婚約を失った日に、鐘は黙った
婚約を解かれた日、王都には雨が降るはずだった。
天候院の大広間、その中央に吊られた星鐘が、薄青い光をこぼしている。天井の高い窓の向こうには雲が集まり、遠くの空で春雷が鳴っていた。星鐘が三度鳴れば、王都の屋根を濡らす恵みの雨が始まる。
けれど、鐘は鳴らなかった。
代わりに、壇上のカシウスが淡々と言った。
「リセラ・ノート嬢との婚約を、ここに解消する」
ざわめきが広がった。祝宴のために並べられた銀の杯が、誰かの手に押されて小さく震える。
リセラは胸元の青いリボンを見下ろした。ノート家の工房で使う、安い染料の色だ。今日のために母の古い箱から探し出したものだった。
「理由を、お聞かせください」
声は思ったよりよく通った。
カシウスは視線をそらさなかった。天候院の後継者らしい、隙のない顔だった。幼いころから知っている顔なのに、今は工房の棚に置かれた見知らぬ器具のように見える。
「家同士の釣り合いが取れない。君の技術は、我が家の名に添えるには地味すぎる」
「私の技術ではなく、家の名が必要なのですね」
「そういうことだ」
簡単な返事だった。
リセラは笑おうとした。泣けば、相手の決めた筋書きに自分まで従う気がしたからだ。
「では、婚約を失った代わりに、私の仕事まで失う必要はありませんね」
広間の端で、ノート家の職人たちが身じろぎした。リセラが何年も修理してきた星鐘の部品は、いつも別の職人の名で納品されていた。抜け落ちた一音を聞き分ける耳も、壊れた術式の癖を見抜く指先も、家の帳簿には記録されない。
それでも、これからは自分の名で仕事を取れる。そう思えば、胸の奥に細い芯が残った。
その瞬間だった。
星鐘の光が、ふっと消えた。
窓の外で雷が弾ける。大広間にいる全員が、次に来る音を待った。
しかし、音は来なかった。
鐘の内部には、雨を呼ぶための十二の音が仕込まれている。高い音から低い音へ、季節を巡る順番に響くはずだ。リセラには、音の並びが見えるように感じられた。見えない糸が一本ずつ張られ、最後に結び目がほどける。
十二のうち、十一まではそこにあった。
足りない。
音がないのではない。そこにあるはずの音だけが、誰かに抜き取られている。
「星鐘が……」
誰かが呟いた。
衛兵が窓へ駆け寄り、院長が鐘の下に立つ。外から見える王都の星鐘も、ひとつ、またひとつと光を失っていた。貴族街の尖塔も、商人街の時計塔も、下町の古い鐘楼も、同じ沈黙に沈んでいく。
やがて、雨粒が一つだけ窓を打った。
それきりだった。
広間は騒然となった。天候院の役人は責任の押しつけ合いを始め、貴族たちは濡れない庭の心配をし、カシウスは婚約解消の書類をしまうよう従者に命じた。
誰も、星鐘の沈黙がどんな形をしているか聞こうとはしない。
リセラだけが聞いていた。
遠い場所から、かすかな金属音がする。鐘が鳴った音ではない。鳴れなかった音が、空洞の底で震えている音だ。
リセラは人の波をすり抜け、広間の外へ出た。婚約を解かれた女を追う視線など、もう気にならなかった。工房へ戻り、道具箱を取らなければならない。名のない修理役のままではなくなるのなら、今日から必要になるのは、泣くための場所ではなく仕事場だ。
階段を下りたところで、黒い外套の男とぶつかりそうになった。
男は一歩退き、無言で彼女を見た。
王家の紋章を留めた銀鎖。淡い灰色の瞳。声を失った第三王子、エルド・ヴァルカだった。
彼は胸元から小さな書字板を取り出し、慣れた手つきで文字を書いた。
『今の鐘に、何を聞いた』
問いかけというより、確かめるための文だった。
リセラは書字板と王子の顔を見比べた。王子が声を失った理由を、彼女は知らない。ただ、周囲の人々が沈黙を欠陥のように扱うことだけは知っていた。
だから、すぐには答えなかった。
大広間から、役人たちの怒鳴り声が響く。外では、雨を待つ街が息をひそめている。
リセラは自分の指先を見た。今日、ひとつの約束は他人の都合で切れた。けれど、耳に届いた異常まで手放すつもりはない。
「抜け落ちた音が、ひとつあります」
エルドの瞳がわずかに揺れた。
彼は書字板に、今度は短く記した。
『それを探せるか』
リセラは青いリボンをほどき、道具箱の取っ手に結び直した。婚約のために選んだ色を、これからは自分の仕事の印にする。
「探します。私の名前で」
星の鐘が黙った王都で、声のない王子と、婚約を失った音律師は向き合った。
そのとき、空のどこかで、誰にも聞こえないはずの一音が震えた。




