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沈黙の王子と、星を鳴らす音律師  作者: 銀細工ナギ


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5/20

仮の工房、二人分の沈黙

 イネスに案内された倉庫は、水路から二本裏の路地にあった。


 看板の外れた木戸を押すと、乾いた木の匂いと、古い弦の匂いが混ざって鼻をくすぐる。天井近くには細い明かり窓が三つあり、曇った空の光が、積み上げられた箱の上へ斜めに落ちていた。


「師匠が使わなくなってから、ずっと空っぽ。正確には、壊れたものだけが増えてるけど」


 イネスが箱を蹴ると、中で歯車がころりと転がった。


「空っぽのほうが、音を探すには都合がいいです」


 私は床へしゃがみ、指の背で板を叩いた。返ってきた響きは低く、少しだけ左へ寄っている。壁際に置かれた大きな作業台が、床下の空洞をふさいでいるらしい。


 エルド殿下は黙って外套を脱ぎ、作業台の端へ手をかけた。


「殿下、重いですよ」


 言ってから、ここではエルドさんと呼ぶ約束だったことを思い出す。殿下は眉を上げ、持っていた紙片にさらさらと書いた。


『今はエルドだ』


「……そうでした。エルドさん、そこを持ってください」


 殿下は満足そうに頷いた。


 二人で作業台を動かす。古い木が床を擦り、倉庫いっぱいに長い音を引いた。動かし終えた途端、明かり窓の向こうから、かすかな水滴の音が落ちてきた。


 屋根の上に残った雨受け皿から、昨夜の雨が一滴だけ垂れたのだろう。


 私は思わず耳を澄ませた。音はすぐに消えたが、倉庫の床下には、ほかの場所とは違う空白があった。響きが消えたのではない。何かが、音を待っている。


「ここなら、星皿を分解できます」


 私は持ってきた道具を並べた。細い調律針、音を一時的に閉じ込める硝子管、銀釘を抜くための絶縁布。それらを一つずつ置くたび、工房の輪郭が少しずつ現れていく。


 家の工房で私に許されていたのは、他人の作業台の隅だけだった。道具を置く場所も、使う順番も、誰かの許可が要った。


 けれど、ここには私の針が私の右手側にあり、硝子管が私の手の届くところにある。


 たったそれだけのことが、胸の奥を温めた。


「いい顔してる」


 イネスが言った。


「顔、ですか?」


「自分の場所を見つけた人の顔。仮だけどね」


 仮。その言葉に、エルド殿下の筆先が止まった。


 殿下は新しい紙を取り、少し考えてから書いた。


『仮でも、始めることはできる』


 その一文を見て、私は小さく頷いた。


 まず、イネスが持ってきた笛を分解した。濁っていた最後の音の奥に、銀釘から漏れた半音が絡みついている。笛の管を硝子管で囲み、調律針で余計な響きだけを拾う。


 針の先が震えた。


 エルド殿下がすぐに私の手元へ布を差し出す。前に水門へ触れたときから、殿下は私の指の動きをよく見ていた。私が疲れる前に道具を替え、音が強くなると窓を閉める。声がないぶん、伝わるものが多い。


「そこ、押さえてもらえますか」


 私は笛の継ぎ目を指した。


 殿下は頷き、長い指で木管を支えた。互いの手が近い。少し動けば触れてしまう距離なのに、どちらも余計なことを言わなかった。


 言えない人と、言わなくてもいい人。


 その違いを考えた瞬間、針が高く鳴った。


 私は音を逃がさないよう、硝子管の口を閉じる。中へ吸い込まれた半音は、黒い糸のように細く渦を巻いた。音の底に、別の響きが混じっている。


 雨を奪う半音ではない。遠い鐘が、誰かの声を押しつぶしたときのような、息の詰まる音。


 私は硝子管を光にかざした。黒い渦の中心に、ごく小さな刻印が浮かんでいる。


 縦線が二本。その間に、欠けた星の印。


「これは水門の銀釘にはありませんでした」


 エルド殿下が紙へ書く。


『古い型だ』


「ご存じなんですか?」


 殿下はすぐには答えなかった。紙の上で筆が迷い、やがて短く記される。


『十年前の星鐘に使われた印に似ている』


 倉庫の空気が変わった。


 イネスが顔を上げる。「十年前って、王子さまが声をなくした事故の?」


 殿下の指が、紙の端を強くつまんだ。


 私は返事を待たず、硝子管を布で包んだ。聞きたいことはあった。けれど、今ここで無理に尋ねれば、この人が閉じた扉を自分の手で叩き壊すことになる気がした。


「検査までに、下町の星皿を調べます。これは証拠として隠しておきましょう」


 殿下は私を見つめ、それからゆっくり頷いた。


 そのとき、外で馬車の車輪が止まった。音律局の検査が、予定より早く始まったらしい。木戸の向こうで、誰かが倉庫の名を読み上げている。


 イネスが息を呑んだ。


「もう来たの?」


 私は調律針を握った。作業台の上には、まだ直したばかりの笛がある。最後の音は戻っていた。小さくても、濁りのない音だった。


 エルド殿下は筆談の紙を裏返し、その白い面へ一言だけ書いた。


『ここを工房にする』


 私はその文字の隣へ、調律針を置いた。


「はい。今日から、ここは私たちの工房です」


 外では検査官が木戸を叩いている。


 返事をする声は、まだ二人分ともなかった。それでも、沈黙の中には三つの呼吸と、直された笛の澄んだ一音があった。


 仮の工房は、二人分の沈黙から始まった。

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