第107話 誰が登録したか
谷を渡す段取りは、日ごとに形になっていった。
地方炉の位相をどこまでずらすか。緩衝の棚に、どれだけの余力を回すか。切り戻しを握るのは誰か。修司が抜ける一瞬を、人でなく全員で支えるための図が、卓の上で、少しずつ埋まっていく。
だが、図が埋まるほど、修司の手は、あるところで止まった。
〔本人同意:未取得〕。
その空欄を埋めれば、あとは本番の刻限を待つだけだ。分かっている。分かっているのに、ペンを置いた手が、動かなかった。
「――理由を知らずに、外していいのか」
修司は、誰にともなく、低く言った。
自分は、なぜここに登録されたのか。誰が、いつ、何のつもりで、修司の魂IDを最後の一点の予備に据えたのか。それを確かめないまま外すのは、原因の分からないまま障害票を閉じるのと、同じことだった。修司が、いちばん嫌ってきた処理だ。
---
その据わりの悪さを、修司はリアノンとヴェイドの前へ持っていった。
賢者会議の一室に、残存ログの写しと、古い試作痕の記録と、書式照合の控えが、卓いっぱいに広げられている。修司は、その三つを、順に指で押さえていった。
「知りたいのは、一つだ。誰が、俺をここに登録したのか」
観測に強い若い賢者、リアノンが、写しの束を引き寄せた。
「その問いは、この数日、私も追いました」
彼女は、召喚時の記録の、いちばん古い層を開いた。
「あなたが召喚された、その瞬間の処理を追うと――炉の側が、召喚された魂IDを一つずつ点検して、深層保守の書式に合う者がいれば、予備接続の候補として、自動で拾い上げています。ここに、人の判断が挟まった痕跡は、ありません」
「自動で……拾った」
「はい。あなたが適合したのは、あなたの魂IDの参照書式が、炉の保守系統と一致していたから。そして、拾ったのは、誰か一人の意思ではなく――召喚のたびに書式適合者を選り分ける、古い仕様そのものです」
---
修司は、召喚時の処理の流れを、自分でも読み直した。
召喚陣が魂IDを取り込む。この世界の魔導法則へ馴染ませる。適性を判定し、恩恵を割り振る。その一連の、いちばん奥まったところに、確かに、小さな一手順があった。取り込んだ魂IDの参照書式を、炉の深層保守の書式と、黙って照らし合わせる手順。合えば、拾う。合わなければ、素通りする。
修司の書式は、合った。
「……俺を選んだ奴は、いない」
読み取れたのは、そこまでだった。
「炉が、召喚のついでに、勝手に拾った。ただ、それだけだ。悪意も、計画も、俺を狙った誰かも――ない。ないんじゃない。読めない。俺の力じゃ、そこまでしか届かない」
卓の向かいで、ずっと黙っていたヴェイドが、初めて口を開いた。
「なぜ、その仕様が置かれたのか。それは、読めまい」
老いた声だった。
「炉を作った者が、なぜ召喚された者から予備の一点を拾うようにしたのか。何を恐れて、そんな備えを仕込んだのか。それは、書式には残っておらん。残っておるのは、拾うという挙動だけだ。意図は、とうに、誰の手にも残っておらん」
---
修司は、しばらく、卓の上の三つの記録を見ていた。
力の出自。修司の現仕様閲覧が、なぜ炉の保守系統と同じ書式を持つのか。おそらく、同じ古い設計の系列に、どこかで連なっている。書式が一致するとは、そういうことだ。だが――それ以上は、どこにも書いていない。誰が、その系列を引いたのか。修司の力が、どこから来たのか。読もうとして手を伸ばした先は、ただ、白かった。
「気になるだろう」
ヴェイドが、修司の横顔を見た。
「自分がどこから来た力なのか。なぜ、炉と同じ読み方をするのか。それを知らぬまま外すのは、自分の半分を置き去りにするようで、落ち着かんだろう」
「……落ち着かない」
修司は、正直に答えた。
「けど」
そこで、一度、息を継いだ。
「分かってから外そうとしたら、たぶん、一生、外せない。俺がどこから来た力かなんて、この国の誰にも読めない。読める日が来るとしても、それがいつかは分からない。その日を待ってたら、その間ずっと、俺はここに繋がったままだ。北の水と暖が、俺の好奇心のために、綱渡りを続ける」
修司は、白いままの一点を、指の腹で、そっと押さえた。
「全部は分からない。分からないまま、外す。分かってからにしよう、は――ただの、繋いだままでいるための言い訳だ」
---
リアノンが、写しの束を、静かに閉じた。
「読めないことを、進めない理由にはしない。……あなたらしい割り切り方です」
「割り切りじゃない」
修司は、少しだけ首を振った。
「俺の力がどこから来たかは、いつか、誰かが調べればいい。今の俺の仕事は、それを解くことじゃない。塞ぐことだ。人を繋がずに、最後の一点を塞ぐ。それだけが、俺の手が届く」
ヴェイドは、その言葉を、しばらく噛みしめるように黙っていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「昔、わしは、一点を人で塞いだ。塞いだ相手が、なぜ塞げるのかも分からぬまま、ただ合うから繋いだ。……お前は、なぜ合うのかを、そこまで調べた上で、それでも繋がぬと言う。同じ書式を持つ者でも、たどる道は、こうも違う」
「あんたが、道を教えてくれたからだ」
修司は言った。
「人で塞いだら、いつか失う。あんたが、それを痛みごと話してくれた。だから俺は、人で塞がない道を探せた。俺が今、外す当てを持ってるのは、あんたの小炉の記録に、束で塞ごうとした古い試作痕が残ってたからだ」
ヴェイドの、皺の深い目が、わずかに揺れた。失敗として、長く胸に沈めてきたものが、別の者の手で、初めて意味を持ち直したことに、老賢者は、すぐには言葉を返さなかった。
---
その日の夕刻、修司は、工程票の最後の欄の前に、もう一度立った。
〔本人同意:未取得〕。
ずっと空白だった欄だ。誰にも埋めさせなかった。勝手に埋められる欄ではないと、自分で決めていた。ここを埋めるのは、修司自身の意思でなければならない。線を引かれる側の権利は、修司にも、そっくり同じにある。リゼットが、そう言った。
修司は、セルアスとリアノンの立会いのもとで、ペンを取った。
「読めないことは、まだ、ある。俺がなぜここにいるのかも、俺の力がどこから来たかも、たぶん、最後まで分からない。――でも、外す。分からないまま、外す」
修司は、空欄に、一字ずつ、書き入れた。
〔本人同意:取得〕。
空白だった欄が、修司自身の同意で、初めて埋まった。削除可否:不可。分類外。宙ぶらりんだった一行が、これで、他の召喚者たちの票と、同じ列に並んだ。線を引かれる側の一人として。
「これで、区別は、なくなりました」
セルアスが、束ねた工程票を、静かに検めた。
「あなたの例外は、もう例外ではない。他の召喚者と、同じ手順、同じ猶予、同じ記録で、外れます。……ずっと未定義だったものが、今日、あなた自身の手で、定義された」
---
卓の隅で、マルファスが試算盤を弾いていた手を止め、盤の上の一点を見た。
「同意欄が埋まったことで、書式の書き換えが、技術的に受理できる状態になりました。あとは、谷です」
その、温度のない声が、続けた。
「あなたが外れる一瞬の、炉の落ち込み。そこを、人でなく渡せるかどうか。同意が取れても、谷を渡せなければ、外した瞬間に炉が落ちて、北の水と暖が止まる。……最後の山は、そこに残っています」
「分かってる」
修司は、盤に灯る〔削除可否:不可〕の一行を見た。
同意は、埋めた。理由は、分からないまま置いてきた。あとは、この一行を〔分離可〕に書き換える、その一瞬の谷を、どうやって全員で渡すか。それが、最後の工程だった。
盤の上で、〔本人同意:取得〕の四文字が、静かに灯っている。ずっと空白だった欄に、初めて、修司自身の意思が入っていた。剥がしていい相手の名簿に、修司は、ようやく、自分の名を書き終えた。
あとは――谷を、渡すだけだ。




