音律局の検査日
朝、工房の戸に貼られていた紙には、今日の日付と王立音律局の印が押されていた。
臨時工房の設備および星鐘関連部品の検査。立会人は必ず在室すること。拒否した場合、無許可営業とみなす。
昨夜、エルドさんから聞いた十年前の話が、紙の白さの向こうでよみがえった。誰かが彼の名前を呼び、鐘の中へ声を閉じ込めた夜。その誰かが、今も音律局にいるのだとしたら、この検査は偶然ではない。
「帰ってきたら、局の人が来るんだね」
イネスが朝食の包みを作業台へ置いた。彼女は紙を読んで眉を寄せ、私の顔を覗き込む。
「怖いなら、私も残るよ」
「ありがとう。でも、検査されるのは私の仕事だから」
そう答えたとき、エルドさんが筆を走らせた。
『僕もいる』
彼は昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、いつもと同じ静かな目をしていた。ただ、紙の端を押さえる指だけが、少し強くこわばっている。
午前の鐘が二つ鳴ったころ、局員が三人、路地へ入ってきた。先頭は昨日の監督官補だった。後ろの二人は銀色の箱を抱えている。箱の蓋には、星を囲む七本の線が刻まれていた。
「臨時検査です。修理部品をすべて机の上へ」
「検査の範囲は、届け出に記載された星皿一枚と調律器具だけのはずです」
私は貼り紙の控えを示した。監督官補は一瞬だけ目を逸らし、すぐに笑った。
「検査の範囲を決めるのは、検査する側です」
イネスが息を呑む。エルドさんは何も言わず、私の隣で紙を一枚、作業台へ滑らせた。
『日付を確認して』
私は控えと局員の検査命令を見比べた。貼り紙には今日の日付。けれど命令書の発行日は三日前になっている。三日前、私たちはまだこの場所を工房にすると決めていなかった。
「この命令書は、工房の届け出より前に発行されています」
「事前調査です」
「それなら、対象の住所が違います。ここは昨日まで空き倉庫でした」
男の笑みが消えた。エルドさんが指先で紙の端を二度叩く。よく見れば、命令書の印には薄い二重線があった。押し直した跡だ。
局員の一人が銀箱を開いた。中から取り出されたのは、掌に乗る小さな星皿だった。表面には細いひびが走っている。ひびの周りに、雨を貴族街へ集める古い配分記号が刻まれていた。
「これを調べろ。抜けた音があるかどうか、君の耳で確かめればいい」
私は調律針を持った。星皿へ触れる前から、音が聞こえていた。
低い雨音。その下に、細く長い空白。さらに空白の縁へ、誰かが別の音を縫い付けている。昨夜、硝子管の中で消された黒い渦と同じ響きだった。
けれど、私はすぐには答えなかった。
「これは、どこで使われていたものですか」
「質問に答えろ」
「由来がわからない部品は、修理の記録を作れません。検査結果も同じです」
監督官補が机を指で叩く。
「異常なし、と書けば済む」
その言葉に、背中が冷えた。異常がないのではない。異常を見つけても、記録に残さないのだ。
私は星皿を裏返した。裏面には検査済みの刻印がある。だが、刻印の最後の線だけが新しい。線の中に、抜けた音を隠すための小さな切れ目があった。
「この刻印は、検査済みではありません」
「何だと?」
「検査をした人の署名音が欠けています。これでは、誰が何を確認したのか証明できない」
局員たちの顔が固まった。
エルドさんが紙へ書く。
『刻印は証明ではなく、上書きの鍵だ』
その文字を見た瞬間、星皿が震えた。私は反射的に調律針を離す。空白の底から、遠い鐘の四つ目の音が立ち上がった。誰かの声に似ている。呼びかける寸前で、喉を塞がれたような音。
エルドさんの肩が跳ねた。彼の手が喉元へ伸びる。
「エルドさん!」
私は星皿を布で包み、音を閉じ込めた。局員が奪おうと手を伸ばすより早く、作業台の縁へ調律針を突き立てる。針の先が床板を弾き、乾いた音が工房いっぱいに広がった。
「検査は終わりです。これ以上触れれば、部品を壊します」
「局の命令に逆らうのか」
監督官補が怒鳴った。
そのとき、エルドさんが一歩前へ出た。声は出ない。それでも、彼は局員の銀章を見つめ、胸元から王家の紋章入りの紙片を取り出した。第三王子の名は書かれていない。ただ、王宮の封蝋だけが押されている。
局員たちは青ざめた。誰も、彼が誰なのか口にしない。
監督官補は星皿を箱へ戻し、検査記録を作業台へ置いた。
「三日後、音律局本局へ出頭しろ。今度は、君の耳そのものを検査する」
彼らが去ったあと、私は記録用紙を拾い上げた。結果欄は空白だったが、余白にすでに一文字だけ刻まれている。
――不適合。
私たちが調べたからではない。調べる前から、そう決められていたのだ。
エルドさんは紙を見てから、私の手のひらへ指で文字を書いた。
『本局へ行く?』
「行きます」
怖さは消えなかった。けれど、あの空白の音を、もう聞かなかったことにはできない。
「検査されるのが私の耳なら、私の聞いたものを、全部記録させます」
エルドさんの指が止まる。それから、手のひらにゆっくりと一文字が残った。
『約束』
工房の外で、晴れた空から一滴だけ雨が落ちた。星鐘は鳴っていない。けれどその雨粒は、誰かに配られたものではなく、私たちが見つけた空白の上で、かすかに音を立てた。




