ひび割れた譜面
沈黙していた星鐘の震えは、ほんの一度きりだった。
銀の譜板を机へ戻すと、耳の奥に残っていた半音も、薄い霧が晴れるように消えていく。けれど、消えたからといって何もなかったことにはならない。音は聞こえなくなっても、聞き分けた記憶まで失われるわけではなかった。
エルド殿下は窓辺から戻り、観測室の扉に鍵をかけた。声の代わりに、いつもの紙を私へ差し出す。
『今の振動を感じたか』
「はい。譜板の空白から響きました。星鐘本体ではありません」
『ならば、譜板の下に別の層がある』
殿下は机の引き出しから、折り畳まれた譜面を取り出した。王立音律局の印が押された正式な写しだ。紙は黄ばんでいるが、保存状態は悪くない。七つの音符と、雨を配る順番を示す記号。その中央には、前日に見た譜板と同じ空白があった。
私は譜面を受け取り、窓から差す光へかざした。
最初は何も見えなかった。だが、紙をゆっくり傾けると、中央の空白の両脇に細い線が浮いた。ひび割れのような線は音符の間を走り、紙の端で途切れている。
「これは汚れではありません」
調律具の先でそっと触れる。紙は乾いているのに、触れたところだけ小さく震えた。
「譜面を二枚重ねて、上の一枚だけを削った跡です。下の譜面に残った線が、ひびのように透けている」
殿下はすぐに別の紙へ書いた。
『元の譜面を取り出せるか』
「無理に剥がせば、下の音も壊れます。でも、音で接着の弱い場所を探せば……」
私は鞄から細い銀針と、母が使っていた黒い小箱を取り出した。小箱の蓋には、今はもう欠けているノート家の紋が彫られている。
母は、修理の前に必ず紙を指で叩いた。父には癖だと笑われていたが、私はその意味を知っている。紙にも固有の響きがある。新しい紙は高く、古い紙は低い。魔法を含んだ紙は、指の腹にかすかな返事をする。
譜面の端を、一定の間隔で叩いていく。
高い。低い。低い。低い。
中央へ近づくほど、音が濁った。誰かが上から別の紙を貼り、魔法のインクで文字を書き換えたのだ。ひび割れた線は、その境目を隠すために刻まれたものらしい。
銀針を差し込むと、紙の奥から小さな音がした。
――ミ、ではない。
ミより半音低く、雨粒が石を打つ直前のような音。
「ありました」
思わず声が漏れた。殿下が身を乗り出す。
私は針を抜き、空白の下に残された音の並びを指で追った。七つの音ではない。八つ目の音が、譜面の余白に隠されている。音符の頭には、星鐘の記号ではなく、古い音律師だけが使う印があった。
胸がざわついた。
「この印……母の譜面で見たことがあります」
母は私が八歳のころ、誰にも触らせない譜面を一冊だけ持っていた。夜になると工房の奥で開き、何度も同じ箇所を指でなぞっていた。私が尋ねても、「まだ直せない音なの」と言って閉じてしまう。その譜面の端に、同じ星形の印があった。
殿下の筆が止まり、紙の上でゆっくり動いた。
『君の母君は、星鐘の仕事をしていたのか』
「昔、王立音律局の外部調律師だったと聞いています。けれど、父は詳しい話をしません。母は十年前の事故のあと、音を聞く力を失って……」
そこまで言って、私は口を閉じた。
母が力を失ったのは事故のあとだと、ずっと思っていた。けれど母は、事故の話をすると決まって同じ言葉を口にした。
――音を失ったんじゃない。誰かに、聞こえない場所へ押し込められたの。
子どもの私には意味が分からなかった。今なら、その言葉がただの比喩ではないと分かる。
殿下は譜面のひびを見つめていた。やがて、紙の端へ一行を書いた。
『この写しは、どこから』
「音律局の保管庫ですか」
『違う。王宮の旧記録室に、廃棄予定として封じられていた』
殿下は封印の跡を示した。王立音律局の赤い印の上から、別の黒い蝋が重ねられている。しかも黒い蝋には、局の紋ではない細い縦線が一本だけ刻まれていた。
私はその印を見た瞬間、指先が冷たくなった。
「この印を、昨日の譜板でも見ました。空白の縁に、同じ傷があります」
ひび割れは偶然ではない。誰かが元の譜面を隠し、その上から雨の順番を書き換えた。そして、八つ目の音を抜いた。
殿下は立ち上がると、机の上の紙を私へ向けた。
『明日、下町の水路を見に行く』
「水路を?」
『譜面が変えられたなら、雨が届かない場所に記録が残る。水は嘘をつかない』
王子が自分で下町へ出る。それだけで危険は大きい。だが、私は断らなかった。譜面のひびの奥で、消された音がまだ息をしている。母が聞き取れなかった場所へ、私の耳なら届くかもしれない。
帰り際、殿下は新しい紙に、少し迷ってから書いた。
『君の母君のことも、調べてよいか』
私はすぐには答えられなかった。母の過去を知れば、戻れない気がしたからだ。
それでも、ひび割れた譜面を見下ろす。隠された音は、誰かが見つけるまで消えたままになる。
「お願いします。ただし、私も一緒に調べます」
殿下は頷いた。
その頷きは、命令を受け入れる王子のものではなかった。秘密を分け合う人のものに見えた。
窓の外で、星鐘がまた震えた。
今度は音にならなかった。けれど、ひび割れた譜面の奥から、確かに雨の匂いがした。




