第109話 剥がす
刻限は、朝いちばんの、いちばん静かな時刻に置かれた。
北の水と暖が、一日でもっとも細くなる前。人の暮らしがまだ動きださない、その隙間を狙って、修司は盤の前に立った。前夜のうちに、国じゅうの持ち場へ、合図の順は配られている。あとは、その一つ一つが、同じ一秒に、半歩ずつを出せるかどうかだった。
卓には、昨日の図が、そのまま広げてある。横に伸びる炉の出力の線と、まんなかで落ち込む谷。谷の下には、赤い切り戻しの線が、命綱のように引かれている。修司は、その図を一度だけ確かめて、盤へ目を戻した。
〔削除可否:不可〕。
ずっと保存してきた一行が、いつものように灯っている。
「配置、確かめる」
修司は、前置きなしに切り出した。谷を渡るのは、修司一人ではない。その一秒に、いくつもの手が同時に動く。一つでも遅れれば、谷は割れる。
「緩衝の束と、切り戻し。マルファス」
「握っています」
温度のない声が、盤の脇から返った。試算盤は、もう弾き終えて、指は栓に添えられている。
「書式の書き換え、リアノン」
「〔分離可〕、いつでも」
「炉の息、主任」
「見張っています。谷の深さは、刻々、声に出します」
セルアスが、各部署の同時行動の承認を、一枚の合図に束ねて握っていた。地方炉の位相をずらす部署、備蓄の栓を開ける部署、負荷を落とす部署。ふだんは別々の承認で動くものが、この一秒だけ、一つの合図で動く。
「王国じゅうが、生まれて初めて、同じ一秒に息を合わせます」
セルアスの声は、いつもの硬さがなかった。
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リゼットが、現場への連絡の順を、指でなぞって確かめた。地方の代表へ、賢者会議へ、軍務へ。修司が外れる一瞬に、みんなが半歩を出せるように。
「修司さんお一人が、外れるのではありません」
リゼットは、盤の前の修司を、まっすぐに見た。
「国じゅうで、お一人を、外すんです」
その言い方に、修司は少しだけ手を止めた。線を引かれる側に自分を数えるのは、まだ据わりが悪かった。だが、悪くはなかった。据わりの悪さは、この工程が、これまで召喚者にやってきたことと同じ丁寧さで、自分を扱っている証だった。
卓の隅に、カズヤが立っていた。先に炉から自由になった身で、今日は手を出す持ち場を持たない。ただ、見届けるために来ていた。
「マナベさん」
カズヤは、それだけ言って、あとの言葉を呑んだ。かけるべき言葉が、うまく見つからないらしかった。修司は、軽く顎をしゃくって返した。
「あんたのときと、同じだ。一段ずつ、代わりを当てて、痛くないように外す。特別扱いはしない」
「……はい」
カズヤは、ばつの悪そうな、それでもどこか誇らしげな顔で、一歩下がった。
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ヴェイドが、卓の向かいで、組んだ手の上に顎を載せていた。谷を渡る配置図を、老いた目が、端から端まで辿っている。谷の底に、背負う一人が、いない図。かつて欲しかった、と言った一枚だ。
「刻限だ」
修司は、盤に手をかけた。
「始める」
セルアスが、束ねた合図を、一つ、落とした。
国じゅうの持ち場が、いっせいに動きはじめた。
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地方炉群が、位相をずらした束を、緩衝の棚へ押し出す。備蓄の栓が、いくつも同時に開く。夜間に浮かせた負荷削減のぶんが、谷底へ向けて寄せられていく。ふだんは別々に回しているものが、この一瞬だけ、一点の落ち込みへ、みんなの半歩で集まっていった。
「棚、満ちました」
主任の声が、掠れた。
「緩衝の束、一点の手前まで。……いつでも、差し込めます」
「差し込め」
マルファスが、栓を開いた。
棚に溜めた束が、最後の一点へ向けて、そっと伸びていく。人でない、寄せ集めの綱が、修司の代わりに、一点を掴もうとしていた。
「リアノン」
「書き換えます」
リアノンの筆が、盤の一行の上を、静かに走った。
〔削除可否:不可〕。
その四文字が、一字ずつ、書き換わっていく。〔分離可〕。ずっと頑なだった一行が、修司自身の同意と、束の差し込みを受けて、ようやく、外していい相手の書式に変わった。
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修司の魂IDが、最後の一点から、一段ずつ、外れはじめた。
カズヤのときと同じ手つきだった。一気に引き抜くのではない。深い接続を、一段ずつ、代わりの束に持たせて、そのたびに炉が荒れないのを確かめて、また次の一段へ。修司は、自分の登録が、外側へ、外側へと、静かにほどけていくのを、盤の上に読んでいた。
最後の一段が、抜けた。
その瞬間、盤の出力の線が、がくんと落ちた。
谷だった。
「谷、来ました」
主任が叫んだ。
「深さ――閾値に、近づきます。北の水と暖、揺れます」
修司が外れた。だが、束は、まだ一点を掴みきっていない。緩衝が一点を掴むまでの、ほんの数十秒。炉の密度が、いちばん深く沈む、その底が、いま来ていた。
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繋いだままにすれば、この谷は、そもそも生まれなかった。その囁きは、最後の最後まで、消えなかった。だが、修司はもう、盤の外にいた。谷を埋める一点として、自分を差し出すことは、もうできない。谷は、人でなく、みんなの半歩で、渡らなければならなかった。
「総動員、今だ」
修司の声が、落ちた。
国じゅうの半歩が、いっせいに、谷底へ流れ込んだ。地方炉が出力を底上げする。備蓄が、惜しみなく吐き出される。夜間の削減枠が、まるごと谷へ向けられる。一人で埋めていた一点を、いま、国じゅうが、ほんの数十秒だけ、みんなで底上げして、支えていた。
図の谷が、寄せ集めのぶんだけ、少しずつ浅くなっていく。
閾値の線。北の水と暖が落ちる、その一本。
谷底が、その線に、触れそうになった。触れて――割り込まずに、寸前で、止まった。
「保ってる……!」
主任の声が、震えた。
谷は、割れなかった。国じゅうの半歩が、ぎりぎりで、底を支えていた。北の水と暖は、細い綱の上で、それでも落ちなかった。
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その、支えられた数十秒のあいだに。
伸びていた束が、最後の一点を、掴んだ。
盤の上で、〔代替接続:受理〕と灯っていた一行が、静かに書き換わった。
〔代替接続:充足〕。
人でない束が、最後の一点を、初めて満たした。修司の代わりに、寄せ集めの綱が、炉の深層保守の一点を、掴みきっていた。
落ちていた出力の線が、束に押し上げられて、谷の底から、ゆっくりと上がってくる。閾値を越え、いつもの高さへ戻っていく。総動員した半歩が、役目を終えて、一つずつ、元の持ち場へ帰っていった。
「谷を、渡りきりました」
マルファスが、栓から手を離した。
「切り戻しは、要りませんでした。あなたは、戻さずに済んだ。……炉は、人なしで、塞がっています」
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修司は、盤の上の、自分の欄を見た。
〔保守補助:応答可〕。ずっと灯っていた、その一行が、消えていた。〔削除可否:不可〕も、〔本人同意:未取得〕も、もう、どこにもない。
最後の一点から、修司の名前が、外れていた。
痛みは、感じなかった。カズヤのときと、同じだった。気づかないまま繋がれていたものが、気づかないまま、外れていた。修司は、しばらく自分の手を見下ろして、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「軽く、なった気もしないな」
「それで、いいんです」
リゼットが、静かに笑った。
「痛みで気づくような外し方は、しなかった。……修司さんが、他の召喚者にしてきたことと、同じです」
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マルファスが、盤の〔充足〕の二文字を見ながら、いつもの温度のない声で言った。
「面白くない成功ですね」
「なんでだ」
「誰も倒れず、誰も締められず、ただ、一行が書き換わっただけだ。派手な演説も、劇的な犠牲も、ない。谷を渡って、束が一点を掴んで、それで終わり。……物語にするには、地味すぎる」
「いちばんいい成功だ」
修司は、迷わなかった。
「誰も燃えてない。誰も、すり減ってない。谷を、一人に背負わせなかった。地味でいい。地味なほど、いい。派手な締め方ってのは、たいてい、誰か一人を燃料にした跡だ」
マルファスは、しばらく黙ってから、また試算盤を、指で一度だけ弾いた。否定は、しなかった。
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卓の向かいで、ヴェイドが、目を閉じていた。
老いた指が、渡りきった谷の図を、もう一度、端から端まで辿っている。地方炉。備蓄。負荷削減。切り戻しの命綱。谷の底に、置き去りにされた一人が、いない図。
「わしは、昔、一点を、一人で塞いだ」
乾いた声が、静かな部屋に落ちた。
「その者は、谷を、一人で背負った。渡りきる前に、落ちた。……お前は、外れる一人を、皆で支えた。谷の底に、誰も、置き去りにせなんだ」
ヴェイドは、ゆっくりと目を開けた。皺の深い目が、わずかに、濡れているように見えた。
「誰も、失わずに済んだ。……わしが、あの日、欲しかったのは、この一日だ」
「あんたの記録が、あったからだ」
修司は言った。
「束で塞ごうとした、古い試作痕。あんたが間に合わなかった、あの一枚。あれが残ってたから、俺は、束で谷を渡る道を、探せた。あんたの失敗が、今日の、いちばん要る手がかりだった」
ヴェイドは、すぐには言葉を返さなかった。失敗として、長く胸に沈めてきたものが、別の者の手で、誰も失わない一日に変わっていた。老賢者は、一度だけ、深く頷いた。
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修司は、最後に、盤の自分の欄を、もう一度開いた。
削除可否:不可。分類外。宙ぶらりんだった一行は、もう、どこにもない。かわりに、そこには、見慣れない、けれど、ごく当たり前の一行が並んでいた。
〔修司・魂ID:標準召喚者〕。
その下に、もう一行。
〔帰還可否:要再判定〕。
修司は、その二行を、長いこと見つめた。
最後の一点から外れて、修司の魂IDは、初めて、ただの一人の召喚者として並んでいた。分類外でも、削除不可でもない。ユウトや、アニカや、サナや、カズヤと、同じ列だ。線を引かれる側の、ただの一人として。
そして、〔帰還可否:要再判定〕。
最後の依存を剥がした今、修司は初めて、自分が帰るか残るかを、自分で選べる立場に立っていた。ずっと、選ぶ資格すら、宙に浮いていた。炉に繋がれている限り、帰るも残るも、修司の意思の外にあった。それが、今日、外れた。
「……要再判定、か」
修司は、その一行を、指の腹で、そっとなぞった。
まだ、選んでいない。選べる、というだけだ。だが、選べる、というだけで、これまでとは、まるで違った。
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盤を閉じようとして、修司は、ふと手を止めた。
最後の一点は、埋まった。人でなく、束で。修司の名前は、そこから外れた。だが、盤には、もう一つ、片づいていない欄が、静かに灯っていた。
炉が、召喚のたびに、書式適合者を自動で拾い上げる、あの古い一手順。
修司一人を外しても、あの手順が動いている限り、次に召喚された誰かが、また、最後の一点の予備に、勝手に拾われる。修司が外れて終わり、では、次の修司を、作り続けることになる。
「主任」
修司は、盤の、その一手順を指した。
「炉が、召喚のついでに、予備の一点を拾う。この仕組みそのものを、止める手続きを、明日、起票する。俺一人が外れて、めでたし、じゃない。二度と、誰も、最後の一点にしない。……そこまでやって、ようやく、剥がしきったと言える」
主任は、その一手順を見て、静かに頷いた。
修司は、盤を閉じた。最後の一点は、もう、人のいない束が掴んでいる。修司の名前は、そこにない。だが、盤の奥には、まだ、次の修司を拾いかねない、古い手順が、一つ、残っている。
最後の依存は、剥がれた。あとは、その依存を、二度と誰にも背負わせない仕組みへ、国そのものを、書き換えるだけだった。




