第106話 あんたの分の線
カズヤの、最後の一段が外れる朝だった。
深い接続を、一段ずつ代わりの供給に置き換えて、そのたびに痛みが出ないのを確かめて、また次の一段へ。そうやって、何十日もかけて剥がしてきた線の、いちばん奥の一本が、今日、外れる。
修司は、盤の前に立って、その一段が抜けるのを見ていた。マルファスが緩衝を先に当て、リアノンが書式を確かめ、保守主任が炉の息を見張る。手順は、もう何度も踏んできたとおりだった。
最後の一段は、拍子抜けするほど静かに外れた。
「――終わりました」
主任が、盤を見て言った。カズヤの魂IDから、炉へ伸びていた深い線が、一本残らず消えている。かわりに、寄せ集めの代替が、その抜けたぶんを、静かに引き受けていた。
カズヤ本人は、外れた瞬間、何も感じなかったらしい。しばらく自分の手を見下ろしてから、ゆっくりと顔を上げた。
「軽く……なった気も、しないんですけど」
「それでいい」
修司は言った。
「痛みで気づくような外し方は、しなかった。気づかないまま繋がれてたものを、気づかないまま外す。それが、いちばんまともな剥がし方だ」
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カズヤは、しばらく盤を見ていた。自分がもう、炉のどこにも繋がっていないことを、何度も確かめるように。それから、修司のほうへ向き直った。
「マナベさん。俺の線は、あんたが全部引いてくれました」
その声は、いつもの、修司を敬う響きのままだった。
「一段ずつ、代わりを当ててから外して。俺が怖がらないように、痛くないように、順番まで考えて。……ずっと、そうしてもらってきました」
「あんたが、途中で降りなかったからだ」
修司は、少しだけ首を振った。
「怖い外し方を、我慢して受けてくれた。そっちのほうが、よっぽど骨だ」
カズヤは、小さく笑った。それから、笑いを収めて、まっすぐに修司を見た。
「マナベさん。ひとつ、聞いていいですか」
「なんだ」
「あんたの分の線は、いつ、引くんですか」
修司は、答えなかった。
「俺のは、あんたが引いてくれました。他の召喚者のも、みんな。……でも、あんた自身の線を、あんたが引いたのを、俺は一度も見ていません」
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修司は、盤に目を落とした。そこには、いつもの一行が、いつものように灯っている。
〔保守補助:応答可〕。〔削除可否:不可〕。〔本人同意:未取得〕。
ずっと、保留にしてきた。向き合うと決めてからも、材料を集めることを言い訳に、自分を外す話だけは、後ろへ、後ろへ、置いてきた。理由は、単純だった。外す当てが、なかったからだ。繋いだまま温存するのは拒んだ。だが、外すには、代わりがいる。その代わりが、この目で見えるまでは、外すとは言えなかった。
だが――昨夜、盤に、あの六文字が灯った。
〔代替接続:受理〕。
人でなくても、塞げるかもしれない。まだ本番には届かない。それでも、束と棚で、最後の一点がしばらく埋まるのを、確かに見た。温存でも犠牲でもない外し方が、初めて、机上の願いから、手の届く選択肢に変わっていた。
「……当てが、できた」
修司は、低く言った。
「ずっと、外す当てがなかったから、保留にしてた。繋いだままは嫌だ。でも、犠牲になって締めるのも、まっぴらだ。その両方を避ける外し方が、なかった。――昨日、それが、盤に一行、点いた」
カズヤは、黙って、次の言葉を待っていた。
「あんたに引いた線を、俺は、俺にも引く。同じやり方でだ。一段ずつ、代わりを当てて、痛くないように外す。俺だからって、雑にはしない」
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その日のうちに、修司は自分の例外を、正式な工程へ載せ直した。
これまで、修司の魂IDは、他の誰の票とも別扱いで、隅に置かれていた。削除可否:不可。分類外。触れない前提の、宙ぶらりんな一行。それを、カズヤたちと同じ、剥離工程の列へ、修司は自分の手で移した。
「本当に、よろしいのですね」
監査状を束ねてきたセルアスが、めずらしく念を押した。行政の言葉で修司を突くのが常のこの男が、いまは静かだった。
「あなたは、自分の例外を、ずっと未定義のまま置いてきた。未定義のまま放置するのは、あなたが一番嫌う処理だと、私は言い続けてきました。……それを、今日、あなた自身が閉じる」
「未取得の欄を、埋める」
修司は頷いた。〔本人同意:未取得〕。ずっと空白だった、その欄を見た。
「誰かに勝手に、埋められる欄じゃない。俺が、俺の意思で埋める。そういう欄だ」
「撤回の猶予も、記録の保存も、他の召喚者と同じに」
リゼットが、横から工程票を確かめて言った。
「修司さんだからと、手順を飛ばしたりしません。修司さんは、参謀である前に、一人の召喚者です。線を引かれる側の権利は、修司さんにも、そっくり同じにあります」
修司は、その言葉に、少しだけ間を置いた。線を引く側のつもりで、ずっとやってきた。引かれる側に自分を数えるのは、思っていたより、据わりが悪かった。だが、悪くはなかった。
「頼む。俺のときも、いつもどおりにやってくれ。特別扱いは、いらない」
卓の隅で、マルファスが試算盤を弾く手を止めた。
「一つだけ、他の方と違う点があります」
温度のない声だった。
「他の召喚者を外すとき、あなたは外から工程を回していました。緩衝が崩れかけたら、切り戻しを引く。その手を握っていたのは、いつもあなただ。……ですが、今度あなたが外れる工程では、その手を握る当人が、外される側にいる。あなたが谷の底で気を失えば、切り戻しを引く者が、盤の前からいなくなる」
「だから、俺は握らない」
修司は、即座に返した。
「俺が外れる工程の切り戻しは、あんたが握れ。俺が谷の底で何も出来なくなっても、盤の前に、俺以外の手が残ってるように組む。自分の剥離を、自分で回そうとしたら、そこがいちばんの綻びになる」
マルファスは、しばらく黙ってから、また盤を弾き始めた。
「珍しく、ご自分を勘定に入れましたね。あなたは、いつも自分だけを工程の外に置きたがる人だった」
「……外に置いてたら、いつまでも外せなかった。それを、こいつに気づかされた」
修司は、カズヤのほうへ、軽く顎をしゃくった。カズヤは、少しばつが悪そうに、それでもどこか誇らしげな顔で、目をそらした。
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工程を組み始めて、すぐに、一つの谷が見えた。
修司の魂IDを最後の一点から外す、その瞬間だ。緩衝の束が一点を掴むまでの、ほんの短い間、炉の密度が、がくんと落ちる。カズヤのときは、抜けるぶんが小さく、代替がすぐ追いついた。だが修司の一点は、炉の深層保守そのものだ。抜けた瞬間の落ち込みが、他の誰より深い。
「ここです」
リアノンが、試算の谷を指した。
「あなたが外れる一瞬、緩衝が引き継ぐまでのあいだ、炉の出力が、この深さまで沈みます。この谷が深すぎれば、北の水と暖が、また落ちる」
修司は、その谷底を、じっと見た。自分を繋いだままにすれば、この谷は、そもそも生まれない。繋げば楽だ。その囁きは、最後の最後まで、消えなかった。
だが、繋がないと決めていた。
「この谷を、人なしで渡す」
修司は、静かに言った。自分が外れる瞬間の、その落ち込みを、また誰か一人で埋めるなら、剥がす意味がない。谷は、人でなく、束と棚と、みんなの半歩で、渡さなければならない。
「俺が抜ける一瞬を、どうやって、俺なしで支えるか。……それが、最後の山だ」
盤の上で、〔削除可否:不可〕の一行が、まだ静かに灯っている。それを〔分離可〕に書き換える日は、もう、そう遠くなかった。あとは、この谷を渡す段取りを、一つずつ組むだけだった。




