仮の工房、二人分の沈黙
イネスに案内された倉庫は、水路から二本裏の路地にあった。
看板の外れた木戸を押すと、乾いた木の匂いと、古い弦の匂いが混ざって鼻をくすぐる。天井近くには細い明かり窓が三つあり、曇った空の光が、積み上げられた箱の上へ斜めに落ちていた。
「師匠が使わなくなってから、ずっと空っぽ。正確には、壊れたものだけが増えてるけど」
イネスが箱を蹴ると、中で歯車がころりと転がった。
「空っぽのほうが、音を探すには都合がいいです」
私は床へしゃがみ、指の背で板を叩いた。返ってきた響きは低く、少しだけ左へ寄っている。壁際に置かれた大きな作業台が、床下の空洞をふさいでいるらしい。
エルド殿下は黙って外套を脱ぎ、作業台の端へ手をかけた。
「殿下、重いですよ」
言ってから、ここではエルドさんと呼ぶ約束だったことを思い出す。殿下は眉を上げ、持っていた紙片にさらさらと書いた。
『今はエルドだ』
「……そうでした。エルドさん、そこを持ってください」
殿下は満足そうに頷いた。
二人で作業台を動かす。古い木が床を擦り、倉庫いっぱいに長い音を引いた。動かし終えた途端、明かり窓の向こうから、かすかな水滴の音が落ちてきた。
屋根の上に残った雨受け皿から、昨夜の雨が一滴だけ垂れたのだろう。
私は思わず耳を澄ませた。音はすぐに消えたが、倉庫の床下には、ほかの場所とは違う空白があった。響きが消えたのではない。何かが、音を待っている。
「ここなら、星皿を分解できます」
私は持ってきた道具を並べた。細い調律針、音を一時的に閉じ込める硝子管、銀釘を抜くための絶縁布。それらを一つずつ置くたび、工房の輪郭が少しずつ現れていく。
家の工房で私に許されていたのは、他人の作業台の隅だけだった。道具を置く場所も、使う順番も、誰かの許可が要った。
けれど、ここには私の針が私の右手側にあり、硝子管が私の手の届くところにある。
たったそれだけのことが、胸の奥を温めた。
「いい顔してる」
イネスが言った。
「顔、ですか?」
「自分の場所を見つけた人の顔。仮だけどね」
仮。その言葉に、エルド殿下の筆先が止まった。
殿下は新しい紙を取り、少し考えてから書いた。
『仮でも、始めることはできる』
その一文を見て、私は小さく頷いた。
まず、イネスが持ってきた笛を分解した。濁っていた最後の音の奥に、銀釘から漏れた半音が絡みついている。笛の管を硝子管で囲み、調律針で余計な響きだけを拾う。
針の先が震えた。
エルド殿下がすぐに私の手元へ布を差し出す。前に水門へ触れたときから、殿下は私の指の動きをよく見ていた。私が疲れる前に道具を替え、音が強くなると窓を閉める。声がないぶん、伝わるものが多い。
「そこ、押さえてもらえますか」
私は笛の継ぎ目を指した。
殿下は頷き、長い指で木管を支えた。互いの手が近い。少し動けば触れてしまう距離なのに、どちらも余計なことを言わなかった。
言えない人と、言わなくてもいい人。
その違いを考えた瞬間、針が高く鳴った。
私は音を逃がさないよう、硝子管の口を閉じる。中へ吸い込まれた半音は、黒い糸のように細く渦を巻いた。音の底に、別の響きが混じっている。
雨を奪う半音ではない。遠い鐘が、誰かの声を押しつぶしたときのような、息の詰まる音。
私は硝子管を光にかざした。黒い渦の中心に、ごく小さな刻印が浮かんでいる。
縦線が二本。その間に、欠けた星の印。
「これは水門の銀釘にはありませんでした」
エルド殿下が紙へ書く。
『古い型だ』
「ご存じなんですか?」
殿下はすぐには答えなかった。紙の上で筆が迷い、やがて短く記される。
『十年前の星鐘に使われた印に似ている』
倉庫の空気が変わった。
イネスが顔を上げる。「十年前って、王子さまが声をなくした事故の?」
殿下の指が、紙の端を強くつまんだ。
私は返事を待たず、硝子管を布で包んだ。聞きたいことはあった。けれど、今ここで無理に尋ねれば、この人が閉じた扉を自分の手で叩き壊すことになる気がした。
「検査までに、下町の星皿を調べます。これは証拠として隠しておきましょう」
殿下は私を見つめ、それからゆっくり頷いた。
そのとき、外で馬車の車輪が止まった。音律局の検査が、予定より早く始まったらしい。木戸の向こうで、誰かが倉庫の名を読み上げている。
イネスが息を呑んだ。
「もう来たの?」
私は調律針を握った。作業台の上には、まだ直したばかりの笛がある。最後の音は戻っていた。小さくても、濁りのない音だった。
エルド殿下は筆談の紙を裏返し、その白い面へ一言だけ書いた。
『ここを工房にする』
私はその文字の隣へ、調律針を置いた。
「はい。今日から、ここは私たちの工房です」
外では検査官が木戸を叩いている。
返事をする声は、まだ二人分ともなかった。それでも、沈黙の中には三つの呼吸と、直された笛の澄んだ一音があった。
仮の工房は、二人分の沈黙から始まった。




