第111話 現仕様、誰も燃料にしない国で
朝の記録室は、いつもと同じ、少し埃っぽい光で満ちていた。
修司は盤を開き、まず北の筋を見た。水と暖が、揺れずに立ち上がっている。地方炉の勝手な息は、相変わらずあちこちで小さく波打っているが、その山はもう、そろって来ない。位相をずらした拍が、互いの盛り上がりを静かに削り合っている。束は、今朝も揺らぎを呑みきっていた。
前線の哨戒は、平常。物流ゲートの枠は、一般便で埋まっている。王都の承認フローの、どの欄をたどっても、召喚という文字は、もうどこにも載っていない。
当たり前に、回っていた。
その当たり前を、修司はしばらく眺めていた。誰も倒れず、誰も締められず、ただ、朝が、朝として来ている。ひと月前なら、この盤のどこかに必ず、宙吊りの一行が灯っていた。それが、今朝は、一つもない。
---
その日の午後、アニカの帰還が成立した。
召喚陣の間は、儀礼の飾りを外され、点検場のように素っ気なかった。魂ID、座標記録、接続解除の確認、本人同意。手順票の欄が、一つずつ、順番に埋まっていく。リアノンが控えを読み上げ、マルファスが切り戻しの栓に手を添え、保守主任が炉の息を見張る。ユウトのときに組んだ手順を、そのままなぞる形だった。
「二人目、ですね」
リアノンが、控えから顔を上げた。
「ユウトさんに続いて、二人目。……もう、誰かを燃料に戻さずに、帰せます。谷を渡す図も、切り戻しも、全部そろっています」
アニカは、陣の中央で、修司のほうを一度だけ振り返った。
「戦えるって言われて、呼ばれました」
その声は、落ち着いていた。
「この世界を救う力があるって。……でも、わたしが立ってた場所は、誰かを削って空けた席でした。あなたが、それを教えてくれた。教えてくれた上で、削らずに、帰る道まで用意してくれた」
「用意したのは、俺一人じゃない」
修司は、手順票の欄を指した。
「あんたを帰すのに、地方の炉も、備蓄も、切り戻しも、みんなの手が要る。俺は、順番を書いただけだ」
アニカは、少しだけ笑った。それから、前を向いた。
接続が、一段ずつ、ほどけていく。痛みで気づかせない手つきで。陣の光が、ゆっくりと薄れて、アニカの姿が、朝もやのように、輪郭からほどけていった。最後まで、悲鳴も、まばゆい閃光も、なかった。ただ、一枚の手順票が、上から下まで、静かに埋まっただけだった。
「帰還、成立」
主任が、低く告げた。炉の息は、ひとつも乱れなかった。
---
陣の間を出ると、廊下の窓辺に、カズヤが立っていた。
「見届けました」
カズヤは、遠くを見るような目をしていた。
「アニカさんが、削らずに帰れた。俺が段階切断で自由になったのと、同じ手つきで。……マナベさんは、ほんとうに、一人も燃やさずに、ここまで来たんですね」
「あんたが、最初に自分の分の線を引けって言ったからだ」
修司は、窓の外を見た。中庭では、サナが台帳を抱えて、地方から来た担当者と何か話し込んでいる。配分の棚を数える仕事は、この国が誰も燃料にしないで回るための、地味で、替えの利かない仕事だった。かつて燃料にされかけた者が、今は、その国を数える側に立っている。
「レオは、まだ保留か」
「据え置きです。急かしてません」
カズヤは頷いた。
「あの人のペースで、いつでも。帰るのも、残るのも、いつ決めても、席は空けてあります。……誰も、決断を急かされない。それだけで、ずいぶん違うって、あの人が言ってました」
帰った者がいて、残った者がいて、まだ決めていない者がいる。それぞれが、自分の速さで、自分の一行を埋めていく。誰も、燃料でなく、誰も、最後の一点でない。修司は、その並びを、悪くない、と思った。
---
夕刻、修司は、盤の自分の欄を、久しぶりに開いた。
〔修司・魂ID:標準召喚者〕。その下に、もう一行。
〔帰還可否:要再判定〕。
国の依存は、全部、剥がした。次の修司を作らない仕組みも、作った。誰も燃料にしない国は、もう、明日を回しはじめている。片づいていないのは、この一行、ただ一つだった。
帰るのか、残るのか。
手順は、ある。ユウトが帰り、アニカが帰った、その同じ道が、修司自身にも開いている。谷を渡る図も、切り戻しも、もう何度も使った。帰ろうと思えば、帰れる。据わりの悪い例外ではなく、線を引かれる側の、ただの一人として。
「選ばないんですか」
リゼットが、盤の隣に立っていた。
「急がなくていい、と言ったのは、わたしです。……でも、ずいぶん、開いたままにしていますね」
「開いたままで、いいと思ってる」
修司は、その一行を、指の腹でなぞった。
「帰る道を、閉じるつもりはない。いつでも帰れる。それは、ずっと残しておく。……その上で、今は、ここにいる。帰るのを我慢してるんじゃない。ここに、まだ、直したい困りごとがあるからだ」
「困りごとが、なくなったら」
「そのとき、また考える。北の朝が、ずっと揺れないままなら。地方が、半歩を出さなくても回るようになったら。……そのころには、俺がいなくてもいい国になってるはずだ。そうなったら、帰るのも、悪くない」
リゼットは、しばらく黙っていた。それから、静かに笑った。
「それは、残る、と言っているのとは、少し違いますね」
「違う」
修司は頷いた。
「残る、って決めちまうと、それはそれで、また据わりが悪い。俺は、選ばない、を選んでる。帰れる立場のまま、今日は、ここで働く。……この宙ぶらりんは、前の宙ぶらりんとは、違うんだ。前のは、炉に握られてた。今のは、俺が握ってる」
選べる、というだけで、これまでとは、まるで違った。その違いを、修司は、自分の意思で、選び続けていくつもりだった。
---
盤を閉じる前に、修司は、ふと、自分の手を見た。
最後の一点から外れたあと、この力が、まだ残っているのか、それとも変わってしまったのか。深く確かめたことは、なかった。修司は、試しに、目の前の記録端末に、そっと意識を向けてみた。
――読めた。
端末の走らせている処理も、その裏で滞っている小さな更新も、いつも通り、静かに見えた。炉の書式と同じ形で世界を読む、その読み方は、一点から外れても、消えていなかった。少しだけ、以前より、遠くまで澄んで見える気もしたが、確かめる術はない。
この力が、どこから来たのか。なぜ、炉と同じ書式を持っていたのか。それは、最後まで読めなかった。読もうとしても、古い設計のずっと奥で、途切れている。分からないまま、修司は、一点を剥がした。分からないまま、進んだ。
「……まあ、いい」
修司は、手を下ろした。
力の出自は、いつか、誰かが調べればいい。畳まなくていい謎は、開いたまま、次の誰かへ渡せばいい。修司にとって、この力は、真相を暴くための鍵ではなかった。ただ、今、目の前で動いている仕組みの、困りごとを直すための、道具だった。
「読める間は、読める困りごとを直す。それで、十分だ」
---
記録室を出ようとしたとき、卓の隅で、マルファスが試算盤を弾いていた。
「片づきましたね」
温度のない声が、盤から顔も上げずに言った。
「最後の一点も、次の修司を拾う手順も、召喚者の現在地も、あなた自身の一行も。……全部、収まるところに収まった。結局、誰も滅びず、誰も裁かれず、仕組みが一つ、静かに置き換わっただけだ」
「そうだな」
「派手な断罪も、劇的な犠牲も、玉座を懸けた決戦も、ない。谷を渡って、束が一点を掴んで、召喚者が何人か帰って、残って、それで終わり。……物語にするには、地味すぎる」
その言い方に、修司は、覚えがあった。ずっと前、最後の依存が自分だと気づいた、あの夜にも、この男は、同じことを言った。面白くない結末だ、と。
「地味でいい」
修司は、迷わなかった。
「あのときも言った。地味なほど、いい。誰も燃えてない。誰も、すり減ってない。谷を、一人に背負わせなかった。……派手な締め方ってのは、たいてい、誰か一人を燃料にした跡だ。地味だってことは、誰も燃料にしなかったってことだ。それが、いちばんいい結末だ」
マルファスは、しばらく試算盤の上で指を止めていた。それから、一度だけ、ぱちん、と弾いた。否定は、しなかった。
「面白くない結末を、いちばんいい結末だと言い張れる人間は、そういません」
温度のない声に、ほんの少しだけ、色がついた気がした。
「……悪くない結末だ、と、私も、それくらいなら言ってやります」
---
夜が来る前に、修司は、最後にもう一度だけ、盤を開いた。
かつて、この盤には、いつも、宙吊りの一行があった。〔削除可否:不可〕。〔標準召喚者分類外〕。〔本人同意:未取得〕。剥がしていい相手の名簿にも、帰っていい者の列にも、入れなかった、宙ぶらりんの一行。炉に握られて、消すことも、進めることもできなかった一行。
それが、もう、どこにもなかった。
最後の一点は、人のいない束が掴んでいる。次の誰かを拾う手順は、止まっている。召喚者たちは、それぞれの速さで、自分の一行を埋めている。そして、修司自身の一行は、〔帰還可否:要再判定〕のまま、修司自身の手の中にある。
盤の上に、最後の一点も、最後の一人も、もう、いなかった。
誰も燃料にしない国が、誰の犠牲もなく、ただ静かに、明日をまわしていく。派手な祝祭も、記念の演説も、なかった。ただ、北の水と暖が、明日も揺れずに立ち上がる。それだけの、地味な明日が、この盤の向こうに、当たり前に続いていた。
修司は、盤を閉じた。
窓の外は、もう暮れかけている。だが、記録室の扉の向こうには、まだ、いくつもの現場が待っていた。地方炉の小さな不調。旧帳票の残りかす。誰かの、まだ言葉にならない違和感。仕様書のない異世界の、名もない困りごとが、今日も、どこかで、静かに滞っている。
修司は、監査状を一枚だけ手に取って、扉へ歩いていった。
外れ枠と呼ばれた男の、戦えないと判じられた力は、最後まで、誰かを打ち倒すためには使われなかった。ただ、今、実際に動いている仕組みの、そのズレを見抜くために。困っている誰かの、その明日を、半歩だけ、まっすぐにするために。
現仕様の困りごとが、今日も、彼を待っている。
修司は、扉を開けて、現場へ向かった。
——了。




