十年前の無音
階段を上ってくる足音が、ひとつではない。
乾いた靴音の間に、金属章が手すりへ触れる音が混じっていた。七本線。音律局の監督官付きにだけ許された章だ。
エルドさんは私の手を離さなかった。声の代わりに、指先が手の甲へ走る。
――上へ。
「でも、鐘のところは行き止まりです」
彼は首を振り、吊られた星鐘を見上げた。青黒い鐘の背後、壁と梁の隙間に、細い光が漏れている。
私は調律針を取り出し、壁の継ぎ目をなぞった。三つめの石だけが、かすかに高い音を返す。針の先で押すと、石が奥へ沈み、隠し扉が開いた。
中は人ひとりが身をかがめて通れるほどの空洞だった。エルドさんが先に入り、私を引き込む。扉が閉まった直後、鐘楼の階下で荒い声がした。
「王子殿下がここへ入った形跡は?」
「ありません。旧鐘は空鐘です」
「ならば底を調べろ。金属板を回収し、名前が残っていれば削り落とせ」
息が止まった。
名前を消す。母の名前を、また。
空洞の壁は、古い鐘の内側に接していた。掌を当てると、冷たい金属の奥から震えが伝わってくる。さっきの金属板を胸元から出し、刻印へ指を置いた。
音がした。
今の鐘楼ではない。十年前の、まだ星鐘が空を満たしていた夜の音だった。
高い天井。大勢の人の衣擦れ。祝祭用の星皿が鳴り、雨を呼ぶための十二音が順番に重なっていく。
その中に、ひとつだけ抜け落ちた音があった。
私は耳を澄ませた。音のない場所は、完全な無ではない。鳴るはずだったものが消えた跡には、周りの音が不自然に沈み込んでいる。
――ここに、誰かが音を入れ替えた。
『聞こえるのか』
隣でエルドさんの筆が動いた。私はうなずき、彼の手首を金属板へ導く。
音の記憶が、もう一度ひらいた。
幼い少年の声がする。今より少し高く、けれどよく似た声だった。
「僕が読みます。父上から渡された誓約です」
王子の声に、星鐘が応じる。ところが、二つめの音で鐘全体が歪んだ。
誰かが叫ぶ。
「止めろ、譜面が違う!」
母の声だった。
ミレアはその場にいた。音律師として、書き換えられた譜面を聞き分けたのだ。けれど、別の男の声が重なった。
「続けてください、殿下。王家の声がなければ、誓約は成立しません」
落ち着いた声。冷たい金属のような響き。
次の瞬間、すべての音が消えた。
鐘の振動も、人の叫びも、少年の声も。空気そのものが真空になったように、耳の奥だけが痛む。
最後に残ったのは、母の声だった。
「王子の声を封じたのは、鐘ではない。命令を入れ替えた人間よ!」
記憶はそこで途切れた。
私は息を吸えず、壁に背を預けた。隣のエルドさんも動かない。白い指が、紙の上で止まっている。
やがて彼は、震える字を書いた。
『あの夜、僕は声を失った。目が覚めたとき、医師は「鐘の反動だ」と言った』
続く文字は、何度も書き直されていた。
『でも、僕は覚えていない。最後に聞いた声が、自分の声だったのかさえ』
「エルドさん」
私は彼の紙を押さえた。
「聞こえなくなったんじゃありません。奪われたんです」
彼の瞳が揺れた。王子としてではなく、十年前に誰にも真実を告げてもらえなかった少年として。
扉の向こうで、工具が鐘の底を叩く音がした。見つかるまで、時間はない。
私は金属板を裏返した。刻印のない面に、細い溝が一本だけ走っている。調律針を差し込むと、空洞の床が低く鳴り、壁の奥から小さな黒い欠片が転がり出た。
欠片には、七本線の章と同じ意匠が刻まれている。その下に、日付と短い記録があった。
――王子の声、封印完了。確認者、ミレア・ノート。異議あり。
母は、事故の目撃者だった。いや、目撃しただけではない。異議を唱えたから、名前を消され、姿まで消されたのだ。
エルドさんが紙を差し出した。
『母君は、僕を救おうとしたのか』
「はい。たぶん、最後まで」
彼は目を伏せた。私は迷った末、その手を握った。
「だから今度は、私たちが聞き届けます。母の音も、エルドさんの声も」
返事の代わりに、彼の指が私の指を強く握り返す。
隠し通路の先には、鐘楼の外へ続く古い排水路があった。冷たい泥水をかき分け、私たちは夜明け前の路地へ出る。背後で扉が破られ、誰かが怒鳴った。
朝の空には、雨雲がない。
それでも、遠い貴族街の星鐘が一度だけ震えた。鳴らないはずの鐘が、失われた音の形を探すように。
エルドさんは新しい紙に、ゆっくりと書いた。
『僕は、あの夜の続きを知りたい』
「私もです」
そして彼は、少し考えてから、もう一行を足した。
『君と一緒に』
その短い言葉は、まだ声ではない。けれど、十年前に閉ざされた無音の向こうから届いた、確かな約束だった。




