聞こえない王子の依頼
翌朝、ノート工房の屋根を叩くはずの雨は降らなかった。
雨を配る星鐘が黙ったのだから当然だ、と父は言った。天候院から届いた通達には、調査が終わるまで不要な外出を控えよとある。けれど工房の職人たちは、いつもどおり壊れた鐘を運び込み、いつもどおり私に細かな修理を押しつけた。
「リセラ、昨日の広場で余計なことを言ったそうだな」
父の声に、私は細いばねを指先でつまんだまま顔を上げた。
「抜け落ちた音があると言っただけです」
「音律局の検査官でもないくせに、王都の鐘を語るな。カシウス様とのことも済んだのだ。もう目立つ真似はするな」
婚約を解かれたことを、父は「済んだ」と呼んだ。昨日、皆の前で切り捨てられた私の未来は、紙一枚のように軽いらしい。
反論しかけたとき、工房の扉が三度鳴った。客なら二度、配達なら乱暴に一度。三度目の間隔は、王家の使者が使う合図だった。
濃紺の外套を着た青年が、銀の封蝋を掲げる。
「リセラ・ノート嬢。第三王子エルド・ヴァルカ殿下より、内密の依頼です」
父の顔色が変わった。私は封筒を受け取った。中には簡潔な呼び出し状と、王家の紋章を刻んだ小さな金属片が入っていた。金属片は鐘の舌に似ているのに、触れても音がしない。
王子からの依頼なら断るべきだ、と父は目で訴えた。けれど私は、呼び出し状の末尾にある一文を見ていた。
『あなたにしか聞き分けられないものを、確かめたい』
私は工房の誰にも借りを作らないよう、修理代の前金と、私個人の名で記録を残すことを条件にした。使者は少し驚いたあと、了承の印が押された書面を差し出した。
王宮の西棟にある小さな観測室で、エルド殿下は私を待っていた。
噂どおり、声のない人だった。
第三王子といえば、十年前の星鐘事故で声を封じられた王子。王位継承の話から遠ざけられ、宮廷では存在しないも同然に扱われている。けれど目の前の人は、噂の中の弱々しい王子とは違った。黒い髪を後ろで束ね、背筋を伸ばして立ち、私が部屋に入るなり、机上の紙へ手早く文字を書いた。
『来てくれて感謝する』
「こちらこそ、お招きいただき光栄です」
『堅苦しい挨拶は不要だ。声が出ないだけで、聞こえないわけではない』
彼は少しだけ口元を緩めた。筆談の文字は端正で、迷いがない。私はその紙に返事を書く代わり、持参した調律具を机へ置いた。
「私に何を聞かせたいのですか」
殿下は観測室の奥から、布に包まれた細長い箱を取り出した。蓋を開けると、中には星鐘の内側に取り付ける銀の譜板が収まっていた。表面には七つの音を示す刻印があり、中央の一つだけが削り取られている。
『三日前、王都の雨量が地区ごとに不自然に分かれた。貴族街には降り、下町にはほとんど降らなかった』
「星鐘は王都全体へ雨を配るものでは?」
『本来はそうだ。だが、現在使われている誓約譜には、地区ごとの優先順位が記されている』
殿下は別の紙を広げた。王立音律局の印が押された写しだった。譜面の一部だけ筆圧が違う。後から書き足されたように見えるが、普通の人には見分けられない程度だった。
『この譜面が改ざんされていると思っている。証拠を探したい』
「それで、私を?」
『昨日、中央広場の鐘を見上げて、抜け落ちた音を指摘した。あれは私が十年前の事故以来、探している音と同じだ』
十年前。殿下の声を奪った事故。
触れてはいけない傷に思えた。それでも、箱の中の譜板から耳を離せない。私は銀の小さな音叉を取り出し、刻印の一つひとつを叩いた。
低い音。乾いた音。雨粒のような音。
そして、中央の削られた場所で音叉を止めた。
何も鳴らない。
なのに、耳の奥だけが痛んだ。
「……ここに、本来なら半音が入ります」
殿下の筆が止まった。
「削られたのではありません。音を置く場所ごと、別の誓約に差し替えられている。だから鐘は鳴っているように見えて、雨を送る順番だけが変わるんです」
私は譜板の端を指でなぞった。冷たい銀の下から、ごくかすかな振動が返ってくる。誰かが消した音は、完全には消えない。音律師である母に教わった、たった一つの原則だった。
殿下は紙に一行を書いた。
『その音を、戻せるか』
「戻すだけならできます。でも、誰が消したのかを知らなければ、また消されます」
『だから依頼した。修理ではなく、調査を』
王子の文字は、そこで初めてわずかに揺れた。
『報酬は相場の三倍。あなたの名を記録に残す。危険が及んだ場合は、私の権限で守る』
「一つ、追加してもよろしいでしょうか」
私は背筋を正した。
「私を、誰かの助手としてではなく、音律師として雇ってください。調査の結果が間違いでも、私の名前で報告できるように」
殿下はしばらく私を見た。それから、迷いなく頷いた。
『約束する』
その二文字を見た瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。
観測室の窓の外で、沈黙していたはずの星鐘が震えた。音は一つだけ。雨を呼ぶ鐘の音ではなく、削り取られた譜板の空白から漏れたような、聞き覚えのない半音だった。
エルド殿下が窓へ駆け寄る。私は譜板を握りしめた。
消された音は、王都のどこかでまだ生きている。
そしてその音は、声を失った王子の過去へ続いていた。




