表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
仕様書のない異世界で、俺だけが“現仕様”を見抜ける  作者: 結城ログ
第9章:現仕様、最後の依存を剥がす編(最終章)
PR
108/111

第108話 谷を渡す

 同意を埋めた翌朝、卓の上には、一枚の図が広げられていた。


 横に伸びる一本の線が、炉の出力を表している。その線が、まんなかで一度、深く落ち込んでいた。谷だ。修司の魂IDが最後の一点から外れる、その一瞬に生まれる、出力の窪み。


 修司は、その谷底を、しばらく見ていた。


「思ってたより、深いな」


「深いです」


 試算盤を弾いていたマルファスが、温度のない声で応じた。


「カズヤ殿のときは、抜けるぶんが小さかった。抜けた穴を、代替がすぐに追いつけた。ですがあなたの一点は、炉の深層保守そのものだ。抜けた瞬間の落ち込みが、桁で違う。緩衝の束が一点を掴むまでの、この数十秒――ここが、いちばん危ない」


 図の谷底に、細い線で、生活系統の閾値が引かれている。谷が、その線を割り込んでいた。今のままでは、修司が外れた瞬間、北の水と暖が、また落ちる。


 繋いだままにすれば、この谷は、そもそも生まれない。その囁きは、最後まで消えなかった。だが、繋がないと決めていた。谷は、渡るものだった。


---


 修司は、図の谷を、指の腹でなぞった。


「谷を浅くする。深さそのものを、削る」


 落ち込みを、閾値の上まで持ち上げてやればいい。修司が外れる、その一瞬だけ、炉の周りにある余力を、ありったけ寄せて、底上げする。


「地方炉群。備蓄魔石。夜間の負荷削減。特権系統を切ったぶんの空き。……いつもは別々に回してるものを、あの一瞬だけ、全部、谷底に向ける」


「総動員、ですか」


 リアノンが、写しの束から顔を上げた。


「常のときは、そんな寄せ方はしません。地方炉には地方炉の仕事があり、備蓄は備蓄で温存する。それを、あの数十秒だけ、一斉に、一点の落ち込みへ振り向ける」


「その数十秒だけだ」


 修司は頷いた。


「ずっと総動員なんて、続けられない。谷を渡り終えたら、また元の持ち場に戻す。要るのは、緩衝が一点を掴むまでの、ほんの一瞬。その一瞬を、みんなの半歩で、底上げして渡す」


 図の谷が、寄せ集めのぶんだけ、少しずつ浅くなっていく。閾値の線まで、まだ届かない。だが、一人で埋めるのではなく、みんなで底を上げるかたちが、卓の上で、少しずつ見えはじめた。


---


 問題は、誰が、いつ、何をするか、だった。


 あの一瞬に、いくつもの手が、同時に動かなければならない。一つでも遅れれば、谷は割れる。修司は、図の脇に、配置を書き出していった。


「緩衝の束を差し込むのと、切り戻しを握るのは、マルファス。書式を〔分離可〕に書き換えるのは、リアノン。炉の息を見張って、谷の深さを刻々知らせるのは、保守主任」


「各部署が、同じ刻限に、いっせいに動くわけですね」


 監査状を束ねてきたセルアスが、配置図を検めた。


「地方炉の位相をずらす部署、備蓄の栓を開ける部署、負荷を落とす部署。ふだんは別々の承認で動くものを、あの一瞬だけ、同時に動かす。……その同時行動の承認を、私が束ねます。ばらばらに許可を出していては、間に合わない」


「頼む」


「刻限は、一つ。合図も、一つ。誰かが半歩ずれれば、谷が割れる。……行政の言葉で言えば、これは、王国のあらゆる部署が、生まれて初めて、同じ一秒に息を合わせる工程です」


 セルアスの声は、いつもの、修司を突く硬さがなかった。むしろ、静かだった。


 リゼットが、配置図の端に、現場への連絡の順を書き添えた。


「地方の代表にも、賢者会議にも、軍務にも、合図が要ります。修司さんが外れる一瞬に、みんなが半歩を出せるように。……修司さんお一人が外れるのではありません。国じゅうで、お一人を、外すんです」


 その言い方に、修司は、少しだけ手を止めた。線を引かれる側に自分を数えるのは、まだ据わりが悪かった。だが、悪くはなかった。


---


 配置が埋まって、修司は、最後に一つ、赤い線を書き足した。


 切り戻しの手順だった。


「谷で、緩衝が一点を掴みそこねたら」


 修司は、その赤い線を、卓の全員に見えるように押さえた。


「掴めなかったときのために、俺の魂IDを、一時的に、もう一度繋ぎ直す手順を用意する。緩衝が滑ったら、迷わず、俺を戻す。炉を、いったん元に戻して、仕切り直す」


「――それは」


 リゼットが、わずかに顔を上げた。


「それでは、修司さんは、また繋がれます」


「一時的にだ」


 修司は、静かに返した。


「戻すのは、あくまで、緩衝が滑ったときの保険だ。俺を谷の底に置き去りにして、締めるためじゃない。失敗したら、俺は戻る。戻って、生きて、また段取りを組み直す。……この工程は、俺が死なないように組む。誰も失わないように組む。それが、いちばん外せない一本だ」


 卓の隅で、マルファスが試算盤を止めた。


「切り戻しがある、ということは」


 温度のない声が、続けた。


「本番で緩衝が掴めなくても、あなたは死なない。炉も、いったん戻る。……つまりこれは、一発勝負ではない。滑ったらやり直す。何度でも。谷を渡りきるまで、何度でも組み直せる工程だ」


「そうだ」


 修司は頷いた。


「一発で決めなきゃ死ぬ、みたいな橋の渡り方は、しない。滑ったら戻す。戻して、また束を厚くして、もう一度渡す。……犠牲で締める話には、絶対にしない。そこだけは、譲らない」


 赤い切り戻しの線が、図の谷の下に、もう一本、静かに引かれた。落ちても死なないための、命綱だった。


---


 図が、あらかた埋まったころ、卓の向かいで、ずっと黙っていたヴェイドが、口を開いた。


 老いた指が、谷を渡る配置図を、端から端まで、ゆっくりと辿っていく。地方炉。備蓄。負荷削減。切り戻し。同時行動の承認。現場への合図。その一つ一つを、確かめるように見ていた。


「わしは、昔、一点を、一人で塞いだ」


 その声は、低く、乾いていた。


「小炉の一点が抜けそうになったとき、束で塞ぐ試作は、間に合わなんだ。だから、合う者を一人、繋いだ。谷を、その者一人に、背負わせた。……渡りきる前に、その者は、落ちた」


 卓が、静かになった。


 ヴェイドが、長く胸に沈めてきたものだと、その場の誰もが分かっていた。老賢者は、しばらく谷の図を見てから、顔を上げた。


「お前の図には、谷を背負う一人が、おらん」


 皺の深い目が、修司を見た。


「外れる一人を、皆で支えようとしている。地方の炉も、備蓄も、負荷削減も、切り戻しも――みな、外れる一人が落ちぬための、手だ。谷の底に、誰も、置き去りにしておらん」


「あんたの、記録があったからだ」


 修司は言った。


「束で塞ごうとした古い試作痕。あんたが間に合わなかった、あの一枚。あれが残ってたから、俺は、束で渡る道を探せた。あんたの失敗が、俺の、いちばん要る手がかりだった」


 ヴェイドは、すぐには言葉を返さなかった。失敗として、長く胸に沈めてきたものが、別の者の手で、谷を渡る手立てに変わっていた。老賢者は、一度だけ、深く頷いた。


「一人で塞げば、いつか、その一人を失う。……皆で外れる一人を支えるなら、たぶん、誰も失わずに済む。わしが、あの日、欲しかったのは、この図だ」


---


 その日の夕刻、谷を渡る段取りは、あらかた組み終わった。


 地方炉の位相。備蓄の栓。負荷の落とし方。同時に動く手の順。切り戻しの命綱。現場への合図。卓の上の図は、修司が外れる一瞬を、国じゅうの半歩で渡すための、一枚になっていた。


 修司は、盤の前に立った。


 〔削除可否:不可〕。


 ずっと保存してきた一行が、いつものように灯っている。同意は、埋めた。理由は、分からないまま置いてきた。谷を渡る図も、組み終えた。あとは、この一行を〔分離可〕に書き換える、その一瞬を、迎えるだけだった。


「刻限を、決める」


 修司は、静かに言った。


 セルアスが、工程票に、日と時を書き入れた。国じゅうの部署が、同じ一秒に息を合わせる、その刻限。


「明日だ」


 修司は、盤の一行を見た。


「明日、俺は、この一行を、自分の手で書き換える。〔削除可否:不可〕を、〔分離可〕に。……最後の依存を、剥がす」


 盤の上で、〔本人同意:取得〕の四文字が、静かに灯っている。剥がしていい相手の名簿に、修司は、自分の名を書き終えていた。谷を渡る図も、切り戻しの命綱も、国じゅうの半歩も、そろっていた。


 あとは、明日、谷を、渡るだけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ