王子の声を奪った夜
木戸を叩いたのは、音律局の監督官補と、制服を着た検査員が二人だった。
「王立音律局です。星皿の臨時修理について、届け出がありません」
先頭に立つ男は、倉庫の中を見回しながら言った。視線が作業台へ、そして私の手元の調律針へ移る。名乗りはしなかったが、胸元の銀章には音律局の紋章と、監督官ヴァスティ・グレイムの印が刻まれていた。
「下町の楽器修理です。星皿の権限に触れる作業はしていません」
私は笛を布で包み、作業台の端へ置いた。
「ならば、見せてもらいましょう」
検査員が棚へ手を伸ばす。そこには、先ほど黒い渦を閉じ込めた硝子管がある。私は反射的に一歩前へ出た。
「そちらは修理途中の部品です。衝撃を与えると音が逃げます」
「音が逃げる?」
男の口元が歪んだ。「ずいぶん大げさな言い方をする職人だ」
背後で、紙が擦れる音がした。エルドさんが筆を走らせている。私は振り返らずに、作業台の影へ手を下ろした。白い紙片が、指先に触れる。
『見せていい。中身は空だ』
意味がわからず、私は硝子管を持ち上げた。黒い渦は、布の内側でかすかに揺れている。けれど検査員が栓を抜くと、音は一瞬で消えた。残ったのは、ただの曇った硝子だけだった。
「異常なし」
エルドさんが先に気づいていたのだ。音を閉じ込めた硝子管に、逃がすための細工を施していたらしい。
検査員は不満そうに道具箱まで調べたが、調律針の本数を数え、臨時工房の届け出を三日以内に出すよう告げて帰っていった。木戸が閉じても、靴音はしばらく路地に残った。
「……怖かったです」
私が呟くと、エルドさんは紙に『すまない』と書いた。
「謝らないでください。私が調べると決めたことです」
そう答えたものの、胸の奥には別の怖さが残っていた。あの黒い音は、検査員の手の中で消えたのではない。消されたのだ。誰かが、消し方を知っている。
日が落ちる頃、イネスが戸締まりをして帰った。私は硝子管を布で包み直し、棚の奥へしまう。エルドさんは明かりを消す前に、屋根裏へ続く梯子を指した。
『夜の鐘を聞いてほしい』
「夜の鐘、ですか?」
彼は頷き、王宮の方角を見た。
屋根へ出ると、雲の切れ間に星が一つだけ見えた。王都の中央塔に吊られた星鐘が、日付の変わる前の時刻を告げる。澄んだ音が三つ、続けて鳴った。
四つ目が鳴るはずだった。
けれど、そこだけが空白になった。
音がないのに、耳の奥が痛む。私は屋根の縁を掴んだ。エルドさんも同じように目を伏せている。
彼は紙ではなく、屋根板へ指で線を描いた。二本の縦線。その間に、欠けた星。
『十年前の夜も、これが鳴った』
「この印が?」
『違う。印の音が』
彼は指を喉へ当て、それから星鐘の方角を示した。
十年前。まだ十三歳だったエルドさんは、王宮の星鐘塔にいた。季節を切り替える祭りの夜で、空には流星が降っていたという。鐘を鳴らすのは、天候院と音律局の立会人だけに許された仕事だった。
『その夜、鐘の中に抜け落ちた音があった』
彼の筆は、そこで止まった。
『誰も聞こえないと言った。けれど、僕には聞こえた』
私は息を詰めた。私と同じ力を、彼も持っていたのだろうか。
「それで、ひとりで直そうとしたんですか」
『違う。止めようとした』
エルドさんは新しい紙を出さず、古い紙の余白へ書き足した。
『鐘が鳴れば、王都の雨が貴族街だけへ落ちる。そう聞こえた』
星鐘は、天候を配るためのものだ。ならば、事故の夜にも改ざんされた譜面が使われていたことになる。
『僕は中へ入った。黒い音を抜こうとした』
彼の指が、喉元で止まった。
『その瞬間、誰かが僕の名前を呼んだ』
「誰が?」
エルドさんは答えなかった。答えられないのではなく、思い出すことを拒むように筆を置く。
次の瞬間、彼の喉から声が漏れた。声と呼ぶには細すぎる、擦れた息だった。けれど、確かに音だった。
エルドさんは驚いて喉を押さえた。私は反射的に彼の手首を掴む。
「無理に話さなくていいです」
彼の瞳が揺れた。
「あなたの声を奪ったのは、沈黙そのものじゃない。誰かが、あなたの名前と引き換えに、鐘へ閉じ込めたんです」
言い切ってから、私は自分の言葉に震えた。根拠はない。ただ、黒い音の中心にあった欠けた星が、あまりにも人の記憶を縛る響きをしていた。
エルドさんは私の手を見下ろし、そっと裏返した。指先で、私の手のひらへ文字を書く。
『君は、聞き分けてくれる?』
「はい。聞こえない音でも、抜け落ちた音でも。あなたが言えないことも、見つけます」
彼は長い間、私の手を離さなかった。
中央塔の星鐘が、再び三つ鳴る。四つ目の空白が、夜の底で口を開けていた。
その空白の向こうに、十年前の夜が待っている。王子の声を奪った、誰かの呼びかけとともに。




