雨のない下町
翌朝、貴族街の石畳は濡れていた。
空は薄曇りで、雨は降っていない。それなのに王宮へ続く坂道の両脇には、昨夜の水たまりが残っている。磨かれた石の溝を、細い水が絶えず流れていた。
坂を下るにつれ、その水は減っていった。
王都の中央を横切る大水路には、銀色の雨が集まっている。貴族街の庭園へ向かう分水路は満ちているのに、下町へ分かれる水門の向こうは乾いていた。底に張りついた泥が、ひびの入った皮膚のように白く固まっている。
「同じ王都なのに、ずいぶんな違いですね」
隣を歩くエルド殿下は、濃紺の外套の下で小さく頷いた。王子だと知られないよう、髪を隠す帽子をかぶっている。声を封じられている殿下は、目立たないという意味では都合がよかった。けれど、沈黙する人はかえって見られる。私は人々の視線が殿下へ集まるたび、さりげなく前へ出た。
殿下は紙を差し出した。
『水の音が薄い』
「はい。水路が空だからだけではありません。ここは雨そのものが届いていない音です」
私はしゃがみ込み、乾いた水路の縁へ耳を近づけた。遠くで水車が回る音、荷車の軋む音、店先で鍋を置く音。その下にあるはずの星鐘の余韻だけが、ぽっかり抜け落ちている。
音律師の耳は、鳴っているものだけを聞くのではない。そこにあるべき音がないとき、その空白の形まで分かる。
空白は、水門から下流へ向かって細長く伸びていた。
「雨を止めているのではなく、途中で別の道へ移しています。星鐘の譜面にある分配の音が、ここで一つ抜かれているんです」
殿下は水門の金具を調べた。錆びた扉の内側に、新しい銀釘が三本打ち込まれている。釘の頭には細い縦線の刻印があった。昨夜、旧記録の黒い蝋に見つけたものと同じだ。
私が調律具を取り出したとき、水路の向こうから声が飛んできた。
「そこの二人、水門に触るなら役所の許可を取って!」
振り返ると、木箱を抱えた少女が立っていた。栗色の髪を布でまとめ、袖を肘までまくっている。箱の中には、弦の切れた小さな楽器と、歯の欠けた歯車が詰まっていた。
「勝手に触ったわけではありません。調べているだけです」
「調べてる人は、だいたいそう言うの。で、調べ終わったら『異常はありませんでした』って帰る。水のない水路を見て、異常なしはないでしょう」
少女は水門を睨み、それから私の手元の調律具を見た。
「あなた、音律師?」
「見習いに近いですけど」
「なら、これを聞いてみて」
少女は箱から木製の笛を取り出した。表面に何度も修理した跡がある。息を吹き込むと、音は出たが、最後の一音だけがひどく濁った。
「昨日からこう。水路の音が消えたのと同じ時刻に、こいつも鳴らなくなった」
私は笛を受け取り、穴を一つずつ指で塞いだ。濁りの原因は木ではない。内部に残った魔力が、別の音へ引かれている。水門の銀釘から漏れる、低い半音のせいだ。
釘の一本へ調律具を当てる。
びり、と指先が震えた。
耳の奥で、雨粒の音が反転する。降るはずの水を押し返し、上流へ吸い上げるような響きだった。私は反射的に具を離した。長く触れていたら、耳を焼かれていたかもしれない。
殿下の手が、私の手首をつかんだ。
驚いて顔を上げる。殿下は何も言えない代わりに、強い目で私を見ていた。大丈夫だと伝えようとしたが、握られた手の温度に、言葉が一拍遅れた。
殿下は紙へ急いで書いた。
『無理をするな』
「無理をしないと、誰もこの水路を直せません」
言い返してから、少しだけ後悔した。殿下の眉が曇ったからだ。
けれど、少女がふっと息を吐いた。
「あんたたち、喧嘩するなら水のある場所でやってよ。ここじゃ声が乾く」
冗談めかした言い方に、私は思わず笑った。殿下も口元をわずかに緩める。
「私はリセラ・ノートです。こちらは……エルドさん」
身分を隠すための名を、殿下はあらかじめ決めていた。
「私はイネス・ラウト。楽器職人の見習い。下町の音なら、だいたい覚えてる」
イネスは水路沿いの建物を指した。屋根の上には、雨を受けるはずの小さな星皿が並んでいる。そのうち半分が、貴族街へ向けて傾けられていた。
「昨日、音律局の人が来て、星皿の向きを変えたの。『王都全体の調整だ』って。だけど、あの人たちが帰ったあとから、下町の鐘は鳴らない」
私は屋根を見上げた。星皿を固定する留め具にも、細い縦線が刻まれている。
「証拠になります」
殿下が書いた紙を読む。けれど、次の瞬間、通りの向こうで馬車が止まった。
灰色の制服を着た男が二人、降りてくる。音律局の腕章。先頭の男は、水門と私たちを見比べてから、冷たい声を出した。
「そこを離れなさい。下町の分水は、今年の契約で変更されている」
「契約の記録を見せてください」
私が言うと、男は笑った。
「職人の娘が、局の契約を疑うのか?」
胸の奥が痛んだ。昔から聞き慣れた言葉だった。名もない修理役。余計なことを聞くな。決められた音だけ直せばいい。
そのとき、殿下が私の前へ立った。
背は私より高い。けれど、何かを隠すように立つ姿は、王子というより一人の人だった。殿下は男へ紙を見せる。そこには、王宮の封蝋が押されていた。
『調査は私の許可を得ている』
男の顔色が変わった。身分までは分からなくても、王宮の印を無視できないらしい。
「……では、明日の検査で確認する。勝手な修理をしたら、そちらの責任だ」
馬車が去ると、乾いた風が水路を通り抜けた。
イネスは屋根の星皿を見上げる。
「明日の検査って、壊れたものを直す検査じゃないよ。あれは、下町の工房を閉めるための検査」
「工房を?」
「音が狂ってるって理由をつけて、道具を持っていくの。うちの師匠の店も、先月それで封鎖された」
イネスは箱を抱え直した。中の歯車が、かすかに鳴った。
「だから、ここを直せるなら直して。雨が戻れば、局の言い分も少しは崩れる」
私は水門の銀釘を見た。今の道具だけでは抜けない。安全に音を分ける場所と、数種類の調律具が要る。それに、雨を受けていた星皿を一つずつ調べるなら、屋根のある作業場も必要だった。
殿下へ視線を向ける。殿下は私の考えを察したように、紙へ書いた。
『作業場所を探そう』
イネスがすぐに手を挙げた。
「それなら、私の師匠の空き倉庫を使える。ぼろいけど、屋根はあるよ」
雨のない下町で、初めて次の音が聞こえた気がした。
それは、遠くのどこかで水が落ちる音だった。ほんの一滴。けれど、乾いた水路の底に残ったひびへ、確かに届いている。
私は調律具を握り直した。
「明日の検査までに、原因を見つけます」
殿下は頷き、イネスは笑った。
空にはまだ雨雲がない。それでも、止められた雨の行き先は、少しずつ見え始めていた。




