第102話 点検が止まる
基盤炉の保守主任が記録室へ駆け込んできたのは、修司が盤を閉じる間もない頃だった。
炉の深層を、いちばん長く世話してきた、白髪交じりの実直な男だ。その顔が、青ざめていた。
「マナベ殿。炉の点検が……自動の点検が、半分ほど、飛びました」
修司は盤を開いたまま、男に椅子を勧めた。
「順を追って、話してくれ。何が、いつから飛んでる」
主任は、息を整えながら、手元の控えを開いた。深層の保守機構は、毎日、自分の体のすみずみを自動で点検する。その点検のいくつかが、昨夜から「実行できず」のまま止まっている。理由は、盤に出ていたとおりだった。最後の一点に、接続がない。点検を回すための足場が、欠けている。
「点検が飛ぶと、出力の配分が、わずかに狂います。ほんのわずかです。ですが――」
「北に出たか」
修司の問いに、主任は重く頷いた。
「北の地方系統。冬越しの、水と暖です。あそこは、もともと、いちばん細い綱で渡っています。配分がわずかに狂っただけで、朝方の供給が、ぐらつき始めました」
これまでずっと、ぎりぎりで朝を越させてきた系統だった。地方炉の寄せ集めと、夜間の削減と、贅沢系統のカットで、なんとか保たせてきた。その綱が、いま、炉の点検不足で、また揺れている。
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修司は、自分の魂IDの欄を、もう一度開いた。
〔深層保守・自動点検:一部保留。代替接続なきため実行不可〕。
その一行の隣に、〔応答可〕が、静かに灯ったままだ。読めることは、はっきり読めた。修司を最後の一点に繋げば、代替接続が満たされる。点検は、その場で通る。出力の揺らぎは消え、北の朝は、また安定する。
囁きではなかった。もう、はっきりとした取引だった。お前が繋げば、北の暮らしは元に戻る。繋がなければ、細い綱の上の人々が、先に寒さを浴びる。炉は、修司の名前を呼ぶのに、暮らしを人質に取りはじめていた。
「いちばん楽な解が、いちばん卑怯な顔をして来たな」
修司は、低く独りごちた。
マルファスが、例の温度のない声で、確かめるように言った。
「繋げば、終わりますよ。今この場で。あなた一人が頷けば、北の朝も、炉の点検も、何もかも元どおりだ。試算するまでもない」
「知ってる」
「それでも、繋がないと」
「繋がない」
修司は、欄から目を上げた。
「あの移行を決めたとき、もう一つ決めたんだ。最後に残る依存を、人で埋めるのだけはやらない。俺自身も、その『人』に入れる、ってな。北が寒いから繋ぐ、ってのは、いちばんやっちゃいけない温存だ。一度それで繋いだら、二度と外せなくなる。暮らしを人質にされた、って言い訳をつけて、俺はずっと炉に繋がれたままになる」
「立派なことです。凍えるのは、あなたじゃない」
マルファスの言葉は、刃のようだった。修司は、それを正面から受けた。
「そうだ。凍えるのは、俺じゃない。だから、凍えさせない手を、繋ぐ以外で組む。それが、繋がないと決めた奴の、引き受ける責任だ」
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修司は、盤に手をかけた。
「応急でいい。恒久解じゃなくていい。点検が飛んだ分を、人手と、別の系統で、当面だけ肩代わりする」
組み立ては、いつもの障害対応と同じ手つきだった。自動でできなくなった点検を、いくつかに割って、人の手で回す。深層へ毎日下りる当番に、点検項目の一部を手作業で確かめさせる。出力の揺らぎは、地方炉の余力と、夜間のさらなる削減で、北へ届く前に吸う。一つの大きな穴を、小さな手当ての寄せ集めで、薄く埋める。
「主任。手動の点検手順を、書き起こす。あんたと、当番で、回せるか」
「……回します。やり方さえ、決まれば」
「マルファス。分散の試算と、実装を頼む。それと――」
「切り戻しですね」
マルファスは、もう試算盤を弾きはじめていた。
「応急が裏目に出たとき、すぐ元へ戻せる手順を、先に用意しておく。分かっていますよ。あなたの障害対応は、いつもそうだ」
応急の絵が、半日かけて、ようやく形になった。点検は、自動の速さでは回らない。人の手の分だけ、遅く、重い。だが、止まりはしない。北の朝も、揺らぎを別系統で吸えば、当面は越せる。穴は、塞がっていない。ただ、塞がるまでの時間を、人手で買っているだけだった。
「これで、何日もつ」
修司の問いに、マルファスは短く答えた。
「分散の余力次第ですが、長くて、十日。手動点検は、人を消耗させます。当番が保たなくなれば、そこで終わりです。恒久解には、なりません」
「十日あれば、十分だ」
手動点検の初日、修司は自分も深層の当番に入った。盤の上で「実行できず」と灯った項目を、一つずつ、人の手と目で確かめていく。自動なら一瞬で済む確認が、人の手では、半刻もかかった。隣で同じ作業をする当番の若い保守員は、半日でもう、額に汗を浮かべていた。
「マナベ殿。これ、毎日……ですか」
「当面はな。だが、当面で終わらせる。これは、塞ぐまでの時間稼ぎだ。ずっと続ける前提の仕事じゃない」
修司は、若い保守員の手元を見ながら、自分に言い聞かせるように続けた。
炉に自分を繋げば、この汗は、要らなくなる。点検は一瞬で通り、誰も半刻もかがみ込まずに済む。楽になるのは、目の前のこの一人だ。それでも繋がないと決めたのなら、繋がない側が、この汗の重さを、ちゃんと引き受けなければならなかった。応急とは、誰かが楽をしないことで、買う時間のことだった。
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応急の報せは、その日のうちに賢者会議へ届いた。労いの言葉に混じって、一つ、静かな現実論が返ってきた。ガレオンの隣に座る、年配の賢者からだった。
「マナベ殿の働きは、見事だ。だが――無理を、しておられる」
その声に、悪意はなかった。
「人手で点検を回し、夜間をさらに削り、北の朝を別系統で吸う。どれも、誰かが無理をして、ようやく保つ手当てだ。当番は消耗し、削られた地方は痩せる。マナベ殿が、ほんの一時、炉にお繋ぎになれば、その無理は、すべて要らなくなる。一時的に、です。別解が見つかるまでの、ほんの一時」
暮らしを守りたい、という善意から出た言葉だった。だからこそ、断るのは難しかった。
「お気持ちは、ありがたいです」
修司は、丁寧に頭を下げてから、引かなかった。
「ですが、一時的に繋ぐ、ってのが、いちばん危ない。一時のつもりが、別解が見つからなければ、そのまま恒久になります。北が寒いあいだは外せない、次の冬もまた外せない、と続けば、一時はいつまでも一時のままだ。俺は、炉から外れられなくなる。だから、繋がない。十日のあいだに、人でない何かで塞ぐ手を、探します」
会議の声を見送ってから、修司は、盤に新しい票を起こした。
件名、基盤炉深層・最後の一点における、人によらない代替接続の設計。区分、恒久対応。担当、修司。
起票はした。だが、票の本文は、ほとんど白かった。人で塞がない、とは決めた。応急で、十日は稼いだ。けれど、人でない何を、どう繋げば最後の一点が埋まるのか――その案は、まだ、一行も書けていなかった。
リゼットが、白いままの本文を、横から覗き込んだ。
「修司さん。中身が、空ですね」
「ああ。方針だけ決まって、手は、まだ何もない」
修司は、白い本文を、しばらく見つめた。
「だが、空でも、起票はしておく。人で塞ぐっていう一番楽な票を、閉じておくためにな。こっちの票が開いてるかぎり、俺は、繋ぐ理由を探さずに、繋がない手を、探し続けられる」
十日。手動点検が当番を消耗させきるまでの、短い猶予だった。その十日のあいだに、白い本文を、人でない何かで埋めなければならない。最後の一点は、修司が案を思いつくのを、待ってはくれなかった。




