後の一点から外れて、修司は初めて、それを、自分で選べる立場に立っていた。ずっと、選ぶ資格すら、炉に握られていた。それが、今日、完全に、自分の手に戻ってきた。
「……これだけ、だな」
修司は、低く、独りごちた。
リゼットが、盤の隣から、その一行を覗き込んだ。
「修司さん。国の依存は、全部、剥がしました。……あとは、修司さんご自身の一行、だけですね」
「ああ。国の分は、片づいた。残ってるのは、俺が、どこにいるか、だけだ」
「急がなくて、いいと思います」
リゼットは、静かに言った。
「他の召喚者には、みんな、待ちました。レオさんにも、サナさんにも、その人のペースで、と。……修司さんも、線を引かれる側の、ただの一人です。ご自分の一行くらい、ゆっくり、選んでください」
修司は、その言葉に、少しだけ間を置いた。線を引かれる側に、自分を数えるのは、もう、それほど据わりが悪くなかった。
盤の上で、〔帰還可否:要再判定〕の一行が、静かに灯っている。最後の依存を剥がした国は、誰の犠牲もなく、明日を回しはじめていた。残るのは、その国のどこに、修司自身が立つのか――ただ、その一つだけだった。




